第21話 『9月9日21時』

「ねえ、ゲームしようよ」

 それは、明らかに退屈している夏海からの提案だった。

 彼女は居間の床で大の字に横たわったまま、天井を仰いでいる。

「どんなゲームがしたいの?」

 眉をひそめながら、俺はそう訊いた。

 おそらく、ボードゲームのことだろう。俺にとって、夏海はテレビゲームが好きな人には見えないから。

「んー、トランプとか、将棋とか、あと囲碁も楽しそうだけど」

 やっぱり彼女はボードゲームが大好きなのか。残念ながら、俺の家には一つしかない。それは、子供の頃に父がくれた碁盤なのだ。そういえば、どこに置いたっけ……。

「碁盤はあるんだけど、まずはちょっと探しに行かないとね」

「大丈夫。あたしも手伝うから」

 言って、夏海は床から立ち上がり、少しずれたスカートを手で直した。そして、彼女は俺についてきた。

 俺は居間を出て階段を上り、廊下を自室のドアまで進んだ。

 自室に入ってから、俺は部屋の一角に置かれた押入れに向かい、開けた。すると、土埃つちぼこりが出てきた。

「それ、随分汚くなっちゃったみたいね」

 後ろから夏海の声が聞こえてきた。

 この押入れは物置のように使っているので、あんまり開けないし、ほとんど掃除しない。俺が生きている間、四、五回しか掃除されなかったかな。

 俺は咳払いをしてから、頭を押入れに突っ込み、碁盤を探し始めた。

 そして、十分後。

 押入れの中身は全部床にぶちまけられ、自室が歩きにくくなってしまった。

「碁盤、見つけたよ」

 俺がそう言うと、夏海は唐突にここに駆けつけてくる。

 しかし、このまま歩くのは危険すぎるのだ。足を刺してしまうかもしれないし、つまずいてしまうかもしれない。

 だから、俺は夏海を呼び止めておいた。

「とりあえず廊下で待ってください、夏海。床を歩くのは危ないんだから」

「でも……」

 夏海は名残惜しげに部屋の中で立ち止まった。おそらく、押入れが気になっていて見たかったのだろう。

「ところで、クッキーはまだ残っているよ。居間に戻って食べたら?」

 俺の提案に、夏海は再び廊下に身体からだを向けた。

「……わかった」

 その姿を見送ってから、俺は自室の掃除に取り掛かった。


 結局、掃除は二十分もかかってしまった。

 俺は少しくたくたになったし、正直碁を打つ気力を失った。しかし、夏海と約束したので、この期に及んでそれに背いてはいけない。

 長い間しゃがみ込んでいたせいか、足が酷くしびれた。立ち上がると奇妙な感覚が身体中に走った。

 俺は碁盤を両手で運びながら、慎重にゆっくりと階段を下りた。そして、俺が居間に近づくと、夏海はドアを開けてくれた。

「碁盤、見つけてよかったね」

 言って、夏海は俺を催促するように、居間の真ん中にできた空間を指差した。

 俺は言われるがままそこに向かう。

 碁盤は思ったより重く、少し痺れた足のせいで足取りがおぼつかない。幸い、俺は無事に夏海が指差したところにたどり着いて、碁盤を置いた。

 途端、夏海は突然碁盤の後ろに正座した。

「囲碁のルールは覚えているよね?」

 その質問は、まるで俺の記憶力を試しているようだった。

 俺は目をつぶり、記憶をたどってみた。他のボードゲームに比べて、囲碁のルールは簡単だと思う。だから、もう少し頑張ればルールを思い出せるはずだ。


⯁  ⯁  ⯁


 それは、今日とは対照的に、晴天の日だった。

 窓から差し込んでくる陽射しが碁盤の上を照らしている。

 俺はその碁盤の前に座っており、父に囲碁のルールを教えてもらっている。

 白石、黒石、地の数え方。誰にも勝てるような戦略。

 俺たちが碁を打つたび、彼はいつも堂々と黒石を置き、次第に碁盤の上を黒に塗り潰していく。

 当時の俺は頑張って白石を戦略的に置いても、勝ったことが今まで一度もなかった。

 だから、彼のアドバイスを思い出せば、夏海に負けるはずがない。

 

⯁  ⯁  ⯁


「ああ、よく覚えてるよ。じゃあ、夏海は白石か黒石、どっちが好き?」

「あの……。白石かな」

 よし。それなら、俺は父の作戦で勝てるだろう。

 黒番だ。俺は一子の黒石を手に取り、碁盤に置いてみせる。


「あたしは手加減なんてしないからね」


 言って、夏海は俺の真似をした。

 それから、俺たちは何も言わずにいた。石を碁盤に置くたび、トンという音が静まり返った居間に響き渡る。

 正直、夏海は思ったより上手。

 ゲームを始める前は絶対に勝つと思ったけど、今は勝てるかはわからないのだ。父の戦略はうろ覚えだし、そもそも俺は囲碁が上手ではなかった。

「あれ、困っているわね」

 夏海は長い沈黙を破った。しかも、俺を舐めやがっている。

 俺は意を決して、夏海と目を合わせた。勝たないわけにはいかない。俺は名誉を守るために、君を倒してみせるのだ。


「ただ次の一手を考えているんだ。調子に乗るなよ。それに……俺は絶対に勝ってみせるから」


 その宣言に、夏海は鼻を鳴らし、俺を石を置くように促す。

 俺は彼女の催促を気にせず、じっくりと碁盤に目を通す。すると、俺は夏海の間違いに気がついた。それは、戦況を一変させるような大間違いだったのだ。

 このチャンスを活かさなければ、勝てないかもしれないから。

 また俺の番が来た。俺は碁笥ごけに手を突っ込み、黒石を一子手に取る。そして、思い切って碁盤の上に置く。今回はトンとではなく、ドンと音がした。その音は、俺の強い意志を表しているのだ。

 夏海の表情がぱっと変わり、彼女はぽかんと口を開けたまま俺を見ている。

「そんな……」

 彼女は事情を否定しようとしたけど、どうやら言葉を失ったようだ。

 こうして、勝負の天秤は俺のほうに傾いている。とはいえ、俺が勝ったわけではない。このゲームはおそらくまだ中盤なので、調子に乗るにはまだ早い。夏海と同じように大間違いは犯したくないし。

 俺は次のターンを大人しく待ちながら、鋭い眼差しを夏海に送る。

 しかし、彼女はなかなか思うように動じてくれない……。


 雨音が激しくなると同時に、ゲームはいよいよ終盤に入った。

 俺は勝っていても負けていてもない。ただ、ゲームが終わるまで凌ごうとしているのだ。さながら雨宿りしている俺たちかのように。

 夏海は碁笥から白石を一子手に取って、握りしめる。彼女はどこに置けばいいのかわからないのか、碁盤の上に手をあてもなく動かしている。

 結局、夏海はその白石を碁盤に置かず床に置いた。そして、彼女はおもむろに立ち上がった。

「あたし、最後のクッキーが食べたいけど、いい?」

 言って、夏海は俺に視線を向けてきた。

 その情けない目で見つめられて、俺は否定できなくなった気がする。とにかく、俺たちの作ったクッキーが美味しいとはいえ、腹には限界がある。正直、俺はもう何も食べたくなかった。

 だから、俺は最後のクッキーを夏海に譲っても構わないだろうと思った。

「ああ、大丈夫」

 夏海は嬉しそうな表情を浮かべて、クッキーが置かれたお盆に駆けつけた。彼女は最後のクッキーを手に取ってからきびすを返し、こちらに戻ってきた。

 歩きながら、夏海はクッキーを頬張っている。

 食べている間、崩れたクッキーのくずが四方八方に飛び散る。そして、かなり大きな部分が崩れてしまい、床に落ち始めた。

 夏海はそれを受け止めるために突然手を伸ばした。しかし、そうすると彼女はバランスを崩し、前のめりになってしまった。

「な、夏海……!」

 俺はそう叫んでも、何も変わらなかった。

 次の瞬間、突拍子もないことが起こった。


 ――夏海が盤上に倒れたのだ。


 白石と黒石が宙を舞い、雨のように降ってくる。俺の視線は白黒の色で埋め尽くされている。

 そして、何十個もの碁石が俺の頭を直撃した。幸いなことに、碁石は軽いのでよっぽど痛くなかった。

「夏海、大丈夫か?」

 俺よりも夏海の状態が心配だった。

 俺が夏海に声をかけると、彼女は「大丈夫」と答えた。

 しかし、そのあと夏海が穴に落ちてしまった時と同じような呻き声を出したので、俺は更に心配した。

「碁盤、乱れちゃったね……」

 と、夏海は半泣きになったような口調で言った。

 まあ、彼女の気持ちはわからなくもないけど。俺だって最後まで囲碁をやりたかったし。

 しかし、当然ながら夏海の体調が囲碁より何倍も大事なことなのだ。

「碁盤はどうでもいい。怪我しているなら、すぐに言ってください」

 俺は立ち上がり、夏海のもとへ歩いた。そして、碁盤の脇にうずくまっている夏海を抱きしめた。

「本当に大丈夫か?」

 嘘をついていないなら、即答できるはずだ。それなのに、夏海は俺の質問に答えるのに数秒かかった。

 その瞬間、俺はようやく気がついた。

 俺の愚かさに。

 夏海の奇怪おかしさに。

 そして、俺はずっと馬鹿にされていたような気がした。


 ――なぜなら、俺が雨之島あまのじまに戻ってきた時から今まで、夏海は

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