第三章 雨病の真偽

第11話 一日間の家出 ①

 一週間後、いよいよ退院の日だった。

 俺は小泉さんと病院に行って、夏海の病室に入った。俺がドアを開けるや否や、夏海はベッドから立ち上がり、俺を抱きしめにこちらに来た。

「やっと退院の日なんだね」

「ああ、足が治ったの?」

「治った、と思うよ!」

 言って、夏海は口元を綻ばせた。

 俺は宿題や部活で忙しかったので、残念ながら彼女の見舞いに行く暇はなかった。つまり、これは一週間ぶりの出会いなのだ。

 そう考えると、俺はどれだけ夏海が寂しかったかに気がついた。

「あのさ、この一週間、見に行かなくてごめんね」

「あ、大丈夫よ。一週間くらいは耐えられると思うんだけど……」

 夏海の言葉に、俺は失笑した。

「そうなんだ。まあ、明日からやっと三人で登校できるね」

 俺がそう言うと、夏海はそっと口を開いた。

「三人の登校が楽しみだなぁ……」

 と、夏海は小声でささやいた。

 そして、小泉さんは病室に入ってきて、夏海と挨拶を交わす。

「おはようございます、山口さん。足の調子はどうですか?」

「もう大丈夫だってば……。とにかく、見に来てありがとうね、二人とも」

 夏海の言葉に、小泉さんは優雅に笑みを浮かべた。

 今日彼女は制服姿だし、意外と大人びて見える。しわのない白いワンピースに黒いタイツ。頭にかけているサングラス。どれもかっこよくて綺麗だった。

 とはいえ、一日小泉さんにれてはいけないので、俺は無理矢理に視線をがし、夏海に目を向けた。

「じゃ、病室を出ようか?」

 俺がそう提案すると、夏海はこっくりと頷いた。

 俺はきびすを返し、小泉さんを案内者に三人で病院を出る。

 真っ白な廊下で立ちながら、俺は後ろを振り向いた。

 以前夏海のいた病室は空っぽになって、電気がすでに切られていた。廊下の照明が室内に漏れて、ベッドの輪郭を浮かび上がらせている。

 小泉さんと廊下を進もうとすると、俺は夏海がまだ突っ立っていることに気づいた。

 少し名残惜しくなったのか、夏海は最後に室内を振り返り、嘆息を漏らした。

「この部屋で一週間も過ごしたなんて……。時が相変わらず早すぎるわ」

「それな」

 と俺は同意して夏海と一緒に病室を去る。


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「さて、どこかで遊ぼうね!」

 帰り道、夏海は元気よく歩きながら飛び跳ねている。

 ちょっと元気すぎないか、と俺は思ったくらい。

 夏海とは対照的に、小泉さんは無言で大人しく道を進んでいく。彼女のスーパーロングの髪が風に強く煽られる。

 あの狭い病室で一週間も過ごした夏海。それはどれだけつまらなくて、どれだけ息苦しかっただろうか俺は重々にわかっている。だから、外で遊びたい気持ちはわからなくもないけど、退院したばかりだし、遊ぶにはまだ早いと思う。今日は休んだほうがよさそう。

「悪いけど、今日は家で休んだほうがいいよ」

「私もそう思いますよ。退院したからって、身体しんたいが完全に治ったわけではないですし」

 俺と小泉さんの助言に、夏海は意気消沈した表情でこちらを向く。その顔の持ち主は今にも泣き出しそうだった。

「でも、私は今日を楽しみにしてたよ。いつか、三人で遊べるあの日を……」

「一日くらい後回しにしてもいいんじゃないか? 明日は三人で通学できるしね」

 夏海はまだ落ち込んでいるようで、うなだれた。

 ややあって、彼女は顔を上げて小さく頷いた。

「うん、わかった。でも、なんだろうね、なぜか、家に帰りたくないの」

 俺と小泉さんは同時に眉をひそめた。

「家に? なんで?」

 と俺が情報を聞き出そうとしている警官のように尋ねると、夏海はぎこちなくそっぽを向いた。

「まだ言いたくないというか、言えないね」

 それだけ言って、夏海は俺たちに背中を向けた。彼女のポニーテールが微風そよかぜに吹かれて、左右に揺れている。

 夏海は深呼吸してから、再びこちらを向いてくる。

「あのね」

 今回、夏海は笑みを浮かべている。彼女の姿が西日の逆光に照らされて、薄暗くなった風景から浮かび上がる。

「しばらく、雄己の家に泊まってもいい?」

 思いがけないことを訊かれて、俺は面食らった。

 夏海は、俺の家に泊まりたいのか? なぜだろうか? もしかして、彼女の家庭環境が悪くなったから? 

 いや、それはきっとあり得ない。夏海のお母さん、というか、杏子あんずは優しそうな人なのだ。夏海を酷く扱ったりは絶対にしない。

 俺は返答に窮して、助けを求めるような目で小泉さんを見る。しかし、彼女は何も言ってくれなかった。

「まあ、俺の家族には構わないと思うけど……。この間、夏海の家に行ったんだ。そこで、あん――夏海のお母さんと話した。彼女はかなり心配しているよ。だから、正直家に帰ったほうがいいと思うんだけど」

「そ、そうね。じゃあ、あたしは家に帰るから……」

「またね。明日は楽しみにしています」

 言って、小泉さんは家路についた。

 つまり、俺は夏海と二人きりになった。

 しばらくの間、俺たちは何も言わずにいた。しかし、空気が気まずくなりすぎたせいか、俺は思わず何かを切り出そうとした。 

「なあ、家に帰りたくない理由。本当に言えないかな」

「言えないというか、言葉にできない」

 その言葉に、俺は夏海のことを可哀想かわいそうに思った。憐れんでいるせいか、夏海の泊まりについての姿勢スタンスが一変した。

「俺は考え直したんだよ。本当に帰りたくないなら、一日俺の家に泊まっても構わないだろ」

 夏海は目を輝かせて、嬉しそうな表情を浮かべる。それを見ると、俺はなぜか癒される気がする。

「本当? 嬉しい!」

「コホン。とにかく、遅くなったから君を一人で帰らせるわけにはいかなかったし……」

「そうね。好奇心旺盛で油断ばかりするけど、これからもあたしを見守ってくださいね」

「ああ。問題があったら、なんでも言ってこい」

 太陽が完全に沈み、街灯の少ない街が暗闇に包まれていく。

 俺は携帯を起動して、画面の光に導かれながら夏海と帰路についた。

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