第6話 紙一重の将来 ②

 杏子あんずは志望理由書らしいプリントを両手で持ち、困惑した表情を浮かべた。

「なんでそういうものを親に渡すのかな? 夏海が記入したほうがいいんじゃない?」

 正直俺もわけがわからなかった。俺は学校鞄を開け、俺のプリントを取り出した。すると、俺もいわゆる『志望理由書』を持っていることが確認できた。

 先生が違うプリントを配ってしまったのか、それとも親と一緒に記入してほしいのか。強いて言えば、前者がもっとありそうだった。

 俺はプリントに目を通してから、杏子に視線を向けた。

 夏海がいつも他愛たわいもない話をしており、進路について語り合ったことがない。そのせいで、彼女がどんな大学に行きたいのか、どんな専攻を勉強したいのか、俺にはさっぱりわからないのだ。

 俺はと言えば、雨之島の大学に行きたいと思っている。とはいえ、東京の大学とか、海外の大学に行きたくないわけではない。ただ、この生まれ育った島から長い間離れるのは気が引けるのだ。

 夏海なら、離島する勇気があるのだろうか。あったとしても、彼女には俺と離れる勇気がないかもしれない。俺たちは幼馴染だし、夏海は友達が少ないからずっと俺にくっついている。

 しかし、高校を卒業すると、俺たちはきっと離れ離れになってしまうだろう。そう考えると少し悲しいけど、もう夏海と会えないわけでもないし、俺がいないと彼女はようやく新しい友達を作ろうとするかもしれない。

 杏子をじっと見つめていることに気がついて、俺は顔を背ける。

「田仲さん、夏海の進路のつもりは知っているかな?」

 杏子にそう訊かれると、俺は再び彼女に目をやった。

「いや、彼女は全然そういうことについて話さないから」

「そうなの。あの子が何を考えているのか、私もわからない……。夏海に訊いたら、いつも『まだ決まっていない』と言い返されるだけ」

 確かに夏海らしいなと思い、俺は杏子の言葉に苦笑いを浮かべた。

 そして、居間の向こう側から小泉さんはジト目でこちらに目をやる。

「そろそろ行ったほうがいいですね。情報を教えてくれてありがとうございました」

 言って、小泉さんは立ち上がって、ずれた前髪を両手で直す。

 俺たちが礼を言ってから靴を履いた途端、後ろから杏子の声がした。

「実は……」

 と、杏子は言いかけたけど、数秒後彼女は首を左右に振りながら「なんでもない」と言った。

 杏子の行動は確かにおかしいけど、俺はそれを気にせず、夏海の家を出ていくことにした。


 炎天下、俺たちは夏海を捜し始めた。今日は真夏日と言ってもいいくらい蒸し暑く、陽射しがやけに強かった。

 小泉さんの髪の毛が太陽に照らされ、つややかだった。

 こんな天気では当てもなく歩いているのが嫌だから、早速計画を立てたほうがいいだろう。

「小泉さん、まずはどこへ行けばいいの?」

「あの堤防に行ってみましょうか? あそこは彼女の居場所かもしれませんね」

 確かに夏海はまた堤防に逃げたかもしれない。でも正直、俺はそうは思っていない。夏海が一回堤防で遊んだからといって、堤防が彼女の居場所だとは限らないし。

 あくまで俺の直感だけど、今回はもっと見つけにくい場所に行った気がする。それでも、念のため行ってみたほうがいいだろう。

「ああ、行ってみようか」


⯁  ⯁  ⯁


 堤防を歩いていると、海の濃厚な匂いが鼻を突いた。それはスペインの海と違って、俺にはまだ嗅ぎ慣れていない匂いなのだ。

 小泉さんは髪の毛を潮風になびかせながら、大人しく堤防を進んでいく。

「山口さんはここにいないんですよね」

 と、小泉さんは振り向いて、溜息まじりに言った。

「やっぱりか……」

 俺は夏海がここにいないだろうと思いながらも堤防に来たのに、計画を立て直そうともしなかった。だから、俺は堤防に突っ立ったまま途方に暮れてしまう。

 この暑さにうろつくのは危ないかもしれないし、できれば日が暮れる前に夏海を見つけたい。

 俺が助けを求めるように小泉さんに視線を向けると、彼女はうなだれた。

「ね、次はどこへ行けばいいんですか……」 

 小泉さんの呟きが風に乗って俺の耳に入ってくる。彼女も途方に暮れているのか。

 真っ昼間の青空を見上げると、一羽の白い鳥が空を飛んでいる。俺は鳥類に詳しくないので、どの鳥かさっぱりわからなかった。

 しかし、わかっていることが一つあった。それは、その鳥は堤防に突っ立っている俺たちよりも自由だったということ。もしも俺や小泉さんが飛べたら、もう夏海を見つけただろう。

 遠ざかっていく鳥を見送ってから、俺は視線を前方に戻した。目の前で、小泉さんはなぜか仁王立ちをしている。

「決めました。この島には、ごく一部の人しか知らない森がありますよ。夏海はそこに隠れているはずです」

 ――森、か……?

 それは初耳だ。雨之島は意外と広いので、まだ探索したことのない場所があってもおかしくないけど。

「わかった。早速その森に行こう」

「あの、行きたいけど……正直、ちょっと怖いです」

 小泉さんが怖がっているのは新鮮。彼女はいつも余裕ぶっているせいか、なかなか怖がる人には見えない。しかし、小泉さんさえも怖がるなんて、そう考えると俺の不安が少し溶けたような気がした。

「大丈夫だろう。俺がそばにいるんだし。しかも、行かないと夏海を見つけられないからね」

「うん、わかってます。今度は、田仲さんが先に歩いてくれませんか?」

 小泉さんの躊躇に俺は笑いを嚙み殺そうとする。森に行くのはそんなに怖いことじゃないのではないだろうか?

「ああ、構わない」

「ちなみに、森は島の向こう側にあるから、とりあえず少し休んだほうがいいと思います」

 小泉さんが俺に気を遣うのは珍しい。もしかして、彼女との距離が少しだけ縮まったかな。敬語はやめてほしいのだけど……。

「そうか? でも、できるだけ早く夏海を見つけたいよ」

「私もですよ。ただ、今日はすごく暑いし、熱中症に罹ってしまわないようにちょっと休まなければならないんです」

「それなら、アイスでも買いに行こうか? 俺がおごるよ」

「そ、そうですか? 嬉しい!」

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