第5話 紙一重の将来 ①

 結局、夏海の家にたどり着くのに十五分もかかった。

 俺が小泉こいずみさんに疑問を投げかけてから、彼女は二度と口を開かなかった。

 沈黙が確かに気まずいとはいえ、頭の整理をする時間をくれたので俺は感謝している。

 俺は玄関の前に立ち止まって、覚悟を決めた。

「じゃ、俺はプリントを届けに行くから」

 言って、俺はインターホンを押す。

「田仲雄己です。先生からプリントを届けに来ましたんですが」

 しかし、誰もドアを開けてくれなかった。心の高鳴りを押さえつけようとしながら、俺は小泉さんに目をやった。

「留守中みたいですね」

 と彼女は何気なく言って、きびすを返す。

 俺も諦めようと思いきや、後ろからドアの音がした。

 

「待って!」


 その声は夏海の声ではなかった。もっと年を取った人の声に聞こえたのだ。もしかして、夏海のお母さんなのかな?

 俺たちがその声を振り向くと、夏海のお母さんとおぼしきアラサーの女性が目に入った。

 俺は一歩踏み出し、再び玄関に近づく。

「あら、田仲さんですね。そして、あの女性は?」

 言いながら、彼女は小泉さんに視線を移す。

小泉こいずみ三那子みなこと言います。よろしくお願いします」

 そう言ってから、小泉さんは一礼をした。

「夏海はたくさんの友達をできたみたいね」

「あの、夏海に、いや正確には夏海のご両親にこのプリントを届けに来たんですけど」

 と、俺がぎこちなく言うと、小泉さんはコホンと咳払いをする。

「結論から言いましょうか。私たちはすごく心配しているんですよ。今日、夏海は学校に来なかったし、全然連絡取れなくなったんです」

 小泉さんの言葉に、夏海のお母さんは観念したように溜息を吐いた。

「私も、夏海が一体どこに行ったのかはさっぱり――」

「な、何を言っているのかよ?」

 俺は思わず夏海のお母さんの言葉を遮ってしまう。

「だって、お母さんなんじゃないか? もっと心配したほうがいいんじゃないか? 俺たちよりも心配していないのはおかしいよ」

 言い方が悪いかもしれないけど、俺はだいたい言いたいことを言った。彼女を傷つけるつもりはなかったけど。

「ごめん……私、正直、どうすればいいのかわからないの。あの日、夏海は突然失踪してしまって……」

 夏海のお母さんの目尻に涙が溜まって、ぽつりと頬を伝って落ちていく。

 俺がぽかんと口を開けてそれを見ていると、小泉さんは先に夏海のお母さんに近寄る。

「大丈夫ですよ。私たちは必ず夏海を見つけますから。でも、そうするには、手伝いは必要ですね」

「うん」

 と、夏海のお母さんは手で涙を拭いながら小声で言った。そして、彼女は俺たちを家に入るように手招く。

 小泉さんは先に靴を脱いで家に入る。

 俺は適当に靴を脱いで投げつけてから小泉さんを追いかける。振り向くと、ゆっくりと歩いている夏海のお母さんが目に入った。

「どうぞ、寛いでください」

 言われるがまま、俺はソファに寝転ぶ。すると、小泉さんは俺の行動を失礼だと思ったのか、眉をひそめてこちらをにらみつける。

「夏海のお母さん――というか、お母さんのことはどう呼べばいいんでしょうか?」

「ああ、夏海の友達だから、下の名前で呼んでもいいわよ。私は杏子あんずという」

 杏子、か。意外と綺麗な名前で、俺はすぐに言いたくなった。

 夏海の幼馴染とはいえ、実際に彼女のお母さんとちゃんと話すのは初めてかもしれない。俺は普通に夏海の部屋で遊んだり外で走ったりするので、杏子と接する時間は今まであまりなかったのだ。

「それでは杏子、雨が降った日、何があったか説明してくれませんか」

「もちろん、いいわよ。でも、長くなるかもしれないから、まずはお茶でも淹れようか?」

 頭を左右に振っている俺とは対照的に、小泉さんは珍しく嬉しそうに頷く。

「本当にお茶は飲みたくないのー?」

 と、杏子は俺に目をやって訊いてきた。

「ああ、実はお茶があんまり好きじゃないから」

「お茶が好きじゃない人もいるかー」

 杏子はうふふと笑いながら、台所に去っていく。

 こうして、俺は居間で小泉さんと二人きりになってしまった。当然のことながら、空気がまた気まずくなる。

 俺が小泉さんを一瞥すると、彼女は淡々とそっぽを向いた。

「なんでこちらを見ていますか」

「別に理由はないけど」

 小泉さんの前で俺は素直にはなれない。正直、俺は彼女のスーパーロングの髪の毛にれていたけど、それを言い出す勇気がなかった。

 ややあって、杏子は二つの湯吞みをお盆で運びながら、ゆっくりと居間に入ってくる。彼女はお盆を床に置いて、一つの湯吞みを小泉さんに手渡した。

「ありがとうございました」

 礼を言ってから、小泉さんはお茶を一口飲んでみた。まだ熱すぎるのか、それとも苦すぎるのか、彼女は苦虫を嚙み潰したような顔をして、すぐに湯吞みを床に置いた。

「あ、角砂糖を入れるのを忘れたんだけど……いいの?」

 杏子は心配げな顔をして、小泉さんに視線を向けた。

「大丈夫です。ただ、私にはまだ熱すぎたんですよ」

「そうなの。気をつけてくださいね」

 少し間を置いてから、俺は杏子にこう問いかける。

「雨とは具体的に何?」

 俺の質問が馬鹿すぎたのか、杏子がうふふと笑い、小泉さんが笑いを嚙み殺すように口元に手を当てた。

「まあ、当然ね。この島の人たちは、だいたい雨を体験したことがないからさ。それでも、その体験したことがあるごく一部の人に『雨とはなんだ』と訊かれても、説明しにくいね……」

「そ、そうなんだ。別にいいから、難しすぎるなら説明しなくてもいいよ」

 と俺は言っても、杏子は構わないと言わんばかりに言葉を紡ぐ。

「雨は、思ったよりよく見えないものなのよ。空から降ってきて、それでも紙一重の厚さでなかなか目に入らない。しかも、数えるのは雪と同じように無理ね」

 ――そうだ。俺は、雨を体験したことがなくても、確かに雪を体験したことがある。

 毎年、冬が来ると、雨之島は白に塗りつぶされるように雪に覆われる。通学路が雪道となり、周りが全て白くなるので道に迷いかねない。

 つまり、雨は雪のようなものなのかな。雨が降ると、世界が青に塗りつぶされて、人は道に迷うだろうか。

「正直、雨が降ったとき、私は目を疑ったよ。でも、何回目をこすれても雨がまだ降り続けたんで、これはやっぱり現実だなーと思った。そして、夏海は好奇心旺盛に窓に駆け寄って、『雨だ!!』と叫んだ」

 杏子の話を聞いている間、内容が映画のワンシーンのように俺の目に浮かんでくる。

 好奇心旺盛になって雨を見つめるなんて、いかにも夏海らしかった。

「そして、私はちゃんと彼女を諭したのよ。『雨に出ないでね』、と。彼女は少しねたけど、癇癪を起こしたりはしなかった。普通はいい子だからさ」

 確かに、夏海はお母さんの指示に逆らうような真似をする人ではなさそう。しかし、夏海がちゃんと雨宿りしたとしたら、雨病に罹ったはずがない。それなら、彼女はなぜ失踪したのか……?

 夏海が雨病に罹らなかったことに幸せを感じるはずだったのに、俺は逆に不安になってしまった。もしかして、夏海が学校でいじめられたのか? それとも、何らかのストレスを抱え、逃げたかったのか。俺は本当に見当がつかない。

「そうですか」

 小泉さんがそう答えると、俺は突然我に返った。

 気がつくと、小泉さんも杏子もお茶を飲み終えて、床に正座している。

 まだソファで横たわっているのは俺だけ。

「情報を教えてくれてありがとうございます。あとは私――私たちに任せてくださいね」

「助かるわ」

 と、杏子は溜息交じりに言った。彼女はよく眠れなかったのか、疲れた表情を浮かべている。

「ところで、このプリントはなんだったの?」

 そうだ。俺はプリントのことをすっかり忘れていた。ポケットからプリントを取り出して、杏子に手渡した。

 杏子はじっくりと折りたたんだプリントを開けて、文字を読み上げる。

「志望理由書……?」

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