第二章 人知れぬ密林
第4話 秋期の始まり
夏休みが終わると、当然ながら新学期が始まる。
夏海は必死に読書感想文を書いていたのか、彼女は一度も連絡しなかった。
俺は未だにそれを不思議に思って、心配すべきなのかわからないまま通学路を一人で歩く。
夏海は近くに住んでいるので、俺たちはたまに一緒に登校する。しかし、ほとんどの日は俺は一人で登校するから、夏海が隣に歩いていなくてもおかしくないと思った。ホームルームが始まったら、彼女はきっと教室で俺を待っているだろう。
学校に着くと、俺は昇降口で靴を履き替える。学校はまだ始まっていないせいか、昇降口内は意外と静かだった。だから、俺はゆっくりと靴を下駄箱にしまって、教室に向かっていった。
しかし、俺は一人きりになったと思いきや、誰かに声をかけられた。
「
それは夏海の声ではなかった。もっと大人っぽく、静かな声だった。
俺が振り返ると、同じクラスの
小泉さんの髪の毛の長さは夏海に比べて二倍だった。メイクをして、唇に赤いリップを塗った。どちらも校則違反なのに、俺が知る限り小泉さんは先生に叱られたことは一度もなかった。
秋期の衣替えのため、彼女は黒いブレザーを着ており、黒いタイツを履いている。それに、白いシャツの袖は長袖になっている。
「おはよう、小泉さん」
「皆が学校に来る前に、教室に行っておきましょうか」
「うん」
俺は軽く頷いて、小泉さんに従った。
廊下を進みながら、俺たちの靴音が響き渡る。
沈黙のせいか、歩けば歩くほど、空気が気まずく感じていく。
俺は沈黙を破るように何かを言いたくても、何も言葉にできない。気まずい空気を吸いながら、黙って歩くことしかできないのだ。
ようやく教室にたどり着くと、俺は真ん中の席についた。
小泉さんは席につかず、華奢な身体を窓に預けた。その優雅な行動を見た俺は思わず息を吞んだ。
喋るつもりもないなら、早めに教室に行った甲斐があっただろうか。俺はそう訊きたかったけど、彼女は答えてくれない気がしたのでやめておいた。それでも、気まずい空気を払わずにはいられなかった。だから、俺は一番知っていることについて語ることにした。
「小泉さんは、
小泉さんは考え込むように目を
「覚えています。雨に濡れたら、狂ってしまう話でしたっけ」
「そうだ。
「私は信じています」
その言葉に、俺は胸をなでおろした。
そして、小泉さんは顔を上げて言葉を紡ぐ。
「なぜかというと、雨が降ったあと、私の友達はいきなり自殺したからです」
小泉さんがなんでもないという風にそう言い足すと、俺はぽかんと口を開けた。言葉を失った俺と目を合わせ、小泉さんは窓から離れてくる。
「大ニュースでしたわね。だから、田仲さんも聞いたことがあると思うんですけど」
それなら、夏海が話していた堤防の自殺は小泉さんの友達だったのか? つまり、本当に俺が雨之島に戻った日の昨日に雨が降ったに違いない。
それでも、雨が降ったという事が未だに理解できない。だから、俺はわからなかった。降雨という至極珍しい現象が起こったのに、皆それを当たり前のことだと思っているように淡々と生活している理由が。
夏海の失踪への不安がますます高まっていく。もし雨と関係があったら……。
――もし、夏海が雨病患者だったら……。
俺は一瞬そう思ったけど、信じられなかった。
彼女は
しかも、本鈴はまだ鳴っていないので、不安になるのはまだ早い。だから、俺は気を紛らわすように小泉さんと話すことにした。
「ああ、実は夏海から聞いたんだ。彼女は、自殺が起こった場所と思われる堤防の縁に、何事もなかったかのように座っていて足をぶらぶらさせていた」
「相変わらずですね。夏海は堤防の縁に座っているリスクも気にしていないでしょ……」
と、小泉さんは苦笑交じりに言った。
夏海と友達になったのか、小泉さんは意外と夏海のことをよく知っているようだ。
「そうだなー」
俺がそう言った途端、ホームルームの予鈴が鳴り出した。そろそろ教室は騒々しくなるだろう、と俺は思いながら溜息を吐いた。
五分後、教室の席が徐々に埋まっていく。静かだった室内が喧騒に変わって、皆の声が俺の耳を
そして、ようやくざわめきを押さえてくれたのは学級担任の声だった。
「
学級担任の問いに、俺は手を挙げて答えた。
「今朝は彼女を見かけなかったんです」
「そうなんですか? ちょっと困りますね。今日、重要なプリントを出すつもりだったので、もし誰が夏海の家に届けに行ってくれたら助かります」
その言葉に、クラスの皆が再び騒ぎ出す。俺と小泉さんは目配せをするように視線を交わした。
「俺は届けに行きます」
と、俺は席を立ち、堂々と言い放った。
俺の言葉に、皆の視線がこちらに集まってくる。
「ありがとうございます、田仲さん。それでは、小泉さんは皆に一枚のプリントを配ってください」
「わかりました」
言って、小泉さんは教壇に近づいていく。歩いている間、彼女のスーパーロングの髪が美しくなびき、俺の視線を奪ってしまう。
小泉さんは学級委員長なのでプリントを配るのに選ばれたのだ。彼女はすごく真剣で頼もしそうだから、学級委員長になって当然だろう。むしろ、ならないほうがおかしいのではないか。
俺は皆と違って二枚のプリントを受け取り、鞄に詰めようとした。
そして、先生はまた口を開く。
「それでは、このプリントはご両親に手渡してほしい」
皆は異口同音に「はーい」と答え、内容も読まずにプリントを鞄に詰める。
小泉さんは席に戻り、俺をちらっと見た。
「田仲さん」
いきなり小泉さんに名前を呼ばれ、俺はどう答えばいいのかわからなかった。
「はい?」
「今日、学校が終わったら。山口さんの家に行ったほうがいいと思いますよ。念のために」
言いながら、小泉さんは真剣な表情を浮かべた。
もしかして、彼女は俺と同じことを考えているのか……?
「うん、わかった。昇降口で待ち合わせようか」
小泉さんは手を顎に添えて、少し間を置いた。
「わかりました。待たさないでくださいね」
俺が無言で頷くと、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。俺は安堵の溜息を吐いて、できるだけ大人しく放課後を待つようにする。
⯁ ⯁ ⯁
結局、学校が思ったより速く終わった。
放課後のチャイムが鳴り出すと、俺はすぐに席を立ち、早足で教室を出る。
約束通り、小泉さんは昇降口で俺を待っている。彼女は下駄箱に
俺が小泉さんの元へ近づいていくと、彼女は淡々とこちらに視線を向けてくる。その顔には、感情は微塵もなかった。
「待った?」
と、俺は気を遣うように言った。
「全然ですよ」
小泉さんは陳腐な台詞を言い、下駄箱から離れる。すると、彼女は学校を出るように俺を手招く。
俺は今朝のように小泉さんに従いながら、風になびく彼女特有のスーパーロングの髪を目で追う。なぜか、俺は彼女と同行するたび、空気がいつも気まずくなってしまう。
「夏海のこと、気になってる?」
俺が沈黙を破るためにそう尋ねると、先を歩いている小泉さんは立ち止まって、振り返った。
「正直、本当に心配していますよ。彼女はすごく呑気ですし、一昨日の雨に出かけるタイプでしょ? しかも、わけもなく失踪するとは……」
やっぱり、俺たちは同じことを考えているのだ。そのことに安心すべきか、それとも更に不安になるべきか、俺はさっぱりわからなかったけど。
「つまり……夏海が雨病に罹った、と思っているんだね?」
小泉さんは俺の問いに答えず再び歩き始めた。
――なんだよ、この子……。謎すぎるんじゃないか?
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