第3話 雨による病
「あのね、子供の頃から
帰り道、俺は
「んー、うろ覚えなんだけど」
小学生になると、みんな親から雨病の話を聞かされる。だから、夏海は知っているはずなのに、今は曖昧な記憶でしかないようだ。もしかして、彼女は先生の話だけではなく、雨病の話も聞き逃したのか……?
逆に、俺は母に言われた言葉をよく覚えている。
『ね、
当時の俺はあっさりとその言葉を
だから、俺は今までその言葉を信じながら生きてきた。
俺は咳払いをして、当惑している夏海にこう言った。
「なら、念のため説明したほうがいいと思う。小学生のころに親に言われたはずだから、俺が説明している間にピンとくるかもしれない」
俺は深呼吸をして、夏海と目を合わせた。そして、雨病について語り始めた。
「わかってると思うんだけど、ここでは雨がほとんど降っていないね。だから、とある迷信が生まれた。それは、雨に濡れたら狂ってしまうってことなんだ。最初は症状が微妙で、周りの人にはなかなか気づけないほどに感情が狂うけど、時間が経つにつれて症状も悪くなる。最後に、誰かを殺したくなる、または、自殺するといわれる」
それが切りがいいところだと判断して、俺は夏海が情報を飲み込めるように説明を中断した。
そして、夏海は小首を傾げたり眉を寄せたりしたあと、何かを思い出したのか、びっくりした表情を浮かべた。
「あ、なんか聞いたことあるような……」
「聞いたことあるに決まってるだろ。親が子供に言う話なんだし」
「親は、子供が雨の日に外で遊ばないようにそう言ってるでしょ? 土が濡れたら足を滑らせるかもしれないし、怪我しちゃうかもしれないから危ないね。親が雨病の話を信じているわけでもないよ」
夏海の正論に、俺は返答に窮する。しかし、この期に及んで話題を振るわけにはいけないから、俺は適当に相槌を打つことにした。
「……ねえ、雨病の話、信じてるのか?」
夏海に疑問を投げかけられて、俺は答えを出すのに一分もかかった。なぜなら、今まで疑わなかった雨病の話は、夏海の指摘によって少しでも疑わしく思えてきたから。
「信じるか、信じないかと訊かれても答えにくい質問なんだね。俺は今まで信じてたけど、やっぱり子供が雨に出ないための作り話にすぎないのかと疑い始めた自分もいる」
「ふふふ。本当にそんな馬鹿なことを信じるとは思わなかった。明らかにでっち上げた話だよ?」
俺が何をしても、夏海は雨病の話を信じそうにない。
それでも、俺はまだ信じている。信じなくて雨病に罹ってしまうよりは、信じたほうがいいから。
俺は観念したように溜息を吐いて、話題を振ることにした。
「そういえば、海外はどうだったの?」
新しい話題を考えようとした矢先に、夏海がそう切り出した。
「面白かったよ。スペインに行ったんだ」
「スペイン……? それは授業で聞いたことあるかも」
「地理授業とか?」
「さあな」
と、夏海は肩を
俺は夏海の地理的な知識の無さに驚愕した。俺だって地理が得意ではないけど、スペインくらいは知っている。
まあ、夏海はいつも上の空で先生の話を聞き逃しているから、そんなに驚くことではないだろう。
「本当に集中してないな、授業に」
「あたし、いつも放課後のチャイムを待ってるの」
「それで合格できるわけがないだろ? ちゃんと勉強したほうがいいよ」
俺の助言を無視したのか、夏海はクスクスと笑った。
「大丈夫、あたしはきっと合格してみせるから。将来に大きな夢があるのよ」
「それは?」
「んー、まだ言いたくないね」
「そうか……」
隠し事をするのはいかにも夏海らしくない。だから、その夢が本当に大事なものだろうと俺は悟って、これ以上詮索しなかった。
気がつくと、俺たちはもう町に戻っていた。
夏海との会話に気を取られたせいか、足の痛みをほとんど感じなくなった。しかし、話を締めくくると、俺は太陽の暑さにも足の痛みにも気がついて、反射的に顔をしかめた。
「どうしたの?」
夏海はこちらを振り向き、珍しく俺に気を遣ってくれた。
「なんでもないよ。ただ足が疲れているんだ」
「あっそ」
夏海との会話は楽しかったけど、そろそろ読書感想文を書き始めないと、提出期限に間に合わない。だから、俺は切りがいいところで別れを告げて、夏海に手を振った。
しかし、俺が家路についていると、不思議なことが一つ頭の片隅に引っかかった。
――それは、夏海が言った別れの言葉は『またね』ではなく、『さようなら』だったということなのだ。
俺はもっと早くそれに気がつけばよかっただろう。そうしたら、夏海に疑問を投げかけることができたから。
とにかく、俺は読書感想文のことを考えて不安を抑え、家に帰った。
すると、最初に俺の帰宅に気づいたのは母だった。彼女はエプロンをつけており、髪の毛をポニーテールに結んだので、何かを料理しているところだろう。
確かに、家に上がると美味しそうな食事の匂いが鼻についた。
「今日の昼ごはんを用意してるかな?」
「そうそう。ところで、ちゃんと謝ったの?」
結局、俺は謝ったっけ? ついさっきのことなのに、俺はすでにあの会話の内容を忘れている。まあ、少なくとも謝ってはみたから、謝ったと言っても嘘ではないだろう。
「ああ、謝ったよ」
「よかったね。でも、そろそろ昼ごはんが出来上がるからおやつは食べないで」
「了解」
と、俺は言って自室に向かった。
⯁ ⯁ ⯁
読書が面倒なことこの上ない。
本を読みながら、俺はそう思った。でもよく考えると、それはこの本に興味がないからかもしれないし、読書自体が面倒なわけでもない。
ようやく最後のページをめくり、本をたんすの上に置くと、台所から母の声がした。
「ご飯できたよー!」
まるで俺が本を読み終えるタイミングを見計らっていたようだった。
その声を聞くと、俺はさっそく自室を出て階段を下りた。母の料理は美味いし、お腹が空いているし、できるだけ早く食べたい。
俺が急いで食卓の席につくと、焼きそばを二つの皿に盛りつけている母の姿が視界に入った。
俺は「いただきます」と言うなり箸を取って、いよいよ焼きそばを食べ始めた。
焼きそばの中に潜んでいる青ネギともやしがサクサクで美味しい。豚肉がジューシーでよく口に合う。母の料理の上手さに感心しながら、俺は最後のもやしまで焼きそばを食べ切った。
俺たちが食べ終えると、母はエプロンを外し、髪を下ろした。
美味しいこの上ない焼きそばのおかげで、やる気が大量に湧いてくる。本は読み終えたとはいえ、感想はまだ書き始めていない。なんにせよ、このやる気が消えてしまう前に、感想文を書いたほうがいいだろう。
そう決意してから、俺は食卓を後にして、再び階段を駆けのぼっていく。
二、三時間もパソコンの前に座り続け、文字数を増やしたり要らない文章を削ったりしていたあげく、俺はようやく読書感想文を書き終えた。
書くこと自体はよっぽど難しくなかったけど、推敲するのが非常に面倒くさく、何度も諦めそうになった。
オフィスチェアから立ち上がると、俺は
そして、俺は読書感想文を書き終えたということを母に伝えるために、駆け足で階段を下りた。
「課題、終えたよ!」
と、俺は自信満々と言えるような口調で告げた。
俺の喜びが母の心配を書き替えたのか、彼女はこちらに笑みを浮かべている。
「よくできましたね。って、高校生に言ってもいいかな。あはは」
「褒められるのが好きだから、いいと思うんだ」
「ご褒美として美味しい晩ごはんを作ってあげるね」
「ありがと、楽しみにするよ」
母は
「ちょっと用事があるので、しばらく出かけないと。またね」
俺は笑顔で「またね」と別れを告げた。
そのかっこいい大人の姿を見送りながら、俺は少しだけ口角を上げた。
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