第44話 正しさ
女帝ヘレナはあの日と同じように軍師を迎える。
恭しく礼を執る。
ひとつ違うのはその笑顔だけ。
そして、今日が最後の”女帝”としての立場になる。
自室で軍師と向き合った。
小さなテーブルにはチェス盤。
互いに言葉はない。
チェスの駒が盤の上にコツンと、鳴る音だけが響く。
日差しが柔らかい。
ヘレナの白く、細い指が駒を動かす。
軍師は盤上を見渡し、腕組みした。
「ふふ、
ヘレナは初めて声に出した。
「さて、どうだろうね」
軍師は葉巻を胸ポケットから取り出して
シガーマッチに火を灯し、燻らせ始めた。
テーブル脇には、薔薇が花瓶に生けられている。
リボンは銀色と薄い青の刺繍の入った黒いサテンリボン。
軍師はその花をぼうっと見て、他愛なく息を吐いた。
「ー お義兄様?
私、どうしても知りたかったことがありますのよ。」
唐突な兄呼びに、軍師の表情は崩れる。
嫌そうな顔だ。
「本当に嫌なのですね、わかりました。
叔父様?ー、あぁ、これなら良いのですね。...
ー 。
ユージーンにあの儀式をさせたのは、なぜですか」
窓から差し込む日差しに葉巻の白い煙が
モヤのように揺蕩いながら軍師を包む。
静かなー、時が止まるような瞬間だ。
「どちらでもよかったのだ。
ー 最初は。 ー
彼があなたを想っていることは周知の事実だったし
カインもまた、同様にあなたを想っていたのだよ。
幻滅するだろうがね、 ー 私にとってそのどちらであろうが
あなたを呼び戻すことができるのなら誰でもよかったのだ。 」
ヘレナはチェス盤を見ていた。
軍師がビショップを持ち、動かそうとした。
「ヴィクター・エルンハスト」
ヘレナの声が部屋に落ちた。
瞬間、軍師の手が止まった。
紫煙の向こうで軍師は表情を変えず
対峙する。ー それはヘレナではなかったように見えた。
「あなたはこの300年間生まれ変わりながら
彼女に愛を誓い続け
約束を守ったのですね。」
軍師は唸るように声を漏らしつつ、葉巻を灰皿に置いた。
「ー 長かった。 あぁ、本当に長かったよ。
フィーリアは、サリアーナへと生まれ変わり
彼女は、また、私を1人にしたのだ。
あの時のことを後悔しない日など、ない。
私は若く、力もなく、フィーリアを迎えることができなかった。」
灰皿に置かれた葉巻は小さな煙を上げている。
組まれた手は少しだけ、震えていた。
「サリアーナを見つけたときは、心が飛び上がるほどの...
ー わかるかね、運命というものが。
彼女は私を見て、あの時と同じように微笑んだのだ。
やっと、ー やっと 見つけたのだ。」
眼光に凄みが差したほか、唇は笑っている。
ヘレナは微笑して、その微笑を消した。
「だが、幸せというものこそ
そう、長いことは続かないものだったよ。
いや彼女もわかっていたのだ。
サリアーナが2人目を妊娠した時、病に体は侵されていた。
私は愚かだろうが、彼女を失いたくなくてね。
彼女に堕胎を勧めたよ。
あのときのサリアーナの顔は忘れられない。
薄っぺらな笑顔だったように思うよ。
ー だが、彼女はルイーズを産んだ。
...息を引き取るまでの時間、私は彼女を抱きしめて
この魂が引きちぎれようと構わなかった。祈ったんだ...」
言い切る前に、アレクサンダー・ヴォルフ・フィオドアは
ヴィクター・エルンハストは
組んだ手を額に押し付けて、嗚咽した。
その手に、ヘレナは触れる。
軍師の手は、ゴツゴツして骨張っていた。
「彼女(フィーリア)を救えなかったのは 私だ
彼女(サリアーナ)を殺したのは 私だ
”選べなかった”のは 私だ」
軍師は目頭を押さえたまま天井を見上げた。
「最後に交わした 約束は
ー ”系譜”を、守ってほしい、と」
ヘレナは静かに立ち上がっていた。
窓際に立ち、外を眺めていた。
目を閉じれば、浮かぶ情景を見る。
『ー ようやく、あなたに話すことができるみたい。
私たち一族の秘密。
私たちにはね、特別な力があるの。
むやみに使ってはダメよってニーヒャが言ってた。
昔々に、山に住んでた魔女がいて
魔女に恋した男の人が、毎日花を持ってきて
自分といっしょに生きてほしいってお願いしたの。
魔女は自分が魔女だから
それはできないって突っぱねた。
けれど、魔女は恋をしてしまったから
もう嘘はつけないの。
魔女の秘密は恋をすると、魔法が使えなくなるの。
そういう呪い。
だから男の人は、聖女を呼んだ。
聖女は呪いごと自分にかけた。
魔女は感謝の代わりに、秘術を授けた。
それが私たちの始まり ーそして』
クスクスと笑う声がこだまする。
ヘレナは目を開け、軍師を振り返る。
美しい清廉な眼差しで、ヘレナは答える。
「唯一、愛を知る者だけが呪いを解いて
ー聖女の力を 解き放つ」
軍師はヘレナを見つめ、初めての笑顔をヘレナに向ける。
「叔父様ったら意地悪ね。
ー 最初から、ユージーンにするつもりだったのでしょう?
私が聖女かどうかを確かめるなんてこと
叔父様ぐらいしか、やらないわ ー。」
「あぁ、そうだ、ヘレナ。
ー サリアーナが守りたかったもの、それは ”君”だよ」
どこまでも純情な、どこまでも気の遠くなる
何度も繰り返される日々をすり潰していく時間を、300年間
ヴィクター・エルンハストは
フィーリアの言葉を
サリアーナの言葉を
信じて守り通してきた。
サリアーナは知っていた。自分の命はもうすぐなくなること。
自分は聖女ではないけれど、妹のヘレナは聖女だということ。
ヘレナが生まれたときのことを、サリアーナは忘れていない。
ヘレナを囲むまばゆい光が
精霊たちを呼び
彼女を祝福した。
”この娘に祝福あれ”
”この娘に真実の愛が降り注ぎますように”
声を、聞いた。
そして、もう一つの声を聞く。
『 呪いを解いて 聖女にまことの光を 』
サリアーナは、自分がヘレナを守りたいと思うようになっていた。
(きっとこの子は、何かを、誰かを、救うのだ)
ずっと会いたかったあの人と、
彼とまた巡り会えたのは、ヘレナの力だ。
軍師は声の中にいた。
まるでそばにサリアーナがいて、目を輝かせて
自分を見上げているようだ。
『しあわせだったのよ。ヴィクター。
あなたのお嫁さんになれて、私は本当にしあわせでした』
握られた手に、軍師は魂が震える。
(会いたかった。ー 君に、会いたかったよ)
正しさなんか、なかった。
安心したいだけの言葉は要らなかった。
どこまでだって、彼女を探すつもりで生きていた。
利用できるものは何だってした。
その影に目が眩むことがあっても
彼女をしあわせに、したかった。
「ヴィクター・エルンハスト。
ー あなたの愛は、私に本当の光を導いた。
あなたの魂は、約束を果たしたの。
ありがとう、守ってくれて ー銀の狼の印を持つ者よ、
お姉様を愛してくれて、 ありがとう。 」
ヘレナは柔らかな、日差しのような笑顔を浮かべた。
そして、最上級の礼を執る。
顔を上げてイタズラに笑い出した。
「ふふ。ー
ヘレナはそう言うと、くるっとドアに向いて歩き出す。
「明日は早朝6時には親族が控えに集まりますので
軍師も今日はお早くお休みくださいね」
ドアは静かに閉められた。
軍師は深呼吸した。
心がまだ、震えていた。
手にはじんわり、汗をかいている。
盤上を、見た。
(白のクイーン単騎駆けー。 サリアーナ、君の妹君は ー。
何というか、ー 敵わないな )
クスッと笑うサリアーナがいるような気が、した。
軍師は生まれてこの方、初めて大声で笑い出した。
「ふっ、ー ヘレナ、しあわせになれ」
夕刻の教会は明日、ユージーンとヘレナの婚姻の儀の準備を終わらせ
人気はない。
アルフレートは静かに祭壇の前に跪いた。
確かに、ここに、彼女の亡骸はいた。
自分が犯した過ちを悔い改める毎日だ。
なのに、彼女は自分を赦した。
そして、彼女を想う心は親愛のそれではないことを、自覚した。
1人の女性として、彼女を想う。
気高く触れ難い彼女を、自分の腕に掻き抱けたら
そんな想像がアルフレートをまた、苦しめた。
明日、彼女はもう、そんな想像すらしてはいけない人になる。
彼女は朗らかに笑うようになった。
随分、砕けたように接するようにもなった。
毎朝の鍛錬は欠かさず、花を持てば
彼女のまわりは光り輝くようだった。
その、髪に触れたかった。
「アルフレートなの?」
ヘレナだ。
アルフレートは思わずこの心の内が漏れたのではないかと
不安になったが、冷静を装って立ち上がる。
「ー このような時間に、ヘレナ様。
いかがなされましたか」
「ふふ、夕刻のお散歩よ。ーアルフレートは...お祈りね」
「護衛も付けずに、また一人歩きですか」
ちょっと意地悪な言い方をしてしまう。
「えぇ、だって自由ですもの。」
ヘレナは全然気にしない。
明日この教会で行われる婚儀はあるが、ヘレナにとっては
単なる儀式だ。ー それより
「ねぇ、アルフレート。それなら、私のお散歩に付き合ってちょうだい。
あなた、私の護衛でしょう」
ヘレナは来た道を戻っていく。
アルフレートはもう一言、言いかけたものの
ヘレナに付いていく。
現在、ノンネッセだった頃の王城は原型を崩し
新たに改築し始めている。
その間、ヘレナはユージーンの住む屋敷にいることになる。
だから、自分が住んでいた王城を
最後に見学する予定だった。
「アルフレート、下っ端騎士はどうだった?」
ついこの前まで下っ端騎士としてやり直していたが
クレイトンの計らいで、今は騎士団長になった。
「そうですね...良い経験でした。
ー いろいろと」
「ふふ、含みがあるわね」
ヘレナは後ろを付いてきてるアルフレートに振り返った。
長い銀の髪が、夕日を反射し輝いた。
アルフレートの胸が苦しくなる。
平静を装うたびに、この胸のつかえで動けなくなりそうだ。
「サスケがね、アルフレートのことを好きみたいなの」
アルフレートはギョッとした。
さっきまでの甘酸っぱい苦い気分が最底辺へ落ち窪む。
「あ、語弊があったわ。ーごめんね、違うの。
ふふ、サスケったらアルフレートかルイの話しかしないの。
アルフレートの好きな食べ物が、チョコレートだとか
趣味で釣りを始めたとか、そういうこと」
アルフレートの顔が赤くなっていく。
無意識に目線を下にずらしていた。
(あいつ、ベラベラと人のことをー)
「ーでも。 私、嬉しかったの。」
顔を上げるとヘレナが笑っている。
「アルフレートに、そんな友達がいるなんて 素敵じゃなくて?」
ヘレナはゴソゴソとドレスの外ポケットからチョコレートの包みを取り出した。
「私も、友達になりたいわ」
アルフレートにチョコレートを手渡そうとした。
アルフレートは片膝を付いて首を垂れた。
「ー ヘレナ様、”私”はあなたに仕える騎士です。
友、とは肩を並べる者。
どうか、お立場をお弁えください。ー」
(頼む、これ以上、俺を苦しめないで
ー俺をどうか、引き離してくれ )
「ふーん...。わかったわ。
じゃぁ、友達は諦めるわ。」
アルフレートはホッとする。
ヘレナはアルフレートの目の前にしゃがみ込んだ。
覗き込んできたかすみ色の瞳に心臓が、跳ね上がる。
「でも、教会仲間よ。
それでーえぇと、あなたは剣術の師匠でもあるわ。
私は弟子よ。
それじゃ、ダメなのかしら。」
(何度、心で君の名を呼んだだろう。ーその君が
目の前に、ここにいて、手を伸ばせば触れられる。
ー けれど、この声は君には届かない)
アルフレートは泣きそうな顔して微笑んだ。
「ねぇ、アルフレート。
ー 私、明日結婚するの。
不思議ね、この前までノンネッセの王妃だったのに。
毎日、毎夜、悪戦苦闘して王政を乗り越えてきたわね。
そのとき、アルフレート、あなたは
私の支えだったのよ。ー ふふ。
ユージーンには内緒よ。
あなたが毎日、私に運んでくれる書類はとても見やすくて
間違いやすい箇所は、必ず赤丸がしてあって
ー 徹夜した後の教会で会ったら、あなた。
”おはようございます、今朝も良い天気ですね”って。
ぷっ。ふふ。ーさっきまで一緒にいたのに、って思ったわ。」
俯いて笑いを堪えるヘレナの髪が、アルフレートの手に触れた。
「ーヘレナ様。 ”俺”はあなたに仕えていることを
この世の至上のしあわせだと思っています。
どうか、この思いだけはー お受け取りください。」
ヘレナは思い出し笑いで涙目になりながらも、頷いた。
アルフレートは、彼女が自分の今言った言葉をわかっていても
わかっていなくても構わなかった。
「じゃぁ、握手ね」
立ち上がったヘレナは手を差し出した。
アルフレートも立ち上がり、握手した。
白く、細い華奢な手。
握りしめたら、潰してしまいそうだ。
この手で、幾度となくこの国の困難を乗り越えさせてきた。
アルフレートはヘレナに聞いた。
「ヘレナ様は、しあわせですか」
「しあわせよ」
花が綻ぶみたいな笑顔で
即答するヘレナに、アルフレートは心から安堵した。
(そうか...しあわせなんだな...良かった)
ヘレナのしあわせそうな顔を見たら
彼女に忠誠を誓ったことや
彼女のその笑顔を守れることの方が自分のしあわせなのだ、と思った。
その、涙目でヘレナはアルフレートに握手したまま、言う。
「 私のわがままで、ごめんなさい。
ー これからも、どうか
よろしくお願いします ー」
お辞儀したヘレナにアルフレートは、恐縮した。
「いいえ、こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
(簡単じゃない。けど、これでいい。
俺の声をどうか、聞かないで。
ー ”正しさ”なんて、俺には不要だったな。)
アルフレートとそこで別れ、ヘレナは帰り道の角を曲がる。
(まだだ、まだ、泣くな。まだ、あとー、後少し。)
曲がり切った先の工事中の看板を抜けてから
ヘレナの目には
次から次へと涙が溢れる。
思い出し笑いなんて、嘘だ。
(ー知っていたの、ごめんね、アルフレート。
あなたが私を思っていてくれたことは
全部、知っていた。
あなたの気持ちに応えられなくて、ごめんなさい)
ヘレナの心に唯一、残るアルフレートへの罪悪感。
ひょっとすれば彼女自身が
毒殺されることを可としたことへの贖罪だったのかもしれない。
許されたくて、毒殺を許したわけじゃない。
救われたかったのは、ヘレナだ。
けど、彼女にはどうしようも
誠実さが、追いつけないような
動けなくなるような思いを
ヘレナには、応えられるはずもなかった。
グズグズ泣きながら元の王城の中を抜ければ
アンソニーとの思い出の場所、薔薇庭園だ。
薔薇庭園で、男が1人。
ヘレナはその姿を見て、またグズグズだ。
「マリッジブルー?」
「...私、もうだめだぁ〜ぁ」
ヘレナの顔はもう、泣きじゃくった子供みたいに崩れてる。
男は困った顔をして
ヘレナに向かって歩いてきた。
ヘレナは座り込んで、もう歩きたくない。
「しょうがないなぁ、俺の婚約者様は。
ーほら、おいで」
抱きかかえられながら、ヘレナはまだグズグズ泣いている。
「私は不誠実な女だわぁ〜ぁ。」
何やら喚き始めた。
「ヘレナは不誠実なの?」
「そうよ、私、悪女なのよ、きっと、きっと地獄行きよ」
男は笑った。
ヘレナはちょっとムッとした。
「そうか、悪女か。 ー 俺はどうやら魔法使いらしいぞ」
泣き腫らした瞳に映る薄い青の瞳が覗き込む。
ヘレナの頬をさすりながら、おかしそうに言う。
「悪女と魔法使いなんて、面白い組み合わせだな。
ー騙し合いでも、する?」
ヘレナはキョトンとして、小首を傾げた。
「あぁ、なんでもいいよ。ー君が俺のものになるのなら
俺は君が悪女だって構わないんだ。」
「騙されるのに?」
「うん」
「殺されるかもよ」
「また、生まれ変わって会いに行く」
ふふ、とヘレナが笑った。
「じゃあ、次は私が呼び戻すわ」
もう、王城の薔薇庭園は闇に包まれて
空には星が瞬き始めた。
「冬はやめた方がいい」
ぼそっと言った。
「なぜ?」
「ヘレナが風邪を引いたら困る」
それだけ言って、ヘレナを横抱きにして立ち上がる。
「ユージーン。ー 私、聖女なんですって」
ユージーンは器用に看板を避けながら
建材を跨ぐ。
「あぁ、知ってる」
「知ってたの?」
「男にとって、惚れた女はみんな、”聖女”なんだよ」
ヘレナの涙はいつのまにか引っ込んで
次には大笑いしていた。
「笑ったな?」
ユージーンはヘレナを横抱きしたまま口付けた。
「俺の妻になる人は
王妃で、女帝で、悪女で、 聖女。ー最高だね」
ヘレナは横抱きされながら
アルフレートに渡し損ねたチョコレートを食べた。
食べた口で、ユージーンに口付けた。
「甘い。ー もっとして、って言いたいけど
続きは、明日」
ユージーンの声が甘くなる。ヘレナは微笑んだ。
ー 明日は、2人の結婚式。
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