第7話 震える男たち
3年前。女帝の死んだ日。
ユージーンは震えた。
トイレに行きたいからではない。
お化けをみたからでもない。
緊張はしているが、将軍であるユージーンにとって震えるほどの緊張ではない。
もちろん、寒い。
なぜなら今は12月だ。
さらに今日の午後、女帝は死んだのだ。
今正確な時刻はわからないが
夜は更けた。
ユージーンは忙しい身である。考えることも、やることも山ほどある、
(俺はここで何をしているんだ ー)
軍師に呼び出されるがまま、来たものの
内心さっさと帰りたい。
ただし、目の前で軍師が言うことを聞いたとき
その話に、身が震えた。
軍師は大真面目に、将軍を見ている。
若き将軍にはほんの少しの苛立ちが垣間見え
軍師はこの森の奥深くに彼を呼び出したことを正解だと思った。
(まだ、若いー)
女帝ヘレナ・マルティネス・シュレーシヴィヒ。
シュレーシヴィヒ家はこの国の王家の数少ない誇りの名残だ。
ただ、血統としては果てしなく遠い分家のようなものだ。
ほぼほぼ他人だ。
正しくはシュレーシヴィヒ国の姫君、と言った方がいいだろう。
シュレーシヴィヒ国は、約300年前の飢饉で国が滅びた。
そのとき、生き残りの王家はたったの3人だった。
生き残りが、今の国での侯爵としての立ち位置だ。
そして、そのシュレーシヴィヒ家の生き残りをこの国へ連れてきたのは
大公エルンハストだった。
今やこの事実を知るのはもう、シュレーシヴィヒ家の当主と
その家に眠る家系図の分厚い本だけだ。
女帝の死の報せを知ったシュレーシヴィヒ家の若き当主
ヨアは、分厚い家系図の本を手のひらで軽くさすった後、開いた。
当主として初めての役目がこれである事と
心を抉るその事実に、ヨアは静かに怒りを湛えた。
(あのとき、止めておけば ー)
何度思ったことだろう。
何故、引き止められなかったのだろう。
止められたはずだった。
あのような愚劣な男にくれてやる気なんて
父上だってなかった。
薔薇庭園の出会いは面通しのようなものだから
婚約者などになる必要はない、とでも言っておけば良かった。
気付けば、妹は婚約者になっていた。
気付けば、妹は自分の知る、妹ではなくなっていた。
この家を出る日
妹は家族に向けて一言
「 この国へ ”恩返し”に 行って参ります 」
と、だけ言った。
妹は約300年前の出来事を、自分たち先祖のことを
知っていたのだ。
だが、それを今知ったところで
自分も父上も
どうすることもできなかった。
他人のようなほほえみだけを残して
妹は、王妃となり、女帝と呼ばれた。
それがなんだ。
もう、すべては終わったのだ。
ヨアは羽根ペンにインキを浸した。
ぽた、とインキが紙に落ちる。
黒い黒いシミが広がった。
それを見つめているうちに
自分の視野もぼやけていく。
呼吸を整え、一度、上を向く。
ドアをノックする音が聞こえた。
「ヨア様、ご来客様です」
「聞いてないな ー、誰だ?」
女帝の報せを聞いてから、半日過ぎた。
時計の針は、夜の9時を過ぎたところだ。
「ー アレクサンダー・ヴォルフ・フィオドア伯爵卿です 」
ヨアはその名を聞いて深呼吸をひとつ、した。
「ー 通せ 」
軍師、フィオドア伯爵。
食えない男だ。
この国に召し抱えられるまで、大国の将軍をしていた男だ。
戦上手で謀略の天才と呼ばれていた。
大国の王が亡くなったあと、忠義は果たしたと一言
各国を渡り歩いた。
そんな流浪する男をこの国が召し抱えられたただ一つの理由。
ー この男が愛した女だった。
この女こそが、シュレーシヴィヒ国の姫君、女帝の姉、その人だった。
つまりフィオドア家とシュレーシヴィヒ家は親戚の関係だ。
まだ年端も行かないシュレーシヴィヒ家の姫君は当時14歳だった。
その無垢な姿に、31歳のアレクサンダー・ヴォルフ・フィオドアは
一瞬で心を手放した。
彼には信仰をともにする神はいない。
自分の考える戦術には何の必要もないからだ。
だが、軍の士気が上がるなら利用する。
だから、運命だとかそういう言葉は
信じたいやつが信じればいい、ぐらいに思っていた。
その彼が、”運命”の神というものを
信じるのに値するほど
この出会いは彼を変えた。
王都の公園で、犬と一緒に駆け回る少女に
アレクサンダーは目を奪われたままだった。
その少女はアレクサンダーと目が合うと、笑顔になった。
魂が震えるその笑顔に
アレクサンダーは泣きそうになる。
それから
何度追い返されても、やって来る。
そのしつこさに、当時当主のローシャルはゾッと身震いした。
その男は自分で言った。
大国アルデラハンの将軍で軍師だった。
アルデラハンは一番大きな国だ。
そんな国で将軍をやっていた男が、なぜこの国にいるのか。
名誉も地位も捨て、旅を続けていると言う。
この国へ来たのはたまたまだと笑った。
パッとの見目に関することを挙げれば、
将軍というには柔和な印象だが、鍛えられた躯体と
その体の大きさに似つかわしくない涼やかな物腰だ。
もっと将軍ってゴリゴリゴリラかとローシャルは思っていた。
ただ目つきだけは鋭く、人の思考を静かに見守るような
そんな男だった。
チェスの名手、と噂を聞く。
負け無しだったローシャルは少しだけ、気になった。
同性として彼を評する。
女性の関係に関して言えば、枚挙に暇がない嫌なタイプだ。
そんな奴が、なぜうちの娘を ー。
(17も下の子供だぞ...頭がおかしいんじゃないのか?)
本人が一番わかっている。
自分のどこかがおかしくなった。
相手は少女だ。
冷静に判断するも、冷静ではいられない。
混乱のあまり、毎日朝から晩まで滝行した。
頭と体は冷え冷えしたが、胸の熱はより大きくなった。
会いたかった。
おかしくなったと思って他の女にいってみた。
イケた。割とイケるし、男としては間違っていない。
”少女”に対する趣味などひとかけらだってなかったし、今だってそのはずだ。
他の少女を見たところで、何も思わない。何も感じない。
自分はおかしくなかったが。心はおかしくなっていた。
ただ、会いたかった。
あの日、出会えたことを感謝していた。 ー ”運命”の神に。
しつこいだけの男かと思っていたが
いつも花を携え、メッセージカードを一枚付けているだけだった。
家族の誰が見ても恥ずかしくないようなメッセージだけだ。
『春の花』とか『緑の季節』。
アレクサンダーだけの名前が書いてあるものもあった。
そのうち、少女の部屋には花が置ききれず
アレクサンダーを迎えるエントランスにまで花は増殖していった。
ローシャルは絶対許す気はなかったし
娘と会わせることもしなかった。
だが、いつもやって来ては
侍女に花だけ渡して本人はとっとといなくなるのだ。
曇りの日も
雨の日も
風の日も
嵐の日も
晴れの日も。
( ー 何がしたいんだ、あいつは)
気持ち悪さしかなかったアレクサンダーに
いつしかローシャルには、小さな罪悪感が芽生えた。
毎朝届けられる花は、珍しいものが多かった。
花に付けられるリボンは高価なもので
いつも少女の瞳の色だった。
最初は気持ち悪さから捨てていた。
それが気付けばリボンも山となり、その山は美しい光で満たされた。
捨てるに忍びなくなる頃には ー。
罪悪感は同情になった。
根負けしたのだ。
ある日、チェスの勝負を持ちかけた。
「卿は戦上手と聞いている。
それでは、私と一戦..」
「待ってください、お父様」
少女はサリアーナと言った。
「わたしが、指します。」
アレクサンダーは胸が激しく高鳴った。
(きっと、勝てる)
目の前の少女を掻き抱く幸福を思い、酔っていた。
煩悩は、滝行くらいでは無くならなかった。
チェス盤に駒が並んだ。
しかし、少女は考え込んだきり
身じろぎもしないで盤を見つめたままだ。
「...何か問題でも?」
アレクサンダーは訝しげにサリアーナに聞く。
少女は一瞬、アレクサンダーを見上げ
その後しばらく黙り込み、困ったような小さな声で言った。
「...実は知らないんです、ルール」
その日から毎日、アレクサンダーとサリアーナはチェスをした。
主に、アレクサンダーが教えるという形で。
サリアーナは賢い少女だった。
観察力に優れ、盤を見渡す力に溢れ
時に思ってもみない考え方をした。
(ー 飲み込みの早い娘だ)
アレクサンダーもつい、熱が入る。
ある日、サリアーナは言う。
「今日は本気で勝負をしましょう」
アレクサンダーは毎日のチェスに
楽しみだけじゃなく、嬉しさだけじゃなく
穏やかなあたたかさと
サリアーナの笑顔に幸せを感じ、魂が感応して震えている。
いつのまにか、自分の欲するものが
サリアーナに満たされていることを知った。
部屋に響く駒を打つ音が二人の会話になっているようだった。
少女の細い指先がクイーンを置いた。
「チェックメイト...」
「...サリアーナ嬢、あなたの勝ちです」
アレクサンダーは小さく笑った。
それで良かった。
これが一番、納得できる。
ー 。
席を立ち、アレクサンダーは部屋のドアに手をかけた。
「あ、あの!
勝ったら、お願いを聞いてくれるのですよね?」
サリアーナは立ち上がっていた。
振り返るアレクサンダーに、サリアーナは抱きついていた。
「わ、わたしを、あなたのお嫁さんに、してください」
それからというもの
当主ローシャルはサリアーナに代わって
アレクサンダーとチェスを打ち続けたが
ついぞ勝機は一切感じられなかった。
軍師は ついに 姫を 手に入れた。
その宝(ひと)は、彼の人生の中で最も輝かしく
ー 生涯を超え、愛する女となった。
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