第7話 グラスジャッカル

 草原は思った以上に歩きにくかった。膝下まで草が伸びていて、足を付く場所が見にくい。あるときは、思った以上に深く踏み込むことになったし、あるときは、思った以上に早く地面に足がつくためだ。草原は見た目平らに見えるが、草の生えている地面は、かなり凸凹としていた。


 結局、すり足ぎみに足をはこび、草を踏み分けるようにして、ゆっくりと進むしかなく、40歩ほど進んで息をついた。


 軽バンを振り返ると、つけた覚えがないルーフキャリアやスモークフィルムは、カッコいいとは思えなかったが、やはり我が愛車だ。愛おしい。意地を張ってもしかたない。仕事をしなければ、ナオを探し出すこともできない。


 俺は、空を仰いだ。


 ロラにわびを入れよう。ロラが軽バンを動かせというなら、何かしら策があってのことなのだろう。そのとき、風も吹いていないのに、かさっ、かさっと葉っぱ同士がこすれる音がした。耳をすます。


 空耳か、それとも自分がたてた音か。数箇所でガサガサと音がした。気のせいじゃない。汗が背骨に沿って流れ落ちた。近くに何かいる。


 俺は、一目散に軽バンに向かって走り出した。背後で、草が鳴った。何かが俺の後を追ってくる。うまく歩けないのに、うまく走れるわけがない。それでも、一度踏みわけた草を目印に足をとられながらも駆けた。


 運転席のドアをあけ、座席に座った瞬間、何かが俺に向かって口を開けて襲ってきた。


 かまれる。


 俺は、とっさに胸の前で両手をクロスさせ頭を丸めた。俺に牙を向けたそれは、噛みつく寸前のところで壁にでもぶつかったかのように弾かれ、短く悲鳴を上げた。


「お、早いお帰りだっぺ」


 ロラの嫌味に反応している場合じゃなかった。大型犬のような獣が牙をむき出し唸り声を上げていた。運転席から見える範囲で4匹ほどいる。大型犬と明らかに違うのは、毛並みが濃い緑であることと、後ろ足が若干短く、前足は太いところだろう。


「なに、これ」


「グラスジャッカルだっぺ。知らねえのか」


 知らねえよ。俺は、グラスジャッカルが慎重になって間合いを測っているスキに運転席のドアを素早く閉めた。


「どーすんだ。本気で仕事する気あんのか。ねえなら、グラスジャッカルに食われて死んじまえ」


「すみませんでした、ロラさん」


「バカ野郎のやる事なんて、そんなもんだろう。謝るぐらいなら、はじめからすんなや」


 ぐうの音もでない。


「いいかよく聞け。この軽バンには、バカ野郎のパーティーメンバーしか乗れねえの。だからもし、何かに追われたら車内にまず戻れ」


「それで、あのグラスジャッカルは、すんでのところで弾かれたのか」


「そういうこと。けど、このルールも完璧じゃあねえ。女神様の加護を超える力の侵入は防げねえ。まあ、せっかく一度は助かった命なんだから大切に使ったら、いいんじぇねえの」


 何の前触れもなく、軽バンのボディーが音をたてた。その音に合わせて軽バンの車体が揺れる。窓から外をうかがうとグラスジャッカルたちが、軽バンに体当たりをしはじめたようだ。悪質な暴走族に囲まれてしまった気分だ。


「やめてくれ。俺の軽バンが凹む」


 俺は、とにかくこの状況から逃げだすため、エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。どうにでもなれ。軽バンはまるで、舗装したての道路を走るように滑らかに、そして静かに走りだした。信じられない。俺が足をとられながら走った場所と同じ場所だとは思われなかった。前方の草が左右に割れていく。モーゼの十戒に出てくる海が左右に分かれる情景を見ているようだ。


 バックミラーを見る。何も見えない。そうだ黒い仕切り板があったんだ。とっさに、左右のサイドミラーを見る。草原の暴走族集団グラスジャッカル達が追ってくるのが見えた。俺は、さらにアクセルを踏んだ。時速60km。


「良いね、いいね、その調子で行け、バカ野郎」


 ロラさんの機嫌は治ったようだ。これからは、できるだけロラさんに逆らわないようにしよう。


「これで、やっと次の説明に進めっぺ。まず、ナビのマップ画面を見ろや」


 ナビ画面の大部分は真っ白だが、画面中央に赤い矢印があり、西を向いていることがわかる。その矢印の右側、地図の東に地図記号などが直線状に書き込まれていた。


「バカ野郎が進んだ道に沿って地図に情報が書き込まれる。その範囲は、おおよそバカ野郎の視界の範囲だ」


 そうすると地図が書き込まれた線状の幅は、100メートルから300メートルぐらいか。


「地図情報が書き込まれた部分が女神様の領域、神域だっぺ。最終的に、この世界のすべてを神域に戻すのが仕事だ。わかったか」


 ある程度覚悟していたこととはいえ、これは、大変なことになった。この調子で白い部分を全部なぞっていくとすると、気の遠くなるほど時間と手間がかかる。


「バカ野郎が進んだ道が一筆書きで、閉じられた場合、形は何でもいいけど、例えば、円を描いたとしたら、その円の中も神域になっぺ」


「それはいい。とてもいい。つまり、ここでハンドルを右に切って、半円を描けば、その半円の中にも地図が書き込まれるということ?」


「そう言ってペぇ。大切なのは、神域にしたいと思ったら、できるだけ素早く一気に一筆書きで囲む、ってことだ」


「素早くってどれくらい」


「具体的には、走った部分が時間の経過とともに元の白塗りに戻っちまうので、そうならないうちにだ」


「もっと具体的に言うと、どれくらいの時間?」


「ちぇ、細けえな」


「こういうのは、はじめにちゃんと知っておかないと、後で困るだろう」


「条件によるけど、半日ぐらいだ」


 つまり、半日で閉じる必要があるのか。そうするとあまり大きな領域は一度に作れない。


「四の、五の、言わず、とりあえず実際に神域を作れ」


 一時間ほどかけて、ロラのアドバイスに従い円を描くように走った。運転をしながら、周りを観察してみたが、どこまで走っても人工物は見えなかった。俺は、今、広大な草原の真っ只中にいるようだ。


 ただ、信号も、前を行く車も、渋滞もない草原を時速50キロで走行できるのは気持ち良かった。しかも静かで揺れも無い。完全にグラスジャッカル達はまいたようだ。


「神域内には、バカ野郎に敵意をもつ存在は、存在しにくくなる」


 完全に存在しない、ではないんだと思いながらも、ほっと一息をついた。窓も少し開ける。湿気のない気持ち良い風が運転席に流れ込む。ナビの画面にはロラの説明どおり閉じた円の内部にも地図が表示されていた。


「バカ野郎でもできっぺ」


 できることには、同意できるが、バカ野郎という呼びかけは、どうにかならないものか。


「だけんな、仕事は、これだけじゃねんぞ」


 ええ、どういうこと。

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