第6話 ロラ

クラクションが遠くで鳴っていた。


 それは、はじめ耳の近くで聞こえる蚊の羽音のようなものだったが、次第に音量は大きくなり、体全体で感じるほどになった。


「うるさい」


 俺は、上体を起こした。クラクションが鳴り止んだ。自分の体で軽バンのクラクションを押し続けていたようだ。


 フロントガラスから見える風景は、一面の草原だった。雲ひとつない空。無風なのだろう草原の草はピクリとも揺れていなかった。


 建物や電柱などの人工物は、見当たらない。まったく見覚えの無い風景だった。悪い夢だと思いたかったが、やはり夢ではなかった。女神との契約のことが頭をかすめた。俺は、頭を抱えた。


「おい、コラ、起きろボケ」


 車載スピーカーから聞こえて来たのは女性の罵声だ。


「誰?」


「はーあ。誰じゃねえ。ナビを担当するロラだ、バカ野郎」


 ナビの画面を見つめた。AI《えーあい》?


「まさか契約のことを忘れてねえべな」


「ああ、ええ。たぶん。女神との契約のことですよね」


 俺は、自分の首に手を当てた。


「おいコラボケ。女神様、だろう。一度死んでおきながら、呼び捨てにできるほどテメエは偉えのか」


「いいえ」


 どこのヤンキーと俺はしゃべっているのだろうか。


「仮にも命を助けてもらったんだから敬意を払うべきだろうがよ」


「済みません。あのお、ちょっとお聞きしたいんですが、ナオは。ナオは、今どこにいますでしょうか」


「それは、あたいの問題じゃねえから知るわけねえ。まずは、真面目に仕事をしようぜ。どうせ世界中を旅して回るんだから、そのうち分かるんじゃねえの」


 確かにそうだ。命を助けてもらったのだから、まずは請け負った仕事をするのは当たり前だ。それでも、自分勝手なのは重々承知だが、ナオのことが心配だ。ここで契約を破棄したらどうなるのだろうか。


 そう考えたとたん、たちまち冷や汗が流れだし、吐き気がこみ上げてきた。左足も痛みだした。


「まさか、変なことを考えてないだろうな。顔が真っ青だべ」


「え、ええ。まだ本調子じゃないみたいです」


「女神様との契約は、絶対だ。仕事の途中で死んじまうのは仕方ねえ。でもな、仕事を投げ出すのはいただけねえ。そんなことは、あたいが許さねからね」


 心臓を鷲掴みされたように胸まで痛みだした。今すぐにでもナオをさがしに行きたいが、契約破棄はできそうにない。あの男は「お迎えにあがりました」と言った。ナオを殺すわけがない。ナオはきっと、生きている、と今は信じよう。


 諦めるわけではない。仕事をしながら、ナオを探そう。それなら契約違反ではないはず。仕事にさっさと取り掛かったほうがナオとの再会も早まるにちがいない。


「大丈夫です、ロラさん。早速ですみませんが、仕事の段取りを教えて下さい」


「覚悟は決まったみたいだね。それじゃあ、まずは、この軽バンを発進させろや」


 俺は、フロントガラス越しに再び外をみた。目の前には草原が広がっているだけで、軽バンが走れるような舗装された道路はなかった。四輪駆動でもない、ただの軽バンでは、すぐに動けなくなるだろう。


「無理です。道がない」


「あたい達のすすむ先が道になるんだ、バカ野郎」


 なんか、格好いいけど。言っていることはむちゃくちゃだ。


「さっさと走れ。走らなければ、話になんねーぞ。歩いていたら、人生終わっちまうべ」


 そんなこと言われても走れないものは走れない。パンクもするだろうし、下もこすってしまう。配送のプロとしてゆずれないこともある。俺は、外に出て地面を確認した。


「おい、バカ野郎。丸腰で外に出たら死ぬぞ」


 なんと言われようとも走り出す前に、周りの状況を確認するのは運転の基本だ。不思議なことにタイヤが接している4箇所と車体の下だけは、草は生えておらずまっ平らな地面だった。他の場所は、やはり草が生え、凸凹で、とても車で走れる地形ではない。しゃがんだついでに太い木の幹に乗り上げた跡を確認するため、車の下を覗き込んだ。大きな傷や凹みはなかった。


 ほっとして、立ち上がり荷室をなにげに見ると、リアとサイドのガラスに濃い色のスモークが張ってあった。バックドアを開けた。迷惑運転防止用に取り付けた後方用のドライブレコーダーのカメラはそのままついていたが、荷室に詰め込んでいた引越しの荷物が何も残っていなかった。


 さらに荷室をよく見ると、運転席と後部座席の間に黒い板で仕切られていて、後ろから運転席を直接見ることができなくなっていた。


「これじゃ、バックミラーが使えない」


 慌てて、軽バンの前方に移動した。ETCの機器と、ドライブレコーダーはバックミラーの脇についたままだったが、黒色のルーフキャリアが天井についていた。思わず、語気を強めて文句を言う。


「なんで勝手に俺の軽バンを改造……」


 それに、俺のスマホも、腕時計も、財布もなくなっていた。これは、いくら命を助けてくれた恩があるとは言え、女神、やりすぎだろう。運転席に戻りハンドルを握る。


「駄目、無理。こんな道じゃ運転できない。それに、俺たちの荷物、財布とかスマホとか、どこに隠した」


「隠すわけねえだろう。バカ野郎のために、女神様が改造されているんだ、有り難く思え」


 改造、という言葉を聞いて、頭に血が上った。


「勝手に、これ以上俺の軽バンを改造するな。仕事をすると言ったが、軽バンの改造までするなんて聞いてない」


「なんだ、その言い方は。そんなこと、言っていいのか。一人じゃ、何もできねえべ」


「うるさい」


「元に戻してもいいけど、即死だ、即死」


「うるさい、うるさい、うるさい。どうして、勝手なんだ」


 勝手に、こんなところに連れてきて、わけも分からず殺されそうになって、引くに引けない状態で、契約をさせられて、なんて勝手なんだ。俺は、軽バンを降りて、思いっきり運転席のドアを閉めた。


ロラが、「危険だ」と呼び止めていたが、無視してやる。俺は、ロラから距離を置くため、あてもなく草原を歩き始めた。


「何が危険だ。草ばっかりで、なんにも無いじゃないか」

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