第2話 僕は運がいい

 アパートへ帰ると、唯一の家族である『内縁の妻』君がケースの中から「お帰り」と腕を動かして出迎えてくれた……ように見えた。甲羅を掻きたいのかな。

 「ただいま、妻君。寒くなかった?ご飯はもうちょっと待っててね」

 この「妻君」は元々は「万次郎」という「亀」なんだけど、ある日の出来事をきっかけに「内縁の妻」君に変わってしまったんだ。

 職場の同僚から飲みに誘われたり、学生のノリで合コンらしき席に招かれたり、軽く食事に誘われたりと結構煩わしくて。僕は出来ることならばそういった仕事以外の付き合いはパスさせて頂きたい。毎回毎回どんな理由をつけて断るか、頭を悩ませていた。

 そして、その日は同僚に「家で『内縁の妻』のような子(ペットの万次郎)が」待っている、と続けて言おうとしたら、彼らが『あ、まずった』と感じた表情で「あ、うん。分かったよ、不参加だな」

 と、あっさり引いてくれたのだった。何故かそれ以来、あまり誘われなくなって……ええ、まさかとは思うけれど「内縁の妻」と誤解されている?

 まあどのみち職場には五年ほどで他へ移動するから、そう思われても構わない。寧ろその方がカムフラージュになっていて都合がいいしね。それ以来、この子の名前が『内縁の妻』君になった。

 そう、僕は女性を愛せない。ゲイだからだ。

 親戚には勿論、親兄弟にもカミングアウトはしていない。親友にはそれとなく話した。それから僕からは距離を置くことにした。大学を東京に選んで上京してからは、実家には年に一、二回帰ればいい方だ。親友とも殆ど会わなくなった。今では音信不通が正しい状況だな。

 僕の実家は小さな田舎町にあって、平成の大合併で町名になったけれども、元々は村だった。父は小学校の教師、母は町役場の職員だ。僕は何処へ行っても「田部井先生の息子さん」「田部井さんとこのお兄ちゃん」と言われ、陰どころか面と向かって色々言われたり、褒められたり貶されたり嫌な思い出の方が多かった。

 ましてや、長男の僕がゲイだなんて。狭い村だ、(今は町だけど)そんなことが知られてしまったら、両親や弟がなんて言われるか。僕はそれが一番嫌だった。受け止める、受け入れるとかの問題じゃない。「噂話の種」になることが嫌なんだ。

 また、それが原因で田部井家が町内で肩身の狭い思いをすることになるのも避けたい。あの両親ではそうはならないかも、だけど。

 可愛いとはお世辞にも言えない弟は、僕とは違ってとても社交的で活発で、オマケに面倒見がいいから周囲の受けもいい。彼がいるから田部井家は安泰だ。そろそろ彼女と結婚するんじゃないかな、と思う。この前の正月に帰省したら、彼女が泊まりで遊びに来ていたから。感じの良い子だったな。

 ちょっときつそうではあったかも。ま、しっかり者の母とはそれぐらいじゃないとやっていくには無理だろうから丁度いいと思うよ。

 僕には彼女を家に連れて行くなんてことは出来ないから、ずっと不甲斐ない兄のままでいい。アラサーを過ぎた辺りで『何処かに佳い人』攻撃が激しさを増しつつある。そろそろ諦めてくれないかな、と切望している。

 僕が同性を好きだ、と自覚したのはとても遅かった。高校生になってからだったな……まさか、とは思うほどに自分で自分が信じられなかった。逆説的に、だから初恋がまだだったんだと納得した。だから女の子に興味が持てなかったのだと。

 自覚してからは、一刻も早く家を出たくて。前から教師になりたい,と思っていたのでそれなりに勉強を頑張ってはいたけど……父の職場環境や周囲の人間関係をある程度把握していたので、学校の教員になるのは潔く諦めた。将来、結婚問題が浮上して来るのが一番のネックになるだろう。父や母があちこちのご家庭から頼まれたり自ら首を突っ込んだりして世話を焼いている。自分たちの息子には嫁が来ることは当然だと考えている。

 ぶるっ、と寒気がした。今晩は暖房をつけなきゃだな。

 勉強熱心だったお陰でスムーズに希望する大学へ滑り込めた。家族から離れられることがこんなに嬉しいなんて……色々がんじがらめになっていたんだな、と後から知った。

 僕は自覚するのも、自分を理解するのも案外遅い性質らしい。勉強ならば飲み込みは早い方なのに……おかしいね。

 同性が好きだと自覚しても、いいなあ、と思うくらいで好きな人とかはこの人だ、という決定打がなかった。ただぼんやりと興味が持てるのは同性だ、と思うくらいで……二十歳を過ぎた頃にアルコールを嗜むことを覚えた僕は、が集まる場所へと自然に足が向いたんだ。

 そう。初恋らしきものがなかった。まさか、僕は人を愛せない体質?なのか?と悩む暇もなく、は突然やってき来た。

 ……僕の悩みとか、つまらないと思うような世間話を聞いてくれるお姉さん(?)を好きになってしまったんだ……。あったかくて、居心地が良くて、それがプロフェッショナルな一面だとは分かっているけど……僕が僕でいられた唯一の空間だった.大学にも居場所は少なかった。友人は当たり障りなく存在したけど、深く踏み込める友人は作らない。そう決めていた。

 僕は彼女に救われたと思う。彼女はとても大きな存在だった。ある意味られている?と疑ったけれども、それはそれでビジネスなんだからと割り切った。そういった場所を提供しているんだ。心のオアシスだった。

 田舎者の僕には刺激的で衝撃的な清濁合わせ持つ印象を持った街だった。

 深追いはしなかったし、出来なかった。どっぷり首まで浸かることにはならなかった。

 でも、様々なことを教えてくれた街だった。僕は就職してもずっと通いたいと思っていた。

 金銭的にも時間的にも余裕がなくて、唯一のオアシスである環境を手放さざるを得なかった。

 転勤先で歓楽街と呼ばれる街を訪れては、あの街にあったような店を探し歩いた。

 ……が如何に特殊な街だったのかを痛感した時は本当にガッカリしたな。

 懐かしいな。行ってみようかな。今日はまだ早いかな。探すだけでもいいかな……。

 偶然バスの中で飛び込んで来てくれた情報を頼りに、僕はアパートを出る。


 僕は運がいいと思っている。

 見つかるといいな。

 

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