時が経てば

永盛愛美

第1話 偶然という名の贈り物

 あれは僕が通勤バスの中でうつらうつらしていた時だった。

 職場である進学塾は、全国展開をしている為、希望すれば転勤が容易に叶う。僕は同じ場所では五年以上は勤めたくはないので助かっている。

 理由わけ有り、とでも言うべきかな。実家にはたやすく帰省出来ない土地を希望して職場を転々としていた。

 その日は珍しく、早めの帰宅だった。転勤したて、引っ越ししたての僕には有り難かった。荷ほどきをしなくてはならないし、周辺の散策もしてみたいと思っていた。気軽な独り暮らしとは言うが、アパートの住人たちとは生活環境が異なる点もあるみたいだし……家事の時間帯や水回りの音なんかも気を付けて暮らさないと。何度も引っ越しを経験したけれど、周囲の環境はそうそうたやすくは内見程度では摑めない。

 僕は職場の立地条件を第一に考えて希望を出すから、生活環境は二の次になってしまうんだ。

 アパートの近くは閑静な住宅街だった。コンビニはあるけど、スーパーやコインランドリーがちょっと遠いかな。駅はもっと遠い。新幹線が乗り入れている大きめな駅だから、その辺に住めば結構便利かも、とは思う。しかし、その辺は若者たちが多い。うっかり生徒たちに見つかったりしたら、私生活やそれ以上のことまで曝かれてしまうだろうことは簡単に想像がつく。僕が一番避けたい問題だった。

 春先の肌寒さからか、バスの中は暖房がまだ効いている。僕はもう少しで居眠りをしてしまいそうだった。

 「なんでぇーお前、それでバスなんかよ!」

 後ろの学生、多分大学生だろうか。社会人ではなさそうな彼らが大きな声で話していた。

 バスの中はさほど混んでもいない。女子高生が数名と中年女性と初老男性が数名、そして大学生たちと僕くらい。夕方だからかな。僕は薄暗い外を見渡した。まだ大丈夫だ。バス停の名前を全部は覚えていないけれど、あと十分以上はあるはずだ。彼らに『起こしてくれて有難う』と小さく感謝した。

 大学生たちは周囲を気にせずに話し続けた。

 「そうなんだよ聞けよそのオカマ店長がさあ!」

 ……ん。今、確か『オカマ』って言った?

 僕は耳がとても大きく肥大したに違いない。座席のシートに深く座り直して、彼らの会話を良く聞こえるように頭を後ろ側に近付けた。バスの中はアナウンスとドアの開閉時の音や外の喧騒に影響されて聞こえにくい。必然的に大声になるのだと思う。

 本当なら、アナウンスが更に聞こえにくくなるから迷惑行為なんだけどね。

 「そのカマ店長がなんだって?お前、オカマバーにでも行ったのかよ!」

 「ちげーよ、普通のバーなんだけどさぁ、そいつが俺が自転車チャリで来たっつったら『お酒飲んだら自転車その子は置いて行きなさいよね?アタシが捕まっちゃうじゃないの。ホラ、鍵ごと預かってあげるから明日取りにいらっしゃい』だとよ!」

 「おまっ気味悪ぃな。マネすんなよ」

 「や、お前も今度行かねぇ?俺、初めて見たんだよああいうの。田舎にもいるんだな」

 「ヤケに素直にそこに置いて来たなお前。え、また行くんかよ」

 「だってまさかの事態になって事故ったら保険とか賠償とか言われるしさー、次に来たらサービスしてあげる、っつーしよ。な、これからお前も行かねぇ?」

 「えー、今日かよ」

 「愛車を取りにいくついでにな」

 「アホか?じゃあお前飲めねえじゃんかよ」

 「おう、飯食いに行くんだって」

 「俺も飲めねえじゃん」

 「あっ、そっか。タクシー使うか?」

 アハハハ!と、彼らは笑いあっている。この路線の近くにバーなんてあるんだろうか?どちらを見ても住宅街だと思うけれど。

 あ、そろそろ僕の降りるバス停が近付いた。もっと彼らの話を聞きたいな……。

 僕のささやかな願いが伝わったのかとドキッとした。

 「で?その店って、このバスで行けるんか?近いか?」

 有難う!あ、次だ、ボタン、は女子高生が押してくれた。

 「もうちょっと先だな。結構バス停から近い感じ?」

 え?近い?

 バスが徐行し始めた。降りなきゃ。せめて店の名前を知りたいな……。

 更に僕は心臓が飛び跳ねた。

 「うーんと、確か『岬』っつースナックみたいな店名だったと思ったな……」

 えっ!みさき、って、岬?

 僕は定期券を運転手に見せながら、耳だけは彼らの遠退く声に集中していた。

 ……今日は荷物を片付けないと。近場を確認しなくては。探索……探検、してみようかな。

 バスから降りると冷たい風が頬を掠めた。桜は散ったのに、まだ空気が冷たいな。


 

 

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