よくいえば、ビーアンビシャス
「足りない……」
これが、物心ついた頃からの私の口癖だった。「一枚足りない」でおなじみの皿屋敷のお菊さんよりも私の方が「足りない」と言ってきたんじゃないだろうか。
それくらいいつも、物理的にも、精神的にも、何もかも不足していた。
「今日は何が足りないの? お箸? お金?」
「あと教科書……」
高校生までは声に出して不足を訴えていたので、友人からこんな風にからかわれることも多かった。そして、からかわれているとわかっていながら、いつも大真面目に足りないものを答えていた。
そんなある日、いつもみたいに不足を訴える私に友人が言った。
「あんたって、いつも何かしら足りない足りないって言ってるけど、その原因はあんたの圧倒的な準備不足なんじゃない?」
でないと、そんなに足りなくなることないでしょうと からかっている時と同じ声色だが その目は呆れ果てていた。その日から私は「足りない」と口にするのはやめた。これ以上呆れられて、数少ない友人を失いたくなかったからだ。
もちろん、口に出さなくなったからといって、充足するわけではない。いつまでも、何かが足りない気がするのだ。
お箸やお金、教科書みたいな物理的不足という、所謂忘れ物については、友人が言った通り準備不足が殆どの原因だった。必要なものを準備している途中で、別のことを始めてしまって、結局最初に用意していたものを忘れてしまう。
だから、対策すれば慣れていくにつれ、忘れ物をすることは減っていった。
問題は心理的な不足の方だ。
こちらは、準備でどうにかなるものではない、というかどう準備したらいいかがわからなかった。
幼稚園の時、エリちゃんは自転車に補助輪なしで乗れるのに私は乗れなかった。
小学生の時、花ちゃんは逆上がりができるのに、私はできなかった。
中学生の時、同じ委員の日下部さんは仕事を誉められたのに私は誉められなかった。
こんな調子で、できなかったこと、または得られなかったものの記憶は強く残って、いつも私に足りない気持ちを味合わせ、苛めた。
反対に、できるようになったことは殆ど覚えていなくて、できない記憶に苛まれた私を救うことはなかった。
それでも、心のうちに不足を抱えながら、なんとか大学生になった。そしてここで私の問題を悪化させる出来事が二つ起きた。
一つ目は、端的に言えば不満を発散しなさすぎて病んだのだ。
あれもできない、これもできない、という不満はどんどん自分を嫌いにさせた。そのことを誰かに聞いてもらえていたら 不満が解消されていたのかどうかも、正直わからない。しかしながら、不足を感じて、それを訴えることができないのは、自分にとって想像以上の苦痛を与えたらしい。
「こんなにできない、何もない人間、生きている意味ない」
なんてことを、この頃は本気で思っていた。たくさんできていたことも、得たものもあったのに、それは全く目に入らなかった。
ここで、もう一つの問題を悪化させる出来事が起きる。
恋愛だ。
世の中には、こんな面倒くさい、病んだ女が好きな男がいるらしい。語弊を恐れずに言うなら、メンヘラ好きという性癖だ。漫画の中の設定だけではなく、現実世界にそんな面倒事を好む人種がいたようで
「できないことは俺に言いなよ。やってあげるから」
なんて、何もできない人間に言ってはいけないセリフを言いながら、何度も私を助けてくれたのである。
彼は、同じサークルで面倒見がよく、リーダー的な存在であった。少なくとも、この時の私にはそうとしか見えなかった。
「俺に任せといて」
「助けてって言えばすぐに助けるよ」
「俺がいて良かっただろ?」
私は彼にだけは不足を訴えるようになり、彼の言葉は私を救ってくれた。そして、そんな私に彼は満足そうだった。
依存の始まりである。
彼は段々と、私を導くようになった。何の講義を受ければいいのか、講義がない時はどこで彼を待てばいいのか。彼がいない時に一緒に昼食を食べていい人は誰と誰で、自分以外の男性と話すのは、必要最低限のことまで。
私はどんどんと、彼に制限されていく行動が、不足を埋めてくれるように感じていた。
感覚としては、心のキャパシティが満ち足りたというよりは、制限という鎖で締め上げられて、キャパシティ自体が縮んだような。
彼と私と同じサークルにいた友人は、しきりに「束縛され過ぎているのではないか」と、心配していたが、私は幸せだった。
そんな幸せは、彼の何気ない一言で、呆気なく終わりを告げた。
「お前とお前の友達、付き合うのは正直どっちでも良かったんだよな」
どうして、彼がそんなことを言ったのかわからなかった。もしかしたら、完全に手に入った私に飽きたのかもしれないし、何か私に不満があって友人を引き合いに出したのかもしれない。
どちらにせよ、私の心に大きな穴をあけたのだった。
その日から、彼の束縛は隙間を埋めることのない、ただの足かせとなった。
そして、愛されているという実感がなくなってしまった所為で、もう彼の言動は、何一つ私を救ってくれることはなかった。
元から何かが足りなかった時、これ以上の苦しみはないと思っていたけど、あったものがなくなった時の方が、より私を苦しめた。
彼とは大学卒業とともに別れることにした。そして、勝手にその原因にされてしまった友人とも もう仲良くすることはできなかった。数少ない友人を失い、恋人という依存先も失くした私は次の依存先を探すことになった。
恋愛が、心の不足を過剰なほど埋めてくれるが、ふとした拍子に足りなくなり、悪化させてしまう劇薬であることを痛感した。ならば、心の不足を別のもので埋めなければ、と焦った私が選んだのはお金だった。
お金があれば、殆どのものが買えるし、たくさん買えば、何か私の心を埋めてくれるものが見つかるかもしれない。
そう意気込んで就職した会社は半年で辞めた。
大丈夫、この会社の社風が合わなかっただけで、一生働けないわけではないのだから。そう言い聞かせ、就職した二社目の会社も一年もたなかった。
大丈夫、職種が合わなかっただけで、この世にはたくさんの仕事があるのだから。そう言い聞かせ、派遣会社に登録し、色々な会社で様々な職種を経験したが どこも長続きはしなかった。
認めざるを得ないが、自分はお金を依存先にできるほど、稼ぐことはできない人間だったのだ。当然といえば当然だ、不足だらけだと自負していたはずなのに、どうして人より多く稼げると思っていたのか、今思うと不思議でたまらない。むしろ「何もできない人間」が人並みに稼げていることを誇ればよかったのだ。
それができれば、そもそも「足りない」なんてことで悩むことはなかったかもしれないが。
仕事にやりがいも感じられず、職場にもなじめず、それでもそこそこのお金をもらうため、身を粉にして働く。もちろんお金は心の不足を埋めてくれるほど貯まらないし、そもそもお金を使う余裕がなかった。
専門的でも、難しいわけでもない、一般的な業務を八時間行うことは、私を心身ともにヘトヘトにさせて、買い物をしたいという気持ちの余裕を生み出さない。休みは寝て起きて 服も着替えぬまま終わり、また次の休みまでにヘトヘトになる。
その結果、再び病んだ。
私は、都合が悪くなると病む、都合のいい身体なのだと自虐した。そんな私を励ましてくれたのは、派遣会社の担当の男性だった。
彼は言った。
「ダメになってからでは遅いから、しっかり休んで、頑張れるようになってから頑張ればいいんですよ、もうこんなに頑張っているんですから」
彼はこんな私のことを見捨てなかった。それが彼の仕事であることは理解していたが、嬉しかった。
その感情が恋愛感情にすり替わることは容易であり、奇跡的にそれは成就してしまった。
彼は、自分に厳しい人で、限りなく自分に甘い私とは違う価値観を持つ人だった。彼の言葉は私には考えつかないもので、反対に私の考えは彼に思いつかないことも多く、私たちはお互いを補える関係なのだと彼はよく言っていた。そして、そんな私となら結婚も考えたいのだと。
そんな風に言ってもらえることが嬉しくて、私は再度派遣ではなく、正社員として働くことにした。彼との未来を想像し、やる気に満ちていたこともあり、初めて五年以上勤めることができた。
しかし、毎日働くことに一生懸命だった私は、どんどん彼との時間を取る余裕がなくなっていて、彼もまた、自分の仕事が忙しいので私との時間を持てないと言った。
私は彼と自分が同じ状況なのだと信じて疑わなかった。
そんなある日、久しぶりに彼から連絡があった。クリスマスが近い日程だったので、「話があるので電話する」と言われたのも、当日会えなさそうだという相談だとのんきに思っていた。
そして、かかってきた電話で
「好きな人ができたので別れてほしい」
と言われた。
寝耳に水だった。彼は本当に忙しかったが、忙しい中でも新しい出会いが見つかったのだ。だって、私とも仕事で出会ったんだから。
私は空っぽになった。不足どころの騒ぎではない。何もなくなった心地がした。しかも、満たされて心のキャパシティは以前より大きくなってしまったのに。
だから、恋愛はいけないとあれほど言い聞かせていたのに、結局同じ、いや前より酷い結果になった。
散々自分を詰り、失望したが、病まなかった。皮肉にも、彼が私に病まない方法をたくさん教えてくれたからだ。
また、今まで一生懸命働いてきたおかげもあり、仕事は続けることができた。続ければ続けるほど、手離すのが惜しくなるもの。五年以上勤めているということは大きく私を支えてくれた。そして、その姿を評価してもらえることが嬉しかった。
仕事も順調で、時間の余裕も、お金の余裕も、うまくバランスが取れるようになってきた。おかげで好きなものを好きなだけ買えるし、新しく自分が好きなものを発見することもできた。自分で自分の機嫌を取るのが上手になってきたと思う。
その余裕は、新しい趣味を通じて友人を作らせてくれたし、もう絶対しないと決意していた恋愛への意欲も取り戻し、今はお互いを思い合える恋人と結婚を前提にお付き合いしている。
あんなに何もないと思っていた自分は、今、たくさんのものを手にしている。気の合う友人、余裕のあるお金、誇りを持っている仕事、そして愛し愛される恋人。これ以上、他に何を望むというのか。
満ち足りた心地で一人、私は無意識に呟いた。
「足りない……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます