氷食症


 ガリッという、砕く音が、聞こえた。

 その鈍くて派手な音に、思わず肩をびくつかせて振り返れば、彼女が既に飲み干したアイスコーヒーのグラスを傾けて、残った氷を口に含んでいるところだった。そういえば、前もジュースを飲み干した後に、彼女はこんな風に氷を食べていたっけ。

 

 再び彼女の口内での砕氷によって、鈍い音がガリゴリと響く。氷を食べる。それは無邪気な子どものような癖だが、残酷な響きをともなった。


「味もしないのによく食べられるね」

「美味しいと思って食べてるわけじゃないのよ、つい無意識に口寂しくって食べちゃうの」

 

 お行儀悪かったわね、ごめんなさい。


 そう、少し恥ずかしそうに彼女は言った。僕はそんな彼女が可愛くて、思わずその薄い唇に口付けた。さっきまで氷を食んでいた彼女の唇は、ひんやりと冷たくて気持ちが良い。


「いいよ、君の部屋なんだし、ここには君と僕、二人しかいないんだ。気にすることなんかないさ。でも、氷を無意識に食べたくなるのは、もしかしたら、氷食症なのかもしれないね」

「なあに、それ」

 

 不思議そうに尋ねた彼女の、いつもながら低体温な身体を抱き締めながら、


「無性に氷を食べたくなるんだって。原因は不明らしいんだけど」


などと、つい最近聞きかじった情報を披露する。

 氷食症、それは異食症の一つで、とにかく氷が食べたくなる症状のことだそうだ。氷を食べずにいられないという病気だから、けして彼女が氷食症でないことはわかっていた。けれど、敢えてこの名称を出した。

 もちろん、僕自身がそういった症状に見舞われたこともないのだが、何故そんなことを知っているかというと、僕が氷雪マニアだからだ。

 

 僕は一度、学校行事で行ったスキー場で遭難してしまったことがある。それ以来、雪だとか氷だとかに惹かれるようになった。


 あの日、眩しいくらいに白い雪や鋭い氷柱に囲まれ、独りぼっちで寒さに耐えながら、助けを待っていた時、激しい恐怖と共に感じたのは、雪や氷への美しいという感情だった。この美しさに囲まれて死ぬなら、本望だと。そんなことを思っていた矢先、無事救助隊に発見された。

 助かったとはいえ、強烈に死を意識した所為なのだろうか、そのまま、雪や氷の魅力に憑かれたのだった。今までこの話を聞いて、納得してくれたのは彼女だけだったのだけれど。

 

 そして氷食症も、つい最近仕入れた氷に関する新しい知識で、僕は彼女に披露したくて仕方なかったのだ。


「無性に食べたくなるっていうのは少し違うかもしれないけど、私、氷を食べるのが好きなの」

「ふふ、まるで雪女みたいだね」


 雪女が氷を食べるのが好きなのかなんて、知らないけどさ。冗談めかしてそんなことを言えば、彼女は急におし黙ってしまった。


「どうしたの?」

「私、雪女なの」

 

 唐突な彼女の発言に、面食らったが、すぐに無理して冗談を言ったのだと思った。なんとか僕の雪の話に合わせようとしてくれたのかと。


「ふふふ、そうなの? なら、僕のこと凍らせて殺しちゃうの?」

「ううん、そんなことしないわ」


 だって、私、あなたのこと愛しているんだもの。


 そんなまっすぐな愛の言葉に、ますます彼女への愛おしさは募るばかりで、照れ隠しに 


「おとぎ話の雪女も、惚れた若い男は殺さなかったし、結婚して子どもまで作ったんだもんね」

 

なんて、彼女に言った。

 

 すると、彼女も照れてしまったのか黙ったまま俯いて、僕はてっきり、そういう雰囲気になったのだと思ったわけだ。


「……あなたは本当に好きになった人とずっと一緒にいるためには、どうしたら良いと思う?」

 

 彼女にもう一度口付けようと顔を寄せた時に、ぽつりと呟かれた言葉で思わず固まった。急に何の話なのだろう。

 これは、すなわちそういうお誘いなのか? それとも、すぐにそういう風に考えるなという牽制なのか?


 前者であれば、このまま予定通り彼女にキスして


「今から教えてあげるよ」


と、気障な台詞を吐けばいい。しかし、後者であれば、そんなことをした瞬間に、彼女に嫌われる可能性がある。それは避けたい。


 結局、ひより見な僕は


「君はどうしたら良いと思うの?」


なんて、質問に質問で返してしまった。

 

 今度は聞かれる立場になった彼女は、ゆっくりと顔を上げ、こう言った。


「食べるのよ」

 

と。

 

 あまりに彼女が真剣な目で、口調でそう言ったから、一瞬、僕は呼吸の仕方を忘れた。クーラーを効かせた部屋なのに汗が首筋を伝って、冷気の所為じゃない寒気に襲われる。


「あ、はは、それはまた、猟奇的だね」

「猟奇的というより、合理的だと思わない? だって、そうすれば、ずっと一緒にいられるのよ」


 彼女は、さっき「氷を食べるのが好き」だと言った時と同じくらい軽やかに、僕を圧倒する言葉を紡ぐ。

 

 なんだか怖くなった僕は、彼女の部屋から逃げ出そうと、抱き締めていた彼女から手を離し、立ち上がろうとした。


「逃がさない」

 

 そんな、獲物を狩る捕食者のような台詞と同時に、彼女が僕の足元に、ふぅ、と息を吹き掛けた。すると、僕の足はその場に縫い付けられたように動かなくなって、信じられないことに床ごと凍らされていたのだった。


「待って、え、いや、意味がわかんない、君が雪女? いやいや、あり得ない、そんなわけないよ。いや、仮に、そう、仮に君が雪女だとして、なんでこんな手のこんだ殺し方をする必要があるんだ。いや、そもそも、僕のこと愛してるって、凍らせて殺すなんてしないって、雪女は、惚れた男は殺さないって言ったじゃないか。さっき、言ってたじゃないか!」


 恐怖と寒さでもつれる舌を動かして、彼女への説得を試みようとするが、混乱した頭は断片的な言葉しか吐き出せない。

 

 そんな僕に、今度は彼女から抱き着いてきて、耳許に冷たい唇を寄せられる。今はその、低体温な身体が密着するだけで、身震いするほどに冷たく感じた。

      

「あなたが言っていた通り、好きな人は、結局殺せなかったのがおとぎ話の雪女。でも、私思うの。本当に好きになったなら、いっそ、その人と一つになりたいって、今の私みたいに思うのが普通の妖なんだって。

 彼女は妖でも、女でもなくなって、母になってしまったから、あんな風に決断したのかもしれないわね。

 

 でも、私は違う。あなたと一つになりたい。だって、あなたを愛しているんだもの。その為には、あなたを食べてしまうしかないのよ。私は、ずっとずっと、あなたと一緒にいたいの。

 

 それに、あなた、いつも言ってたじゃない。僕は氷や雪が好きなんだって。

 だから、決めてたの。あなたと、私が、好きなことを最期にしようって。私も、さっき言ったでしょう?」


 氷を食べるのが、好きなんだって。

  

 まだ、彼女に凍らされたのは足元だけなのに、段々と全身がかじかんできて思うように動けなくなり、ガチガチと歯の根が合わなくなる。まるでスキー場で遭難してしまったあの日みたいに、血の気がひいてきた。

 それは、ひとえに恐怖からだった。あの日とは違って、美しさなど感じる間もなく、恐怖に身体が支配されていた。

 

 不意に、彼女が僕の指先を口に含んだ。すると、指先はみるみる氷に包まれ、骨ごと凍ってしまったように冷たくなった。

 

「お願い、やめて……」


 譫言うわごとのように制止を懇願しても、もう遅い。

 微笑みを携えた彼女の唇が、奥歯が、ゆっくりと力を込めていく。もうすぐ、あのアイスコーヒーの氷を食べていた時みたいに、鈍くて残酷な音が響いてしまうに違いなかった。

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