怪奇! 戸影男の恐怖


 大学生になって、一人暮らしを初めた私が、今一番怖がっているものの話を聞いてほしい。うちのアパートは、築年数は古いけど一部屋ごとにちゃんとベランダがあって、ベランダに出るためのガラス戸はすりガラスになっている。ガラス戸はすりガラスだからなのか、他に理由があるのかわからないがカーテンレールがなく、カーテンを取り付けることができなかった。


 ぼんやりとしか外の景色がわからないすりガラスは、例えばベランダに干した洗濯物とか、雨の日に使って乾かしている傘とかレインコートの影がうすぼんやりとしか見えなくて、角度によっては人影に見えるのだ。

 

「また、いる」

 

 そんな、偶然の産物が、たまたま毎回同じ形に見えることだって、きっとあるはずだ。そう、自分を騙し騙し暮らしているのだが、洗濯物が多い日も、少ない日も、風が強い日も弱い日も、必ず同じ人影が必ず見えることに、気が付いてしまったのだった。

 

 その人影は170cmくらいの身長で、いつも両手両足を曲げて広げている蜥蜴とかげみたいなポーズですりガラスにくっついている。朝、昼には見えないのに、夜、すりガラスにうつるのが真っ黒な影だけになった時、そいつは現れるのだ。

 

 初めは、なんだか人影みたいで薄気味悪いな、と思うくらいで、特に気にしていなかったけど、それが毎晩、毎晩、ガラス戸に現れるのだ。


 怖くなって、同じ漫研の友達に相談してみたけれど、

 

「怪奇! トカゲ男! とかで一本漫画描けそうじゃん」

「トカゲって、あの蜥蜴のこと?」

「それもかかってるけど、戸に影がうつるんでしょ? だから戸影とかげ男、どーよ」

 

なんて、ふざけて茶化すだけで何の解決にもなりやしなかった。

 確かに自分は漫画研究会、通称漫研に所属しているので漫画を描く。だけど、部屋のガラス戸に人影みたいなのがうつるだけの漫画を、面白くできる気はしない。

 

「そこは、あんたの腕次第でしょう。戸影男に怖ーい設定を付け足してやって、描けばいいじゃない」

 

 それが奴の供養にもなるよ。

 まるで、幽霊か何かと決めつけた、友人の適当な提案に呆れながら、確かに漫画の題材にしてしまって自分の中で完全なフィクションに昇華してしまえば怖くなくなるかもしれない。そんな風に思うくらいに、私はあの、戸影男のことを意識してしまっていたのだった。

 

 その日から、私は漫画にするために戸影男のことを考えた。


 あいつは太陽の光が弱点で、日中は隠れている。夜になると現れて、部屋の中に入ろうと虎視眈々と狙っていて、風の所為で窓が揺れていると思っているが、それは戸影男が部屋に入ろうとして、戸を揺らしている。そして、部屋の中に入れてしまったが最後、家主はぱくりと食べられてしまうのだ。

 

 ざっくりと、そんなプロットを考えて、ますます戸影男が気になって気になって仕方がなくなった。夜、じっと戸影男を睨みつけて、気が付いたら寝落ちしてしまい、朝起きたら影はまったくなくなっている。なんだか寝た気もしなくて、寝不足の日々が続いていた。


 そんな生活を続けていたある夜。今日も今日とて、戸影男を睨みつけていた時、ふと気が付いてしまった。今日は、洗濯物も、傘も、ベランダに何も干していない。

 影を作るものが、何一つないじゃないか!


「ひっ」


 がたがたと音をたてながら、ガラス戸が揺れる。


――夜になると現れて、部屋の中に入ろうと虎視眈々と狙っていて、風の所為で窓が揺れていると思っているが、それは戸影男が部屋に入ろうとして、戸を揺らしている。


「い、いや……」


――そして、部屋の中に入れてしまったが最後、家主はぱくりと食べられてしまうのだ。


「いや!!」


 がたがた身体を震わせながら、頭から布団をかぶった。あれは妄想。自分が考え出したフィクションの設定、それに怯える必要なんてこれっぽっちもないのに。


 結局、その日は一睡もできず、朝になって影がなくなっているのを横目で確認しただけで、ガラス戸を開けてベランダを確認することはできなかった。


「おねがい! もうダメ、あんな家住めない! 引っ越すまでの間でいいから!」


 大学であの馬鹿みたいな提案をしてきた友人に、頭を下げて泊めてくれるようお願いした。彼女は心底呆れた顔をして


「ちょっと、とうとう自分の妄想と現実をごっちゃにしちゃったわけ?」


と、言った。妄想、確かにそうだ、妄想だ。けれど、もはやその妄想は、眠れなくなるくらいに私を追い詰める妄執だ。あの家に住む限り、私はあの妄執に憑りつかれて生きた心地がしないのだ。


「……わかった。そこまで言うなら、今晩、私があんたん家に泊まってあげる」


 彼女と二人、授業が終わってお菓子を買い込んで家に戻った。家に着いた時、恐る恐るベランダの方を見遣ったら、夕暮れでガラス戸の外がオレンジに見えて、影なんか一つもうつっていなかった。


 二人でご飯を食べて、お菓子を食べて、テレビを見ながらお喋りをして。なるべく戸影男のことを考えないよう、考えないようにして寝る準備をした。電気を消して、部屋を真っ暗にした後も、ガラス戸の方を見ないようにして、


「それじゃ、おやすみ」


と、布団に入った。何度かガラス戸の方を見てしまいそうになる度、


「大丈夫。大丈夫」


と唱えながら、隣でぐっすり眠っている友人の顔を見て、一人じゃないことに安堵した。そうすると、段々と眠気に負けて目蓋が重くなって、ようやく眠りについたのだった。


 夢を見ている。そう、分かる夢だった。

 夢の中の私は、懲りもせずガラス戸を見詰めていて、ガラス戸にはやはり戸影男がうつっている。がたがたと音が鳴っているガラス戸を、あろうことか夢の中の私は、開けようとしているのだ。


「やめて!」


 そう、叫んでも夢の中の私は、鍵を開けて、ゆっくりと戸を開いてしまった。そうすると、真っ黒な人影が部屋の中に入ってきて、徐々に私の頭から首、おなか、足へと、まるで飲みこむように黒に覆われていき、夢の中の私も、真っ黒な影だけになってしまったのだった。夢の中の私を飲みこんだ影は、今度はゆっくりと夢を見ていると自覚している私の方へ近づいてきた。

 いやだ、やめて。そう叫びながら、逃げようとするのに、身体は動かない。

 こんな悪夢、早く覚めて!


 そう、強く願った瞬間。友人が自分を呼んでいる声が聞こえて、はっと目が覚めた。まだ、部屋は真っ暗で朝になっていなかったようで、私は全身汗びっしょりで涙まで流していた。


「ちょっと、あんた、大丈夫!? すっごい叫んでたから起きちゃったじゃない。何、悪い夢でも見たの?」

「わ、私、戸影男に食べられて、私も影だけになって……」


 パニクっている私を落ち着かせようと、友人は


「夢でしょ、それは夢。ほら、もう一回寝よ」


と、寝かしつけようとしたけれど、私の不安は爆発してしまっていて、ガラス戸を指さしながら


「だって! いるでしょ!? 今日も、あいつはいるんでしょう!?」


なんて、錯乱しながら叫んだ。友人は、恐る恐るガラス戸の方を見たようで、その後


「嘘……」


と呟いたから、やっぱり今日もいるんだと、さらに激しく泣き喚いた。


「あんた、なんか外に置いてるんじゃないの!?」

「置いてない! 洗濯物も干してない!」


 二人で言い争っていると、いつもより大きい音でがたがたとガラス戸が揺れた。


「風よ、風の音よ」


 もはや、私に言い聞かせているのか、自分自身に言い聞かせているのかわからない友人の呟きを聞きながら、私はぶるぶると震えて彼女にしがみついていた。


「……わかった、外、確かめてきてあげる」


 静かに彼女は立ち上がり、私はそんな彼女を慌てて引き留めようとした。


「やめて! 危ないよ! あいつが入ってきたら食べられて」

「それはあんたの考えた設定でしょ! 何にもないって、私が証明してやるわよ」


 友人は、夢の中の私と同じように、鍵を開けてゆっくりとガラス戸を開いた。私は思わず目をつぶって、布団に突っ伏した。


「ほら、なんにもいないじゃない」


 友人の冷静さを取り戻した声に、恐々、ベランダを見れば、真っ黒になんかなっていない彼女が立っている、何もないベランダが目に入った。


「多分、あそこの電柱とかが夜になると影だけうつって、人影っぽく見えてただけよ」


 彼女に手招きされるまま、ベランダに出て指をさす方を見れば、確かに電柱があって、そうだったのかもしれないと思えてくる。


「ごめん、あんたがこんなに怖がるなら、漫画にしろなんて言わなかったら良かったね」


 本当にごめん。

 友人に謝られて、急に恥ずかしくなった。いい歳して、一体何を怖がっていたのか。


「私こそ、ごめん。明日も学校だし、もう寝よう」


 今度は悪夢を見ることなく、ゆっくり眠ることができた。


 翌朝、友人と大学に行き、授業を受けて、漫研の先輩に今度の部誌に載せる漫画を提出して帰った。漫画のタイトルは「怪奇! 戸影男の恐怖」にした。


 寄り道や買い物をして帰ると、もうすっかり夜だった。


「ふふん、もう怖くなんてないんだからね」


 そう言って、ガラス戸の方を見ると、今日は戸影男はうつっていないようだった。


「よかった、これで引っ越さずに済みそうだわ」


 ご機嫌に独り言をつぶやいて、晩御飯を食べ、お風呂に入って、さあ寝ようと布団に入った後、つい、今までの癖で、もう一度ガラス戸の方を見遣った。戸影男はやっぱりうつっていない。


 その瞬間、強烈な違和感を覚えた。

 戸影男の正体は、電柱の影のはずだった。だから毎晩、同じ影がうつっていたのだ。それが急に、消えるなんておかしいのではないか。ましてや、電柱が昨日確認してから消えてしまったわけはあるまい。


「どうして、戸影男がうつってないの?」

「それは、もう部屋に入ってしまったからだよ」


 え、と声をあげる暇さえなかった。

 一瞬で金縛りのように身動きがとれなくなって、全身に鳥肌がたつような声が続けて言った。


「いただきます」


と。

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