デッドラインはすぐそこに


 近頃、彼から愛されていないと、酷く虚しくなることが増えてきた。

 例えば、それは些細なことから。

 連絡が挨拶だけの簡素なものになったとか、そんな簡素な連絡もなくなってきたとか。会う頻度も少なくなって、せっかく会っているのにお互い別のことをしているとか。

 愛は疲弊すると減っていくものだ。けれど、最近、それがあまりに顕著なのだ。私たちの愛は、お互いに対する愛情は、少しずつ、少しずつ死んでいっている。

 

 それでも、やることはやって、上手くいかない理由を、あなたは疲れているからと言って、私は飲んでる薬の所為にした。

 本当の理由は違うだなんてこと、お互いによくわかってる。だって、付き合う前からあなたは日々疲れていたし、私が薬を飲み出したのは付き合ってすぐの時からだったんだから。疲れていても元気なものは元気だし、薬を飲んでも潤う部分は潤うのだ。

 つまり、上手くいかないのは別の理由なわけで、それは今の私たちにはすぐ越えられるところまでやって来ていた。

 

 デッドライン。ここを越えれば、何の比喩表現でもなく、私たちの関係は終わり、互いの愛情は完全に死滅する。他人で、血の繋がりもない私たちが、一緒にいる理由がなくなる。ただの他人に戻る境界線だ。

 

 私は何度もそのライン上まで行って、ラインを踏んだまま、あなたを見た。あなたの姿を見ると、ラインを越えることはできなかった。きっと、まだあなたのことが好きだったから。

 

 あなたは、そのラインをじっと見詰めるようになった。でも、ラインの近くまで来ても、そこから足を動かさないのを見て、私は確かに安心したのだ。そのラインを踏み越えない限り、きっと、まだあなたは私を好きだから。

 

「ねえ、千尋ちゃん結婚するんだって。招待状が届いたの」

「千尋ちゃん?」

 

 覚えてない? 何度も私の話に登場する、唯一の友人の名前。毎回、あなたは聞き返す。聞き返される度、私は、あなたが私の話なんか聞いてないことを思い知る。

 

「友達、地元の。だから今週末、地元帰るから」

「おお」

 

 覚えてない? 今週末は久しぶりに休みが合うから出かけようって話してたの。私、約束を反古にしようとしてるのよ。なんで、怒らないの、残念がってくれないの。

 

「ごめんね、今週末どっか行こうって言ってたのに」

「え? ああ、うん。俺もゆっくりできるし、大丈夫」

 

 私と一緒だったら、ゆっくりできないの。

 駄目だ、こんなの。私は彼の一挙一動が気に入らなくて、彼は私の一挙一動を気にも留めなくて。一緒にいる意味が、付き合っている意味が、ないじゃないか。

 

「もういい、帰る」

「……なに、今日はどうしたの」

「なんでもない、じゃあね」

 

 盛大に溜め息を吐いてから、彼は靴を履こうとする私の肩を掴んだ。

 

「何を怒ってるの」

「怒ってない」

「怒ってるじゃん、そういう言い方する時。なに、なんで怒ってるの」

「怒ってないってば!」

 

 怒ってる、でも、絶対に認めない。怒ってるなんて言ったら、理由を言わないといけなくなる。それが、嫌なのだ。

 面倒臭そうに鼻を鳴らして、ああもう、と短く彼は呟いた。

 

「なあ、理由を教えてくれよ。言わなきゃわからないだろう。ほら、いい子だからさ」 

 

 こういう時、途端に大人ぶった物言いで、年上だということを主張されるのも嫌だった。たかが十年、されど十年、長く生きている方が偉いって言われてるみたいで、腹が立つ。

 

「……言って」

「え?」

「言ってわからなかったら、どうするの?」

 

 ぽかんと呆けた顔になった彼を睨み付けて続ける。

 

「前に、私が落ち込んでた時に、理由を説明したら、意味がわからないって言った」

「……今はそんな話してないだろう、別の話を」

「言わなくてわからないのと、言ってわからないのとじゃ、全然違うよ。言ってわからない方が、否定されたみたいで傷付くんだよ」

 

 彼の言葉を遮って叫べば、慌てたように「ちょっと落ち着けって」と返された。

 

 私は、今、またラインの上に立ってしまった。もうあと、ほんの少しの力で背中を押されれば、ラインを越えてしまうギリギリのところに立ってしまったのだ。

 

 例えば、あなたの次の言葉が、私の予想を裏切るものだったら。

 例えば、あなたが今、私の肩を掴んでいる手を離さずに、抱き締めてくれたら。

 私は、ラインを越えずに済んだのに。

 

 彼は私の肩を掴んでいた手を離して、自分の頭を掻き、

 

「めんどくせーな」


と、私の予想通りの言葉を吐いたのだった。

 

 その言葉を聞いた瞬間、私は思い切り、ラインの上から突き飛ばされてしまった。他でもない、彼によって。

 もう、無理だ。彼との関係は、これにて終演、幕切れだ。だって、デッドラインを越えてしまったんだもの。

 彼の方を向き直って、一つお辞儀をした。

 

「さよなら」


 私は、玄関の扉を開いた。もう、彼は引き留めることはなかった。

 向き直った時に堪えた涙は、扉が閉まった瞬間に溢れてしまって、扉が閉まったガチャンという音は、デッドラインを越えた私を、あなたがもう一度、引き戻してくれないかなんて、甘っちょろい期待を打ち砕いた。

 

「さよなら」

 

 確認していないけど、きっと、あなたももう、ラインの外に立っているのでしょうね。

 デッドラインを越えた私たちの愛は、遂に死んでしまったのだった。

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