鳴かぬ蛍がその身を焦がす

 泣きたくなるくらい、人を好きになるということを、蛍はまだ知らなかった。中学校を卒業して数ヶ月、高校生という大人に近付く時期に「泣きたくなるくらいに好き」という表現をドラマだったか、漫画だったかで知って、思わずクエスチョンマークを浮かべた。実体験がないものは、想像するにも限界がある。


 周りの子にはほとんど彼氏がいたにもかかわらず、彼女には未だ恋人ができたことがなかった。どちかというと奥手で、感情を内に秘めるタイプだったから、男の子と話すことも少なかったのだ。

 もちろん、そういうことに興味がなかったわけじゃない。恋人同士という関係に憧れていたし、好みの男の子とそんな風になれたら、と思いを馳せたりもした。


 けれど、恋しい気持ちはわかっても泣きたくなるというのはよくわからなかった。恋愛というのは、人を好きになるというのは、綿菓子みたいにふわふわで、甘いことだと思っていた彼女は、好きになることと、泣くということがどうしても結びつかなかったのだ。


 そもそも、どうして好きなのに泣いてしまうのかしら。好きなのに、悲しくなるのか、はたまた悔しくなるのか。どちらにせよ、自身は思い通りにならないことで拗ねるほど幼くはないし、男の人のために涙を零すほど成熟しているわけでもない。

 しかし、いつかは自分にもそんな風に恋い焦がれる相手が現れることを、密かに夢見ていたのだ。


 その秘めやかな思惑は、すぐ叶うことになったのだが。





 彼、草野とは同じ中学校だったけれど、ほとんど話をしたことはなかった。高校で同じクラスになっても名簿が前後で、それ以上でも以下でもない。たまに名簿順に並ぶような、例えばテストの時などに、蛍が彼にテストを回したり、彼が消しゴムを忘れたから蛍が貸してあげたり、なんて本当にただのクラスメイトでしかなかった。

 そんな関係を壊したのは、夏休みが終わって少し日に焼けた彼だった。


「付き合ってほしい」


 頷く理由も、首を横に振る理由もなかった蛍は曖昧に微笑んだ。ただなんとなく、彼ならば良いかな、と思ったのだ。


 そうしてそれを肯定ととった草野と蛍は、男女交際を始めたのだ。デートをしたり、手を繋いだり、初めてキスをした時は、頬が燃えるように熱くなって、ドキドキと心臓が暴れていた。そうやって、時間をかけてお互いを自分のものにしていったのだ。その過程で得るものは全て甘く、眩暈さえ覚えるほどだ。

 喜び、憂い、楽しみ、そして、悲しみ。





 ぬるま湯に浸ったような幸せに、蛍はたびたび叫び出しそうになった。好きだと言われるたびに頬が緩み、好きだと返すと嬉しそうにはにかむ彼。

 まるで好きだと言うごとに、ますます彼を好きになっていくような錯覚まで覚えるほどだった。

 けれど同時に痛い思いをすることも増えていた。


「なぁ、今の奴、なに?」


 彼は案外、嫉妬深くて、クラスの男の子と話しているだけで蛍を怒鳴りつけた。ひどい時は殴る蹴るのような暴力もふるった。そして傷だらけになった彼女に抱きついて泣きながら言うのだ。


「わがまま言ってごめん。でも好きなんだ」


 どうして殴った彼が泣くのかしら。いつも蛍は不思議な思いでくすくす笑いながら、彼を優しく宥めた。


「大丈夫、私も好きよ」


 私をそんなに好きでいてくれる貴方を。





 本音は違ったかもしれない。自分の思い通りにいかなくて暴力を振るう彼は、わがままを捏ねる駄々っ子と同じだ。そんなことを一切考えなかったと言えば、嘘になる。


 彼の一番のわがままは、自分の振る舞いをわがままと認め謝罪することで、許してもらおうとすることだった。


「わがまま言ってごめん」


 彼がその台詞を口癖のように吐くようになるにつれて、蛍の身体の傷は数を増していった。同様に彼の心も傷ついていたことに、蛍は気付いていた。そして、おかしさと愛おしさを抱えながらひっそり思うのだ。


「私たち、お互い傷ついて、痛みのおあいこみたいね」


 この考えは彼女をますます正常から遠ざけていった。そして痛みを緩和させられる唯一の薬でもあった。


「これで、おあいこでしょ? ね、おあいこ」


 




 互いに傷つけあうことに、蛍は快感を覚え、草野は悩み苦しんだ。彼の、その悩み苦しむ姿こそ、蛍の愛おしさを掻き立てる一番の材料で、頭の先からつま先、毛髪や見えない神経一つ一つまで、草野のことが愛おしくて堪らなくなる。


 彼女はよりいっそう、彼の歪んだ愛情表現を求めるようになった。彼を怒らせる為に、わざと他の男の子と話したり、彼以外のことを優先したり。わざとらしい挑発にも、面白いほどに彼は反応してくれる。


 その日も蛍は、自分の隣の席の男の子に話しかけられ、草野に微笑むような甘い笑顔で応対した。楽しげに話し続ける男子生徒を相手にしながら、ちらりと草野を一瞥した。いつものようにきっと、彼の眼には嫉妬の炎が灯っているのだろうと。


 しかし、彼女の思惑は外れていた。彼の眼は、何の光をも映さず、どんよりと黒く濁っていた。

 その苦しみはとうとう、彼の理性を凌駕してしまい、そして、彼は言ったのだ。


「わがまま言って、ごめん」


 それでも、好きなんだ、君が。





 涙腺が馬鹿になったように、涙がこぼれ落ちる。苦しさに泣き喘ぐのでなく、静かに零れるのだ。それは「ごめん、ごめん」と繰り返す彼からも、こんな時にもほほ笑む蛍からも、同じように透き通って流れていって。


「好き、好きなんだ、どうしようもないくらい、堪らないんだ」


 泣かないで。

 そう言ってあげたいのに、声が出ない。首に食い込む彼の指は、蛍の声を全て奪うのだ。指先から痺れ、彼の部屋のフローリングの冷たささえ感じなくなって、この時初めて、何も伝えられない辛さというものを知ったのだ。


 泣きたいくらいに人を好きになるということを、蛍は少し前まで知らなかった。それが今はどうだろう。こんなにも涙は彼を想う為に流れ続けている。それはこの上なく彼女の中の「好きだ」という気持ちを掻き立てた。

 これが、泣きたくなるくらいに人を好きになるということか。自分は、泣きたくなるくらいに彼のことを愛しているのだ。

 けれど、もう届かない。


「好きよ、貴方が、大好きよ! 」


 胸の内で叫んだって届かないその言葉は、今まで言ったどの言葉よりも痛切に彼自身を想ったものだった。

 そうして、光をなくすその直前まで、鳴かぬ蛍は、その身を焦がす。

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