第3話 マツムシソウ、或いは……

「綺麗なお花ですね」


 そう、金糸のようなブロンドの青年に声をかけられ、我に返った。一体自分はいつから此処でこうしていたのだろう。陽を避ける為に広げていた日傘は、もうその役割を果たし終えていた。

 あたりは夕焼けで、燃えるようなオレンジ色。


「……あなた、この花お好きなの?」

「いいえ」


 このように赤い花も青い花も初めて見ました。


 きっぱりとそう言ってからもう一度、綺麗と青年は呟いた。


「よろしかったら、多少摘んでいかれても結構ですのよ」

「こちらの花々は貴女のものなのですか、マダム! とても美しい花をお育てなのですね!」


 感嘆の声を漏らす彼に、なんだか背徳さを感じて、そんなことありませんのよ、と否定の言葉を口にした。


「二種とも、見てくれは美しいのかもしれませんけれど、あまり良い花ではないのです。とくにね、こちらの青い花。マツムシソウは酷い、非道い花ですの」


 あの人に恨み事を言う為に、悲しむ自分が植えさせた花。


 私を一切顧みることなく先を歩いていた。結局最後まで私を置いていった。


 そんな貴方にきっと、届きやしないと思いながら、憎み、愛して、それでも忘れないように。


「奥様、いらしてたんですか」


 はっと現実に引き戻され、きょとんとした表情で佇む青年の隣に、馴染みの花屋が立っていることに気がついた。


「いつ、いらしたの、なにか御用かしら」

「いや、ね。奥様。姉の育てていたリンドウが咲き始めまして。そろそろ満開……という表現も些かおかしいですが、同じ開花時期である奥様のマツムシソウも咲いてる頃かな、と思いまして」


 様子を伺いに只今参上仕りました次第でございます。なんて、恭しく頭を垂れて、胡散臭い花屋は大仰な台詞を宣う。


 主人の生前からの知り合いだったらしいこの男は、主人が亡くなった翌日、旦那様の所有地で花畑なるものをつくるよう仰せつかった花屋でございます、と名乗り出てきた。


「旦那様には、よく拙店をご利用戴きました。春夏秋冬、あの方は花を愛でておられた」


 あの人が花など愛でるのに驚くよりも、そんなことなど微塵も知らない自分が哀しかった。


 あの人について私は、一体何を知っているのだろう。


 好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな花、嫌いな人。

 どれも知らない、わからない。それがあの人も同じだというのが尚更悲しい。


「主人は、谷原は何という花を頼んだのですか」

「はい。旦那様は、ヒガンバナをご所望されておりました」


 なんでも、奥様への置き土産にされるのだと、あの時はご快活に笑っておられたのに。思い出して気落ちする花屋を余所に、私は舞い上がっていた。


 あの人から私へ贈られる物。あの人が私のことを考えて残した物。


 しかし、形見の花の知識を求めた私に待っていたのは、ひどく残酷な事実だった。


「悲しい、思い出……?」


 あの人が残した赤い花は、私とあの人との生活を尤も的確で、最も辛い言葉で表していたのだ。


 辛くて悲しくて悔しい私に、あの人によく似た息子は、その土地にビルを建てたいので自分に寄越せと言ってきた。


 もはや投げやりになっていた自分はすぐに了承しようとして、思い止まり、一つだけ条件を出した。


 譲っても良いが、この花が咲くまで待って欲しい、と。

そうして、私も花屋に頼んだのだ。


 あの人に、『わたしはすべて失った』のだと告げる為に。


「本当に戴いても良いのですか、マダム」

「ええ……でも、間違っても恋人に渡してはいけませんわよ」

「何故です?」


 間髪を容れずにそう問うたのは、ブロンドの青年ではなく、花屋の男であった。


「何故って、貴方……」

「旦那様から奥様へ想いを伝える為の花ですよ? 恋人にプレゼントするには最高じゃないですか」

「本当ですか! 是非、恋人にプレゼントしたいです」


 喜んでそう言う彼に、花屋は頷き言葉を続ける。


「この花、曼珠沙華、確か英名はなんたらアマリリスとか、リコリスだったかな? まぁ、それはいいとして。


 これの花言葉がね『想うは貴方ひとり』って言うのさ」

「っ、違うわ! これは、この花の花言葉は……」

「奥様」


 旦那様が貴女に残したメッセージは、その言葉ではないのですよ。


「花言葉は、一つの花にひとつではないのです」

「そ、んな」

「……旦那様は、貴女に構えないから、と季節ごとにたくさんの花をお買い上げになられておりました。部屋に飾らせれば、貴女の気も晴々するだろう、と」

「あ……」


 じゃあ、自分の部屋にいつも飾られていた花々は、全部、あの人が私のために選んだものだったというの。


「マ、マダム? どうしてお泣きになられているのですか」

「いえ、お気になさらないで……あなた、恋人にきっとプレゼントしてさしあげてね」


 みっともなく涙を流す年増を気遣う彼を、真っ赤な花を包装するよう花屋に命じて、帰路に立たせた。


「……私、恥ずかしいわ……一部のことを知っただけで、すべてを知った気でいて、独り落ち込んであの人を恨めしく思うだなんて……」

「奥様、先程も申し上げましたが、花言葉は一花に一つではございません」


 『悲しい思い出』『想うは貴方ひとり』どちらもヒガンバナの花言葉ですが、旦那様が残されたメッセージは、『想うは貴方ひとり』ともう一つあるのです。


「曼珠沙華にはもうひとつ、有名な花言葉があります。それこそ、旦那様が貴女に一番伝えたかったことなのです」

「それは、一体……」


 ふわりと笑んだ花屋の姿に、あの人が重なって。


『また会う日を楽しみに』


「旦那様は奥様と過ごした日々を、とてもとても大切にしていらっしゃったのですね」

「ああ!」


 ごめんなさい、あなた。私は本当に、何も、何も知らなかったのね。


「私、私も……っまた、また貴方に会う日を……」

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