第6話 辰馬の事情
ヒカルに襲われてから、静かに嗚咽を漏らしながら壁を見つめていたが、やがて涙も止まり鼻をぐずぐず鳴らしていた。
撫子さんからメッセージが入っていた。
『馬鹿弟から聞いた。本当にごめん。姉として謝るよ』
『良いよ、もう落ち着いたから』
『ちょっとそっちに行って良い?』
正直ヒカルの家族にも会いたくなかったが、つい『良いよ』と返事をしていた。
今更何を話すと言うのだろう。ヒカルには裏切られた。友情は壊れた。
そんな思いしか浮かんでこない。
(パンツ穿かなきゃ)
膝まで下ろされたパンツをのろのろと履き直す。服も着替えないと、とは思ったけど正直面倒くさい。それに撫子さんにどうしうことがあったか、知らせる意味でも着ておいた方が良い、との思惑もあった。
ドアにノック音が鳴る。
『どうぞ』とやや小さい声で答える。
入ってくるなり土下座をして
『ごめんなさい』
と撫子さんはそう言った。
『怖かった?怖かったよね』
その言葉を聞いて再び涙が流れた。しくしく、ではなく静かに流れた。
撫子さんは涙を流している僕を、優しく抱きしめてくれた。
昔、こんなことがあった気がする。撫子さんに抱きしめてもらったこと。いつの事なんだろう。
「昔こうしてもらったことがあった気がする」
「覚えてる?」
「そんな気がするだけ。撫子さんは僕の童貞奪ったし」
ちょっとだけ元気が出た様な気がした。撫子さんが背中を叩いてくれる。それが何だか気持ちいい。
「私は辰馬の童貞、貰ってないよ」
じゃあ誰が?誰だったか中学校の頃?それとも高校入ってから?
「覚えてない」
「覚えていないなら、無理に思い出さなくて良いよ」
その物言いに引っかかった。撫子さんが覚えていて僕が覚えていないこと。
「私は昔こうやって辰馬の背中叩いてあげたことあったんだぁ」
そう言われるとそんな気がする。いつの頃だろう、童貞を奪われなかったとすると小学校の低学年とかだろうか。
「そんな様な気がする」
「ずーと抱きしめていたんだよ、こうやって」
いつの間にか涙は止まっていた。少し鼻がぐずぐずするくらい。撫子さんの優しく抱きしめて貰うのは安心する。撫子さんに体を預けたくなる。
そうすると、撫子さんは
「重い重い」
と言って背中を強めに叩いてくる。流石に軽いとは言っても、男性の体重を預けられる女性というのは中々いないものだな、などと変な感想を持ってしまった。暫くそうしてから僕は体を離した。
「もう大丈夫。ありがとう」
うん。俺、もう大丈夫だと思う。ただ、ヒカルに会いたいとかは、まだ心が定まらない。
「ヒカルに会うとか、今考えなくて良いんだよ。辰馬がヒカルと会いたくなるまで、絶対会いに行ったらダメだから、てきつく言っておくから」
うん、撫子さん、よく分かってる。胸の内を覗かれている様でなかなか怖い。
「……俺さ、昔虐められてたじゃない?でもさ、何で虐められるのか、全然わからなかった。虐めてる方は意味があったのかもしれないけどさ、そんなの俺にわかるわけないじゃん?もう殆ど毎日虐められるものだから、公園に行くとか考えられなかった。そしたらさ、ある日ヒカルがバット持ってやってきていじめっ子、もう同級生だろうが上級生だろうがバットで蹴散らしてくれたんだよね。その時は、ヒカルがヒーローみたいに見えた。
それから、ヒカルが友達になろうって言ってくれて。友達になった。何時もヒカルが守ってくれた。だから俺、少しだけ学校が楽しくなったんだ。あんなことが有っても……」
「あんな事?」
「え?……あんな事……?何だっけ?」
撫子さんは再びぎゅっと抱きしめてくれた。
「思い出せないことは、無理に思い出さなくて良いんだよ」
と言った。
俺は何故だか心に引っかかるものを感じながら、撫子さんの言うとおり思い出すことを止めた。
「ありがとう、撫子さん」
「もう落ち着いた?」
「うん。もう大丈夫」
「ごめんね、ヒカルにはよく言って聞かせるから」
「うん」
そう答えながら、撫子さんが来てくれて良かったと思った。
そうでなかったらこのままヒカルへの気持ちを引きずっだままだったし、何より親友にも襲われたって事実に打ちのめされていただろう。
そういえば俺。
「俺虐められていたけど、イタズラもされていたよね、主に性的な」
「思い出しちゃったか。そうだね、ヒカルから聞いてた。それでヒカル、バット持ち出していじめっ子殴りに行ったんだよね」
そうだったか。俺イタズラもされていたんだ。まさに青天の霹靂。
こうして嫌なことを一つずつ思い出していくのも辛いので、思い出すのを止めた。
撫子さんは今度こそ俺から体を離した。
「何か嫌な思いをしたら私のところに来なさいね。また抱きしめてあげるから」
ふわっとした笑顔を浮かべながら、撫子さんは帰っていった。
それから、俺は次に進むにはヒカルに会わなければならない、と思っているのだが心の準備は暫く整わないだろうと思われた。
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