私は雨になりたい

渡橋銀杏

私は雨になりたい

 五月雨は憂鬱な季節の雨だ。


 空には薄黒い雲が流れ、風は強く吹き付けて窓を鳴らす。雨は強く降り続けて、窓の外から先、ちょうどグラウンドで何が行われているのかわからないほどである。そんな中で私は黴臭い廊下に佇んで外を眺めていた。目的もなく。


 ただ、五月雨が落ちる様を眺めていた。


「あ! こんなところにいたんだ!」


 そんな私を見つけて、彼女は大きな声を上げた。ころころとしたその声が、湿気で淀んだ空気を払う。雲の隙間から太陽の光が漏れるように彼女は私を照らす。


「授業が終わってからどこへ行ってたの?」


 彼女の名前は天音。天の音。なんて綺麗な名前なんだろう。


「ちょっと、いろいろね」


 だけど、私は彼女と向き合って話すことができない。彼女の純真さ、美しさがまぶしくて直に見ることができない。いつから、こんな風になったんだろう。


 天音は私のクラスメイトで、天音は私のことを親友だと言ってくれる。いつも一緒に行動しているから、その言葉に嘘はないだろう。明るく元気な性格で、誰からも好かれるような子だから、そんな冷たい嘘をつくとも思えない。


「まぁいいや。それより、帰ろ!」


 天音は私の手を握る。その瞬間に、遠くで雷が落ちた気がした。


 だけど、音は鳴らなかった。


「どうしたの、何かあった?」


 いつまでも動かない私を、不思議に思う天音。心配して顔を覗き込んできた天音に、私は出来る限りの笑顔を作った。


「ううん。なんでもないわ。少し考え事をしていただけ」


 私のその言葉と表情を見ても、天音が納得することは無かった。だけど、彼女はそれ以上を追及してくることは無かった。


「そっか、じゃあ帰ろ! 傘、忘れちゃったんだよね」


 昇降口から、私の差した小さな傘に二人で腕を組んで入る。二人が濡れないようにするにはそれしかなかった。私の心臓付近に、天音の腕がある。雨の匂いと、天音の持つ甘い匂いが混ざって私を不思議な気持ちにさせた。


 腕から心臓の音が伝わっていないだろうかと思いながら、傘の外を眺めていた。


 こうして、傘の内側にいても、何も話さない時間があっても居心地の悪さがないのは二人がどれだけの時間を過ごし、どれだけの言葉を交わしてきたのかを証明するのには十分だった。その一方で、二人の間には埋まらない思いがあった。


「ありがとう! じゃあ、明日ね」


 天音の家まで送ると、彼女は嬉しそうに笑って走っていった。



 一人で家に着くと、玄関先で母が出迎えてくれた。


「おかえりなさい」


「ただいま帰りました」


 それに対して、私も言葉を返す。


 そのまま二人でリビングへ向かう。彼女は、雨に濡れた私にシャワーを浴びるように勧めてきた。体に張り付いたセーラーが気持ち悪い。靴下も湿っている。


 温かい水が冷たく濡れた私の体を温めていく。


「お母さん、お風呂ありがとうございました」


 入浴を終え、自室に戻った私は、部屋の前で待っていた母に声をかけた。


「気にしないで」


 母は笑顔を浮かべると、そのまま扉の向こうへ消えていった。それを見送った後、私は部屋の中へと足を踏み入れた。ベッドの上に腰かけ、そのまま仰向けに寝転ぶ。天井をじっと見つめたまま考える。自分の気持ちについて。


 どうしてあんなことをしてしまったのか。自分でもよく分からない。


 ただあの時、どうしても我慢できなかったのだ。心の中に溜まっていた黒い感情を抑えることができなかった。そうでもなければ、爆発してしまいそうだった。だから、それを見られてしまった。


「はぁ……」


 思わずため息が出た。自分が嫌になる。

 こんなこと今まで一度もなかったというのに……


―――放課後の教室。夕焼けが赤く染めたその教室で、私の心は壊れそうになった。窓の外には天音がいた。そして、その隣には天音の彼氏がいた。二人は楽しそうに手を繋いで帰っていた。幸せそうな笑顔、私は見たことが無かった。


 私もそんな笑顔が見たかった。私にも見せて欲しかった。


 目の前にある、天音のロッカー。その中には体操服が入っている。私は天音の香りを感じていたくて、隣にいるのが私だという妄想に浸りたくてそれが危険だとわかりながらも手を伸ばした。甘くて、そして辛かった。


 普段の天音からする洗剤の匂いがしたけれども、それでも窓の外にいる彼に代わって天音の隣にいると感じることはできなかった。どこまでも、ここは埃臭い教室の隅で、私が握っているのは天音の手では無くて、ただの体操着だ。


 涙があふれた。体操服を濡らすのは危険だとわかっていながらも、涙が止まらなかった。もしも、自分が男ならば今も天音の隣で笑っていられたのかと考えるとどうしようもなく自分の体を恨んだ。でも、どうしようもなかった。


 まるで雨のように、目からしずくが零れ落ちていった。


 そんな私を、カバンについた人形のストラップ。天音からのプレゼントが見つめていた。窓から吹き込んだ風が、そっとそれを揺らした。



「雛さん。もうそろそろ夕飯ですよ」


 いつの間にか眠っていたらしい。夢は過去の話だった。乱れた服を整えてから、階下へと向かう。雨はまだ止む気配がない。夕飯を食べていても、テレビを見ていてもずっと雨は降っていた。ぼんやりと窓の外を見る。


「どうして泣いたんだろう」


 別に泣きたいと思っていたわけではない。ただ涙が出てきただけだ。なぜ泣いてしまったのか、今でもよく分かっていない。きっとあの時から何も変わってない。


 ただ一つ言えることは、私が天音を好きだということだ。それも友達としてではなく、異性としての好意を抱いている。それを自覚したのはいつ頃だろう。はっきり覚えていないが、気づいた時にはもう好きになっていた気がする。


 私にはないものをすべて持っている。明るくて、誰にでも優しくて、なんだか一緒にいるとポカポカして、なんだかすごく幸せな気持ちになれる。これは恋心のせいじゃない。中学の時にいた彼氏でも、こんな気持ちになったことは無い。


 だから、これが初めてなのだと思う。この思いに気付いてからは、天音と一緒に居るのが怖くなった。確かに幸せなのに、もしも天音が私のことを嫌いになったらどうしようと思うと、不安でしょうがなかった。だから、天音を避けようとしたこともあった。だけど、それは出来なかった。


 私は天音が好きだから。嫌われたくないと思うのと同じくらい、天音に好かれたいと思っている。矛盾しているかもしれないけれど、それが私の本心だ。


 だけど、今の関係を壊してしまうようなことは絶対にできない。私は、これからもこのままでいいかわからない。だけど、今日だけはもう少しだけ、一緒に居たかった。せっかくの雨、二人で帰ることのできる少ない日。


「ダメ、しっかりしないと!」


 自分に言い聞かせるように声を上げる。これ以上馬鹿なことを考える前に早く寝ようと部屋に戻り、布団にもぐりこむ。しかし、一向に睡魔は訪れてくれなかった。


 その後もしばらく目を閉じていたが、やはり眠ることはできず、仕方なく体を起こす。外は暗い夜の闇に飲まれず、きらきらと五月雨が降っていた。


「散歩してこようかな」


 このまま悶々としているよりはましだと思い、部屋を出ることにした。家を出て、庭先の前を通り過ぎる。傘をさすけど、横から殴ってくる雨が冷たい。


 目的もなく歩いていると、近くにある公園にたどり着いた。そこは、天音と長い時間を過ごした公園だった。水滴がいつもの青いベンチに撥ねている。


 雨は止むことなく、地面はぐしゃぐしゃだ。


 私は傘を閉じて、そのベンチに腰掛けた。雨でぬれたベンチと体が触れた瞬間に、水の感触が入り込んできた。その冷たさに少し身震いするけれども、なんだか気持ちが良かった。降ってくる雨も、私の傷をいやしてくれていた気がした。


 そのままずっとここにいようかと思っていたけれども、それはできなかった。


「なに、してるの?」


 そこにいたのは、傘を差した天音だった。少しこちらを怖がっている。当たり前だが、友人が夜中に傘を差さずに公園のベンチに腰掛けていれば怖いだろう。だが、天音はそれでもこちらへと近づいてきて傘を私の上に差した。


「大丈夫、めちゃくちゃ濡れてるけど?」


「大丈夫。寒くはないわ。それより、濡れちゃうわよ」


 天音は私を覆う様に傘を差しているから、今度は天音まで濡れてしまう。こういうところも好きだ。雨に濡れた天音は、街頭に照れされてきらきらしている。


「でも、それだと雛が」


 天音はどうしていいかわからなさそうにしている。私は少しベンチの端によってスペースを空けた。さっきまで私の服が水を吸っていたおかげでそこには水たまりはなく、天音のお尻が濡れることも無い。


 私の言いたいことがわかったのか、そこに座った。天音が座って上を見ると、その視線を追うようにして私も夜空を見上げる。雨が目に入り込んできたけど、それは気にしなかった。そこには雲に覆われた暗い景色が広がっていた。


「どうしてこんな時間に外にいるの?」


「う~ん、なんでだろう」


 こうして隣にいてくれるのがすごく嬉しいけれども、それをばれないようにと必死に取り繕う。天音もきっと気が付いていない。少しの間だけ沈黙が流れて、雨音だけが強くビニール製の傘を揺らす。


「ねえ、覚えてる? ここでよく遊んだの」


 この公園は、私の家からも天音の家からも近い。だから、小学生の時にはよく遊んだものだ。特に覚えているのは、水風船。


「楽しかったよね。毎日、泥だらけになるまで遊んで」


 その時には天音の事を友達として見ていたはずなのに、今はこんなにも違う。だけど、その時の感情に戻りたいかと言われれば難しい。そんな悩みもすべて雨が流してくれればいいのに。子供の頃から汚れた私を流してくれればいいのに。


 天音は昔も今も変わらずに純粋な目でこちらを見ている。


 その目が愛おしかった。ここなら、誰にも見えない。


「ねえ、天音」


「なに? 雛」


「ごめんね」


 私はそれだけ言って、天音を抱きしめた。その勢いで天音の差していた傘は地面へと落ちて、雨は私にも天音にも容赦なく降り注ぐ。天音の体は冷たかった。


「え? 雛?」


 天音の声がして、耳元に温かい風が吹いた。それが心地よくて、もっと強く抱きしめる。すると、天音も優しく背中を撫でてくれた。


「どうしたの。なにか辛いことでもあった?」


 その優しい声が、私の決意をほだす。告げないと決めていた思いが溢れそうになる。駄目だと、無理なんだと何度も言い聞かせてそれでも止まらない。


「天音」


「なぁに?」


 私は言ってはいけないことを、天音に告げた。


「好きなの。天音の事が」


 最初、私は友達としてと受け取られるかと思っていた。だけど、それは無かった。

 

 何も言わない天音に恐る恐る顔を上げると、天音の顔はひどくぐしゃぐしゃに歪んでいた。今にも泣きだしそうだけれども、それでも堪えている顔だ。


「それは、恋人としてってこと?」


「……うん」


「いつから?」


「……半年位前から」


 私がそう言った瞬間に、雨ではないその水滴が天音の目から溢れた。


「ひどいよ。そんなの、ひどいよ」


 その顔を見てるのが辛くて、私も思わず涙があふれた。抱き合ったまま、私たちはずっと泣いていた。雨の冷たさも感じなかった。


「私も、ずっと好きだったんだよ。雛の事。だけど、だけど……」


 え?


「雛は彼氏がいたこともいるから諦めようって。普通の恋をしようって頑張ったのに、今更そんなことを言うなんて……」


「ごめん。ごめんね」


 まさか、天音もそんな気持ちを持っていたとは。中学時代は、クラスの中でもちらほら交際する人がいて、私も告白されたから付き合っただけ。



 私たちは好きなだけ、好きな相手の胸で泣いた。


「天音は、今も私の事が好き?」


「うん、だけど彼氏のことも好き。雛に片思いしている私も受け入れてくれたから」


「……そっか」


 もともと、私も恋人同士になることは無いと思っていた。両思いだけで十分だ。


 だけど、天音はそれ以上の事を提案してきた。


「でも、この先も雛とは一生、仲良くしていたい。その約束をしよ」


「約束?」


「そう。一生の約束」


 天音はそう言って、私の唇を奪った。その後の事は覚えていない。



「おはよう。あれ、雛。髪を切ったんだね」


「まあ、暑くなってきたからちょうどいいかなと思って」


 週明けの月曜日、登校するとみんなから声をかけられた。元々は肩より下まで長く伸びるほどだった髪の毛をばっさり切れば、それくらいは当然だろうか。


「おはよう天音。あれ、天音も?」


 そして、後ろから教室へと入ってきた天音。天音も、髪を切っていた。


「天音も?」


 そう言って天音は教室を見渡すと、私を見つけた。そして、お互いを見あって笑った。やっぱり、幼い頃から一緒にいるおかげで考えることが似ている。


 その日の天気は、からっとした気持ちの良い晴天だった。

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