欲目、ひいき目、色眼鏡
僕の恋人は雪といいます。その名の通り、雪のように美しく真っ白な体と、吸い込まれそうに黒く煌めいた瞳を持った少女です。いや、少女という表現には些か誤りがあります。彼女は僕よりも年上で、立派なレディなのですから。
しかしながら、彼女は少女のような愛らしさと可憐さ、そしてあどけなさを兼ね備えているのです。僕にすり寄り、甘えた声で「構え」とせがまれたら、何をしていても放り出してしまうくらいに、僕は彼女にべた惚れでした。
僕たちは今年の冬の終わりに出会いました。この町に来て間もなく、寂しくて心許ない僕は、そんな自分と同じ目をしている雪を公園で見つけて、放っておけなかったのです。それからというもの、僕の毎日は彼女中心になりました。
「雪、今日も可愛いね」
「にゃあん」
そう、僕の恋人は、人間ではありません。白い仔猫です。けれど、雪はとても賢くて、まるで僕の気持ちを察することができるかのごとく行動します。
今日は散歩に行きたい気分のようで、外に行きたいとドアをカリカリ爪で引っ掻いては、僕の方を振り返って鳴くのです。
「わかったよ、ちょっと待ってね」
僕がコートを引っ張り出せば嬉しそうに身体を擦り寄せてきました。たまらずその真っ白な頭を撫でれば満足そうに、
「にゃん」
と短く鳴いたのでした。
僕たちは人通りの少ない裏通りをゆっくり歩いていました。僕は基本的に雪が行きたいところに付いていくだけなのですが、今日は歩いたことのない道をずんずんと進んでいくのです。
勤務先の関係で、地元を離れてここに越してから早半年経ちます。雪と散歩に行くか会社に行くかしか外に出ないせいで、あまり地理には詳しくありません。
雪の散歩コースも大体決まっているのに、今日は冒険心が湧いているのか、はたまたどこか行きたいところでもあるのか、だんだん道が細くなるのにも構わず、雪はどんどん歩を進めます。そのおかげで、こんなところにこんなものが、という新しい発見もあって、新鮮な気持ちで歩いていました。しかし、人も建物も少なくなって、僕が些か心細くなってきても雪は進み続けます。
いよいよ何もない小道のようなところに差し掛かったところでした。
「にゃあ」
「どうしたの?」
急に雪が立ち止まり、僕に抱っこをせがんだのです。勿論抱っこをするのは構いませんが、突然どうしたのか心配になって僕は慌てて元来た道を引き返そうと振り返りました。すると、見覚えのない看板を見つけたのです。眼鏡店だけが辛うじて読める、煤けた文字の看板でした。
「あれ、こんなところに眼鏡屋なんかあったっけ?」
先程まではなかったはずの店の前で、思わず立ち止まりました。途端に抱っこをせがんだ雪がするりと僕の腕からするりとすり抜け、店のガラス戸をカリカリやり始めたのです。
慌てて雪を止めようとした瞬間、ガラス戸が開いて、老人が立っていました。
「すみません!」
「いえいえ、可愛らしいご客人だね」
謝る僕を余所に、彼は雪の頭を撫でながら、みゃあみゃあ鳴く雪にうんうんと頷いていました。まるで何か会話をしているかのように。
「そうかそうか、わかったよ。とりあえず中へお入り」
そう老人が雪に言うと、言うとおりに雪は店の中に入っていきました。
「ほら、君も。どうぞ」
「すみません」
何がなんだかわからないけれど、雪が中に入ってしまった以上、僕も入らざるを得ません。
店内は思った通りに狭く、眼鏡屋と看板に書いてあったはずなのに一つも眼鏡が置いてありませんでした。
「うちはフルオーダーの眼鏡店だからね」
「はあ」
まるで心の中を覗かれたようでドキリとしました。きっとキョロキョロとして訝しげな顔でもしていたのでしょう。僕は得体の知れない居心地の悪さに、早く帰りたくてたまりませんでした。
「ほら、雪帰るよ」
「まあ、待ちなさい。帰るのは彼女からのご注文の品を君に渡してからにしてもらわないと」
店主が店の奥から持ってきたのは、何の変哲もないややピンク色のサングラスらしき眼鏡でした。
「このサングラスが何だって言うんです? まさか家の猫がこれを欲しがっているって?」
「これはね、色眼鏡さ。欲目、ひいき目、色眼鏡。君に、都合の良いものが見えるのさ」
そう言って、店主はひょいと僕にそのサングラスをかけさせました。僕は抵抗することもできず、パチパチ瞬きをするしかありませんでした。何故かって。
「にゃあ」
雪の声がする、先ほどまで間違いなく雪がいたはずの場所に、どこからともなく現れた白いワンピースを着た美しい女性が立っていたのです。
ふと気付いた時には、僕と雪は自分達の家の前に立っていました。いや、僕と雪と思われる女性と言った方がいいのでしょうか。
「夢でも見てるのかな、ねえ雪」
「にゃあん」
眼鏡を外すと、そこには紛れもなく愛猫の雪がおり、僕は益々混乱するのでした。
あの怪しい店主の言葉を信じるなら、あのお店で見かけたり、今隣に座っていたりする女性は雪なのです。この渡された色眼鏡を通して見ると、雪は美しい女性として僕の目に映る仕組みなのだそうです。
だから、眼鏡を外すと雪はいつもの雪に戻ります。というより、僕がいつもの雪の姿を認識できるようになります。僕が眼鏡をかけていようがいまいが、他人から見れば雪はずっと白い猫なのです。
「本当に君は雪?」
「なーお」
人間の姿の雪は、僕の問いかけには応えず、人間の頭を僕の膝の上に乗せてきました。僕が恐る恐る彼女の頭を撫でると、感触は人間の髪の毛を撫でている感覚でした。一体、今この光景を他人が見たら、僕は雪のどの部分を撫でていることになるのでしょう、やっぱり頭なのかな。
まだ夢見心地というか、まったく理解は追い付いていませんが、嬉しそうに微笑みながら、僕の膝に頭を乗せて甘える姿は、どこか雪を思い出させて、僕は優しく彼女の頭を撫で続けました。
「君はその引っ込み思案の所為で損をしているようだね」
あの日、突然人間の姿になった雪を見て呆然としている僕に、店主はそう言いました。
「こんなにこの子に好かれるくらい優しい男なのに、人間の眼に晒されるとその特徴を発揮できなくなる」
「なーお」
「緊張してしまうのは仕方がないが、いつまでもそのままでいて、一番しんどいのは君だろう」
店主は僕に反論の余地も与えずに、勝手にかけさせた眼鏡を、今度は断りもなく外してしまいました。途端に見知らぬ女性は煙のように消え、彼女の足元辺りだった場所には雪が鎮座していたのです。
「は? え、なんで、手品?」
「手品ではないぞ。先程も言ったが、この色眼鏡は君にとって都合の良いものが見える。願望を具現化していると言ってもいいかもしれんな」
店主の説明はよくわかりませんでしたが、とにかくあの色眼鏡をかけると雪が人間の女性に見えるということはわかりました。まるで夢を見ているようですが、頬をつねったら痛いのです。
「まあ信じられないかもしれんが、どのみちこれはもう君の物だから。使おうが捨てようが好きになさい。ただし、使うならば一つだけ約束がある。この色眼鏡を、長時間かけてはいけない。最高でも十時間。それ以上、かけ続けてはけしていけないよ。かけ続けたが最後、君自身の目が色眼鏡になってしまうからね」
僕が呆けたように頷くと、店主は満足そうに微笑んで、再び僕に色眼鏡をかけさせました。
「さあ、そろそろ帰りなさい。あまり長居すると戻れなくなってしまうからね」
そう店主が言って、一瞬意識が途切れ、僕らは知らぬ間に我が家に戻っていたのでした。
「それじゃあ行ってくるよ雪」
「にゃあ」
あれ以来、僕は家の中では殆ど色眼鏡をかけるようになりました。会社がある日は、朝起きて眼鏡をかけ、雪に挨拶をして手を振ってもらってから家を出て眼鏡を外し、憂鬱な会社が終わったら超特急で帰って眼鏡をかけ、雪と戯れ、そして眼鏡を外して眠るのです。休みの日は起きてから眠るまで、十時間経たないことに気をつけながら、眼鏡を外したりまたかけたりを繰り返しました。
この眼鏡は、雪が人間に見えるだけではなく「僕に都合の良いもの」を見せる眼鏡です。この眼鏡をかけていると、僕が晴れていてほしいと思ったら、実際は雨が降っているのに晴れているように見えたり、携帯の電池が切れてほしくないと思うと、実際は残り少ないのにまだたくさん残っているように見えたり。ただ「見えるだけ」なので、晴れているように見えても、外に出れば雨に濡れるし、携帯の電池だってまだ五〇パーセント残っているように見えていても、実際の電池が〇パーセントになったら当然電源は落ちます。
便利なようで不便なこの眼鏡をつけられるのは、安全面も考慮して家の中だけに限られました。
すると、段々と外に出るのは会社に行く時だけになり、唯一の外出だった散歩に行くこともなくなりました。だって雪は、僕の眼に映る雪は猫ではなく人間なのです。僕らは家の中で手を繋いだり、抱き締めあったりしました。そうしている時間だけが、会社であった嫌なこと、不安なことが忘れられるのでした。
人間になった雪は、いつも何も言わずに凹んだり落ち込んだり、時には泣きわめく僕を優しく抱き締めてくれました。誰かに抱き締めてもらうなんて、僕は幼い頃からしてもらった記憶がありません。もしかしたらうんと小さい頃は母に抱かれていたのかもしれませんが、もう覚えていないのです。それくらい、僕は人との関係が希薄でした。
「僕は、雪さえいてくれたらそれで良いんだよ」
「にゃおん」
抱き付いている所為で顔は確認できませんでしたが、どこか悲しそうな声でした。
「お前は本当に駄目だな」
部長の怒鳴り声と一緒に、誰かの吐いた溜め息も聞こえます。僕はあまりバリバリ仕事ができるタイプではないのでよく怒られていましたが、最近はそれが顕著でした。完成したと思った書類を提出すると未完成だったり、取ってこいと言われた資料を持って行ったら全然違う資料だったりするのです。不注意だと思って気をつけているのに、そういう「都合の良い見間違い」によるミスが多いのです。まるで、あの眼鏡を会社でもはめているようでした。
「ねえ、大丈夫? 何か悩みでもあるの? 毎日凄く疲れた顔してるよ」
「大丈夫だよ」
同僚の女性にそう言われ、お手洗いでふと鏡を見ると、酷く疲れた顔をした自分が映っていました。
早く、早く帰って、雪に抱き締めてほしい。僕はそんな考えに支配され、ますます仕事に身が入らないで怒られるばかりでした。
結局、その日家に帰れたのは日付が変わるか変わらないかという時間でした。僕はもう、限界でした。部長の心ない言葉が、同僚の呆れや哀れみの混じった視線が、こんなにも上手く人と付き合えない自分自身が。
到着するなり、例の眼鏡をかけて、出迎えてくれた雪に縋りつきました。
「雪、僕はもう、誰にも会いたくないよ、雪が、君がいてくれたら誰もいらない」
「みゃあ」
悲しげに鳴いた雪を抱き締める力を強くして、嗚咽も止まらず、ただただ泣き喚いたのでした。ぼやける視界でも、眼鏡越しだったら雪は、ちゃんと人間の姿です。麗しい女性の姿で、僕を抱き締めてくれるのです。
僕は満足でした。僕は猫の雪も好きです、大好きです。けれど、猫の雪だと僕が雪を抱き締めることはできても、雪が僕を抱き締めることはできません。今、雪が僕を抱き締められているのは、人間の姿をしているからです。
泣き疲れて起きると、まだ朝早かったようで腕時計は八時を示していました。感覚では昼頃まで寝ていたのに、余程雪に抱き締められていたのが安心できたのでしょう。
どちらにせよ、今日は日曜日で、会社に行く必要などないのです。帰って来たのが十二時過ぎで、そのまま八時まで眼鏡をかけたまま寝てしまったので、残り二時間になる前に一度外さないといけないと、頭ではわかっていました。けれど、このまま自分の目がこの眼鏡と同じになってしまえば良いのに、などという考えが頭を巡ります。そうしたら、今隣で寝ている雪の姿を、ずっと見ていられるから。
そんな邪な気持ちで、雪の頭を撫でたら、目を覚ました彼女は慌てて眼鏡を取り上げようとしました。
僕はそんな彼女を避けて嗜めます。
「どうしたの、雪」
「にゃあ!」
雪は怒ったようにとび跳ね、僕のつけっぱなしの腕時計のベルトをがじがじと咬むのです。今、雪は人間の姿に見えているのですから、人間の女性にはあるまじき行動に苦笑しました。時計は八時五分になっていました。
「何怒ってるんだよ、雪。あ、お腹空いたんだね」
「にゃあ!」
違うと言わんばかりに怒っている雪を置いて、僕は雪のご飯とカップ麺を用意しました。腕時計は八時七分だったので、十分になるまで待ちます。
暇なのでテレビをつければ、ニュースをやっているようでした。アナウンサーが淡々とニュースを読み上げ、短いニュース番組は終わるようでした。
「以上、お昼のニュースでした」
女性アナウンサーは確かにそう言いました。僕はもう一度、腕時計を見ました。時間は八時九分。お昼とは到底言えない時間です。
そこで漸く思い至りました、ああ、もしかしてこれはまた「都合の良いもの」を見ているのではないかと。そっと眼鏡を外して、もう一度時計を確認します。しかし、時計は同じく八時九分と示しているのです。
「なーお!」
そして、悲しげとも怒っているとも取れる鳴き声を上げた雪を見ると、眼鏡を外したにも関わらず、雪は人間の姿のままでした。
「やっぱり、僕の目はあの眼鏡と一緒になったんだ!」
僕は嬉しくなりました。だって、これからはずっと人間の姿の雪と一緒にいられる、最初からこうしておけば良かったと思った程です。僕が喜びに浸っていると、雪は実際はどうやって開けたのかはわかりませんが、いつも開けられなかった部屋と玄関の扉を開き、外に飛び出して行ったのです。
「雪!」
慌てて僕も後を追いかけました。するとすぐに雪の後ろ姿を見つけ、彼女の手を掴みました。
「いきなりどうしたの、雪」
「はあ? あんた、誰?」
完全に雪の姿のその女性は、雪の鳴き声とは似ても似つかない声でそう言って僕の手を振り払いました。僕は呆然とその姿を見詰め、我に返って追いかけようとして、気が付いたのです。周りにいる人が、全員、雪の姿に見えていることを。
僕はとぼとぼ家に戻りました。何人もの雪とすれ違いながら。
僕のこの目では、もう雪のことを探すことはできないのです。絶望に打ちひしがれてベッドに倒れ込んでいると、不意に扉が開く音がした。雪が帰ってきたと思って飛び起きると、そこにいたのは雪ではなく、あの眼鏡店の店主だったのです。
「どうしてあなたが」
「約束を破ってしまったようだね、可哀想に。彼女血相変えて飛んできたよ」
のんびりとそう言って、店主は僕の目を指さして、
「もう、君の目は元に戻らない。元々あの眼鏡は、彼女が亡くなった後の魂を代償に作ったものだったんだよ。でも、どうしても彼女が君の目を元に戻してほしいって言うからね」
と、白い縁の眼鏡を差し出したのです。
「これをかけたら、今まで通りの景色が見える」
「そんなものいらない、僕は」
「彼女はもういない、これが彼女から君への最後の贈り物だよ。一度は断ったんだ。魂を契約してしまった彼女が支払えるのは、もう彼女自身の身体しかなかったからね。でも、彼女はひかなかった、どうしてもって聞かなかった」
頭を鈍器で殴られたようでした。目の前にある白い縁の眼鏡が、雪だというのです。普通なら信じられない話ですが、実際にあの不思議な眼鏡を受け取っている手前、信じざるを得ないのです。
「雪……どうして」
「彼女、言ってたよ。公園で独り寂しい思いをしていた時、君が抱き締めてくれて、優しくしてくれて、いつか抱き締め返してあげたいと思っていたんだって」
僕は涙が止まらなくなりました。雪、雪。僕は愚かでした。大切なことが、目が曇って見えなくなってしまっていました。
「ごめん、ごめんよ雪」
白い眼鏡を受け取って、涙で滲む視界のまま、それをかけました。腕時計は三時十五分を指していました。
「あれ、前から眼鏡、かけてたっけ」
会社でそう、同僚の女性に声をかけられました。
「最近、かけ始めたんです」
「そっか。そのおかげで見間違いのミスも減ったんじゃない? 良かったね」
僕はそっと白い縁を撫でながら言いました。
「僕にはこれがないと、欲目、ひいき目、色眼鏡で見てしまいますから」
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