猫に纏わる。

石衣くもん

猫の猫による猫の為の恋愛講座

『吾輩は猫である。』


 名前は残念ながら、間抜けなのが既に付けられている。

 更にいうと、己は拾われた野良ではなく、我が家の大黒柱が昼間から酒を呷った結果、買われて飼われることになったアメリカンショートヘアーである。自分で言うのは少々憚られるが、己は猫なりに賢い。あくまで猫なりだが、そこいらの猫よりは当社比一.五倍は賢明だ。

 気取って言うわけじゃないが、愛読書は勿論『吾輩は猫である』。


「ただいま、会いたかったよー。アンー」


 むぎゅーっと口で言いながら己の腹を締め付けるのが、所謂世話係という奴で、雄の己にマリアなんて名付けるフハフハした頭の一人娘である。

 ただでさえけったいな名前を付けられてプリプリしているのに、奴は何を思ったのか、少し前から己をマリアンヌと呼び始めた。

 普通、通称は原形より短くしたり、呼び易くするものだという。己の言いたいことはわかると思うが、まだもう少し奴への不満には続きがある。しばらくしてセオリー通り、奴は己に付けた長ったらしい通称を縮めて呼び始めた。マリアンヌから取った二文字で、アンと。


 まごうことなく阿呆である。お前の名付けたマリアは、お前の中で一体どこへいってしまったのか。


「聞いてよ、アン。今日ね、晩ご飯がカレーで嬉しかったんだけど、また坂本先生に怒られたの! 先生ったらね」


 奴が己に話すのは専ら、晩御飯の献立と嫌いな先生の話。そして好意を寄せる先輩の話だ。


「でね、そこで先輩がね、ああ、もう素敵でしょう。素敵過ぎるでしょう!」


 恍惚とした眼でそう宣うのがどうにもムカムカして、黙れという意味を込めて鳴いたら、アンも素敵だって言ってるのね、だって。己が人間の言葉を話せたら、ばぁかって言ってやるのに。それができない為、低く唸って限りなくその音に近づけるまでしか叶わず、もどかしい。


「あーあ。こんなに、大好きなのになぁ」


 ふう、と溜息を盛大に吐いた奴は、お風呂行ってきますと支離滅裂なことを言った。本当に自由気ままな奴だ。猫の己がそう思うのだ、果たしてその先輩他の目に、奴はどのように映りこんでいるのだろう。

 いやそれよりも己は、そんな奴を虜にしている先輩の方が気になるかもしれない。

 


『吾輩は猫ながら時々考える事がある。』


 己にとってのそれは、恋というもののことである。人間は恋をするらしい。恋は求愛とは少し違って、そこには子孫を残す為よりも重要な意味が孕まれるのだそうだ。

 全部奴が言っていたことなので、全人類に適応するわけではないと思うが。因みに恋をすると、食欲がなくなり、睡眠欲が満たせなくなるらしい。そしてそのあり余った欲は純粋なものへと変貌を遂げ、最後の一つに流れ込むのだと。三大欲求のうちの最後の一つとは、大人への階段を上ってから現れるものらしい。


「アンはまだお子ちゃまだから、大人になったら教えてあげる」


と言った、あの阿呆の顔の腹が立つことと言ったら。己は立派な成猫だ。性欲くらい知っているわ。

 しかし、恋は下心だと発泡酒で悪酔いする父は言っていた。早速矛盾してるじゃない。だったら愛は真心ねって、つまみを作りながら悪ノリした母は言ったけど、そんな生易しいものはつまんないわ、と悪人面で奴は吐き捨てるように呟いていた。真心とは純粋な気持ちではないのか。やっぱり奴の言動は矛盾しているのである。


「アン、メール返ってきてるっ?」


 風呂上がりに髪も乾かぬうちに部屋に飛び込んできた奴は、嬉々としてケータイを開き、眼で見てわかるくらいに落胆した。どうやら件の先輩から返信は来てなかったらしい。ざまーみろ。

 耳元でゴロゴロ喉を鳴らしながらその旨を伝えたら、


「ありがとう。アンは優しいね」


と頭を撫でられた。

 畜生。また此奴、勘違いしてやがんな。そう思いつつ、己が落胆を笑顔に変えたことは、なんだか悪くない気もする。

 


『吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。』


 その一例とも言えるのが、人間は好きな子に意地悪したくなるということだ。これは我儘というより天邪鬼と言えるかもしれないが、苛めたくなって、そうして甘やかしたくなるって、ドラマの主人公が気持ち悪い笑顔で女に言っていた。

 それを観て、かっこいい、とほざいた奴を凄く苛めたくなった。これは己が奴のことを好きなんだってことだろう。ただ、奴との間に子孫を残したいとは思わない。あのアンポンタンの遺伝子はいらぬ。ならば奴に求めているのは愛じゃない。

 そう、きっと下心の方なのだ。


「明日は先輩とたくさん話せたらいいな」


 己の気持ちなぞ一切知らない此奴は、布団の中で我が身を引き寄せ、頬擦りしてからそう呟いた。そんなわけないあってたまるか、と返したら、ありがとうと微笑まれたから、猫パンチをお見舞いしておいた。


 

『このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌になる。』


 奴は己の腹を撫でるのが好きだと言う。そんなことを屈託なくいう頭の悪い奴を、己は愛おしく思ったりする。だから朝、たとえ腹を枕にされていても多少は厭わない。

 ただ、同じことを父にやられたら、己の本気の爪を披露することになるだろう。理由は単純明快、不愉快だからだ。腹を触られるのはいい気分がするものじゃない。寧ろ嫌い。

 なんだ、やっぱり飼い犬しかり、飼い猫も飼い主に似るのか、と言われそうな矛盾っぷり。

 しかしながら、これも原因は他ならぬ奴にあり、己の嫌いを、愛しいに変えているのは奴なのだ。

なんたる矛盾。なんとも不可思議。

 このままでは己の下心までも真心に変えられて、阿呆の子が欲しくなってしまうかもしれない。否、もう手遅れやも。

 なんだかそれが悔しくなって、己の尻尾を鷲掴んで寝息をたてる奴に擦り寄り、このまま寝坊して遅刻して例の先輩に会えなくなれ、と意地悪を言ってから二度寝を始めた。



 己は奴が何を言っているかわかる。


『しかし人間というものは到底吾輩猫属の言語を解し得るくらいに天の恵に浴しておらん動物であるから、以下略。』


 子供を残すこと以上に重要なことは何かしら。それが恋だと奴は主張していた。ならば恋って何かしら。そう母に問い掛けたら、さっきご飯食べたでしょう、と叱られた。

 同じく父に問うたら、テレビの音が聞こえないから黙りなさい、と怒られた。恋について尋ねると、何故だかみんな憤るのである。

 面白い、奴も怒るのだろうか。

 好奇心に駆られ、帰宅した奴の部屋へと足を運んだ。いつもなら明るいうちから蛍光灯が皓皓とつけられて白い部屋と化しているのに、どうしてか、今日は窓から差し込む西日でオレンジに染まっている。


「……アン?」


 酷くか細い声の主は、己の飼い主のはず。けれど、常々ふんぞり返って座っている椅子の上に奴の姿はなく、部屋の隅のゴミ箱の横で限りなく三角形に近づこうとしていた。

 本当にこれは己の世話係かしら。そう疑いたくなるくらい、いつもと違う。


「……今日は、晩御飯、ざるそばで……坂本先生は、休みだったんだけど」


 今日の晩御飯は好物で、嫌いな先生は休みなのに、元気がない。となるともはや、原因は一つ。


「先輩と……放課後、教室で話してて、そこに、先輩のお友達がきて、でも、その人、ほんとはお友達じゃなくって」


 先輩の恋人だったんだって。

 ひくひくと肩を震わせるのは泣いている証拠。

 馬鹿だなぁ。泣くほど好きなら奪えばよいのに。そんな勇気もない、なんて弱い生き物か。


「どうして、私は女の子に生まれたんだろう」


 こんなに好きなのに。

 己を抱き寄せて、腹の毛で水滴を拭いながら勝手なことばかり譫言のように繰り返して言う。


「好き、大好き、先輩。先輩、ああ」


 アン先輩。

 自分の想い人の名を飼い猫に無理矢理重ねて、愛を叫ぶ愚かな人間に、下心を抱いている己は一体何なのだろう。

 こんなに好きなのに。

 そう思って何もかも上手くいくなら、今頃お前は己の子を身篭っている筈だ。

 不毛な恋に嘆き泣く想い人に、恋ってなぁに、と思いっきり鳴いて尋ねたら、


「つらいものよ」


と、泣きながら笑った。



【引用】

 『吾輩は猫である』

著 夏目漱石

版 改版

出版者 東京 : 岩波書店

出版年 一九九〇.四

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