腐りきった蜜柑と蜜柑

くらげもてま

本文

 誰かがそれを考えたのだ。僕らは輝く巨大なフルーツタルトに盛り付けられたキウイであり、オレンジであり、その他大勢のものだ。

 つまるところ誰もが価値などないし、かといって誰も彼もが欠けるというわけにもいかない。

 このタルトの一角が人生で、それで終わりだ。僕らは死ぬまでこの牢獄に囚われている。食すべき者がないことを知らずに更新され続ける盛り付けの、その一片であり続ける。

 いつかこの土台が腐り落ちて見向きもされなくなるだろう。だがそれまでは僕らに退却は許されない。素晴らしきフルーツタルトの彩りを保っていなくてはならない。


「それこそが僕らの反乱理由だ」


 僕の言葉に、夏海はコンクリート塀の上に腰掛けて天上の星々を睨みつけて笑う。ゆったりとした夜の海の波が轟き轟き押し寄せていた。この地球が鳴いているみたいだ。おののき、この腐ったフルーツタルトの真似事を続ける人間どもの愚かさをせせら笑っている。

「どこか遠くへ行こう」

 僕は声をかけた。大声を発しないと、強く強く願うように発しないと、夜の波の音は若い僕の叫びなど容易く絡め取って、消す。

 天の川が見えた。頭上の、もっとも高いところをつかもうとするみたいに夏海が手を伸ばす。左手の薬指に輝く銀の聖なる輝きが星あかりを捉えていた。僕ではない誰かとの誓約。制約。僕らはあまりに似通っていた。フルーツタルトは色とりどりのバリエーションが求められる。オレンジを二つ同じ場所に置いてはいけない。

「遠くってどこさ」

「遠くだ」

「天の川みたいな遠く?」

「宇宙船があればそうするよ。べつにトラックだっていい。排気量5000cc程度のやつでいい。二度とこの世界に戻ってこないくらい遠ければ、それで」

「ばかみたいだ」

 彼女は僕を信頼しきってはいない。誰も信頼しきってはいない。人間は誰も信頼することなどできない。疑いの中にあるものが人生だ。

 それでも夏海と僕は比較的に心を通じ合わせられる方だった。ややあって、別れが僕らを引き裂くまでは。今はもう彼女が何を考えているのか……さっぱり見えない。それはあの頃よりずっと膨らんだ乳房のせいなのだろうか。赤みを帯びた口元のせいだろうか。夜更けにも白く美のナイーブな波紋を映り込ませる頬の化粧のせいだろうか。

 あるいは彼女のカラダが僕ではない誰かに抱かれたせいだろうか?

「反乱なんだ」

「ヨっちゃんはさ、子供なんでしょ」

「そういう見方もある」

「ここから出ていきたいんでしょ」

「そう言ってるだろ」

「じゃあなぜ帰ってきたの」

「父さんが倒れたから。脳溢血だ。梁の上を歩いてる時に倒れたんだって。うん、命が助かって幸いだったのかもしれない。どうだろうな。あんな男は死んでも良かった。でも肉親だしな」

「東京の大学はどうだった?」

「盛り付けが増えすぎたフルーツタルトだ」

「なぁに?」

「何を目指してるんだか。気持ち悪いよ」

 誰も彼も死んでしまえば良い、と思うこともある。そこに僕が入っていることもあるし、夏海が入ってることもあるし、そうではなくて二人だけをこっそりタッパーにしまい込もうとする欲深さの時もある。

 夏海が色のついたハンカチをそっと首元に巻いた。キュッと演技みたいに引き絞ってみせた。僕のひび割れた指先を取って、ハンカチの結び目を触らせて、両端を持たせた。

 うんざりするような感じだ。甘やかされているとわかる。でも心が逆らえない。僕は彼女に甘えていたい。ブロック塀の上じゃもたれかかることも抱きしめることもできない。ああ、なるほど。だからこいつはここを選ぶんだ。真横に座っている女のことが凄く遠くに感じた。

 そうか。こいつは女か。

 抱きたいな、と思った。孕ませて、やり捨てて、それが東京流だとうそぶいて見たかった。途端に気弱な罪悪感が僕を抱きしめ、夏海の涙に遅ればせながら気がついた。

「夜は泣くには良い時分だよな」

「そうだね」

「あと何百年か、何千年かしたら、東京でもここらくらいに星が見えるようになる。なんだってあんなにギラギラさせやがるんだろうな。夜の孤独が怖いんだろ。やんなるな、人間ってのは」

「犬や猫だって同じでしょ」

「かもね……でも、人間は僕とよく似てる。いやんなるよ」

 飛び跳ねて地に足をつけた。ジャリジャリした浜の砂がコンクリート上に散らばっている。遠くの道路をヘッドライトで夜を切り裂く誰かのトヨタが滑っていった。白けた気分だった。吐き出したからかもしれない。けっきょく夏海は愚痴る程度の相手で、ただの幼なじみで、それだけだった。世界に唯一人の王女様かヒロインのように扱ってみたくなることもある。ただ単にこいつしか僕にはないのだ、と虚しくなることも多い。

「俺、行くよ」

「もうこれっきりにしてね」

「なんでさ」

「あの人の夕ご飯作ってあげないと。夜は駄目なのよ。酔っ払って帰ってくるし、いつも……」

「女みたいに喋るんだな」

「悪いの?」

 何か悪いことがあるのだろうか? 僕は僕自身に問うてみる。いや、悪いことはない。何もないだろう。

 家に駆け戻ると、もう母は寝ていた。父は苦しげないびきをかいていた。二人が一緒に眠ることはもうない。父には専用のリクライニングベッドが必要だった。

 ふと、この二人にもロマンスがあってどこか遠くへ行こうとしたのだろうか、と考えた。だがどこかでフルーツタルトの端役であることを受け入れたのだろうか。

 冷凍庫に入っていたチャーハンを電子レンジに放り込み、ぶーっという音を聞いていた。この電子レンジが夏海であることを望んでいるわけだ、と僕は唐突に理解した。

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腐りきった蜜柑と蜜柑 くらげもてま @hakuagawasirasu

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