3日目

―Ⅲ―

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 一日ぶりのお母さんです。


 一週間ぶりのお母さんよりは価値は低いですが、それでも希少価値はあります。


 スーパーレアなお母さんでした(完)。


 詳しいことはこの日記の隣にある日記を読んでください。


 そして同じことを調べてください。そして一緒に理解の輪を広げましょう。


 母を信じるのです。母はいつでもあなたを見守っています。


 なんて、すぐ信じろと言ってくる人を信じてはいけません。


 信じるなと言ってくれる人を信用しましょう。


 なんだか、なぞなぞでありそうです。



 A“B君は嘘をついてます”


 B“A君の言ってることは正しいです”


 C“僕は嘘つきです。信用しないでください”



 この場合……あれ?


 良い奴しかいないじゃないですか。


 誰ですか、これをキャスティングした人は。


 もっとドロドロした関係を見たかったのに(怒)。


 フィクションは誇張し放題なのでノンフィクションのドロドロがいいです。


 今まさにノンフィクションSF(矛盾)が始まっているのにです。


 人類が全員引きこもった世界で他者との絆をより深く感じてゆく感動超大作ノンフィクション(筆者の味と物語味を出すための誇張表現が含まれております)SF。


 こんなコピーで売り出そうと思います。


 こっそり刷って、こっそり書店に置きたいと思います。


 もちろんレジ前と入り口近くに立て掛けて置きますよ。


 値段は通貨の意味が無いので基本無料(ブック内課金あり)です。


 追加ストーリーも検討しております。


 憧れの印税生活の始まりです。


 名ばかりですが。


 ただ読んでもらえるだけで、嬉しく感じるかもしれないこともないです(否定の連続)。


 人類が見えなくなっても他人を求める欲はあり続けるわけですから。


 そんな生活も良いかもしれません。


 もちろん炊事洗濯との両立はしますし、ちゃんと餌も散歩にも連れて行きますから。


 だから、飼って良いですか……?


 この忠犬ネコ吉を。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「おーほれほれ」


「きゃん、にゃー」



 今日、朝目覚めると居ました。


 名を忠犬ネコ吉と言います。


 犬の成分を50%、猫の成分を50%感じることのできるペットです。


 犬、猫両方アレルギーを持っているともれなく死んでしまいそうです。



「そうだお父さんがまさにそれだった」



 この家にペットが居ない理由でした。


 なので逃がしました。



「さらば、この無法治国家日本で賢く生きるんだよー」


「うにゃー、わん」



 って、あれ解き放って良かったんですかね?


 生態系崩れるんじゃ……



 ――ってとこで目が覚めました。お母さんです。


 ペットを飼えない憎しみが今になって現れてきたようです。


 ちなみに、日記に戻ったので独白調ではなくなりましたと予め断っておきます。


 言ってしまえば苦情対策です。※で書いちゃうやつです。


 苦情が来たら、ここ読みましたか? と強く打てるための布石です。


 これがあるだけでコールセンターでの対応が随分楽になります。


 これを読んでいるあなたもトリセツは隅々まで読みましょうね。


 あっ、因みにドット抜けは仕様です。


 さて、全人類引きこもり現象の続く調査は息子に任せるとして、お母さんはマンネリ化を恐れずに買い物に行きたいと思います。


 ブーイングを恐れないのもレベルカンストお母さんの印です。年齢は29でカンストです。


 主婦のルーチンがどれだけ虚しいものかとくと味わえ、です。




~~~~




 相も変わらず野良犬猫がたくさんいました。


 専用アイテムも今日はちゃんと持ってきてます。


 最近は缶切りを使わずとも開いてくれるので、開ける度に感動してしまいます。


 よくあれで指を切ったものです(泣)。



「さあ、働かないで食べる飯の美味さを味わいなさい」



 畜生にマウントを取りつつ配給紛いなことをしました。


 近くに居た犬猫も、匂いで駆けつけた遠方からお越しの犬猫様も一様に開けた缶に群がりました。



「ちょっ、お客さん押さないでください。一列に、大名行列のように並んでくださーい」



 お客さんを大名と直喩することによって良い気分にさせて尚且つ並ばせる、接客業時代の語録其の壱が思わずでてしまいました。


 ま、言葉が分からない畜生には通用しないんですケドねー。



「うーん、それにしても良い食いっぷり……」



 久しぶりに誰かが食べているところを見ました。


 世界がこんな感じになる前から家族で一緒に食べなくなったので、本当に久しぶりです。


 これが、犬猫でご飯が手作りじゃなくても、なんだか感慨深いです。


 お母さんが生かしているんだと直接感じられるからでしょうか?


 ……今度から、手作りにするのもありかもしれません。


 ――この感情を強く感じたいから。



「そう言えば、この子達は全ての人が見えているんですよね……」



 現時点の考え方では、人同士が見えない、直接干渉し合えないだけで、他の動物は影響ないはずですが……


 犬をリードで散歩させた場合、犬も多分見えなくなってしまうと思います。今までそんなリードだけが浮いている光景を見たことがないからです。


 何もない場所で吠えている犬は見たことがあります。これは、そこに本来は人が居るということでしょう。


 でも、撫でた場合はやっぱり見えなくなってしまうのでしょうか? 少し気になりました。



「うー、今だけはこの子が羨ましいです」



 お父さんには嫌われてしまいますが、息子にはちゃんと会えます。


 きっと某携帯会社のCMのように自然と受け入れてもらえるはずです。


 チョコレートが食べられなくなるのが致命的ですけど、それぐらいは頑張れます。


 まあ、チョコレートは全然入荷されていませんが……




~~~~




「え……!」



 いつも通り食品売り場に来たのですが、すっからかんです。


 冷凍食品も、誰が作ったか惣菜も、肉も野菜も全部なくなっています。


 もともと少なかったのは確かなのですが……



****



 ――なぜ? 理由?


 ①食品の供給がついに止まった。


 ②誰かが独り占めした。


 現場証拠としては、綺麗さっぱり無くなってしまっていること。



****



 つまり②ですよね。


 止まったのが原因なら多少は残っているはずですから。


 ここからは憶測になりますが、多分この、人は見えないけど確かに居る現象に気づいた誰かだと思います。単体か単体の複数人が犯行に及んだのかは分かりませんが。


 滅びたと思ったのなら、争う相手も居ないので、独り占めしようという考えに至らないと思います。……あくまで憶測ですが。



「はぁ……まずい」



 平和元年初の大事件です。


 一人一つ、固有の空間を持ちそこに引きこもって、争いがなくなった世界――つまり平和。


 しかし、人は確かに居るから、こういった事件が起こりました。


 この現象は人々への福音にはならないようです。


 間接的には人と繋がれる世界で安心したばかりですが、それは良いことばかりではありませんでした。



「隣町に……」



 同じことです。


 こういったことが起きた瞬間から、人々は独占されないように独占しようという思考に支配されます。


 そして模倣なので罪悪感も薄い。お母さんのように守るべき家族が居る人なら尚更です。


 隣町も町内で既に起こったか、この町の住人が隣町に行って独占していると思います。


 本当にまずいです。


 一週間なら米と一品おかずで生きていく上ではなんとかなるのですが、それが終わればもう餓えるしかないです。


 最後の手で畜生を殺して食べればなんとか……。と言ってもその場凌ぎで根本的な解決には何も貢献しません。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 ――この世界は非情だ。


 自活能力のない赤子や子供は既に飢えで死んでいるはずだ。親がこの現象の仕組みに気づいたのなら一人で食事を取ることができる子供なら、なんとかなるかもしれない。それでも大半が死んだはずだ。


 このままこの現象が続いたのなら人はもう終わりだろう。人と直接接触できないから性行為での種の存続は絶望的だ。


 今ある命が最期の人の灯火だ。吹かれれば消える。そしてもう灯ることはない。


 なぜこうなってしまったのか、世界に人が拒絶されたのか、世界を人が拒絶したのか。神的な存在が人の争いを止めるためには、と知恵を振り絞った結果なのか(この場合は実際争いが起こっているので滑稽でしかない)。


 一番自分でもしっくりきているのは、“人類全員引きこもり”だ。


 引きこもりとは学校や社会での対人関係に於ける弊害によって精神疾患に陥り、その元を絶つために人を拒絶する行為。


 家の部屋という聖域を設け、自分を保つことに専念するという一つの生き方とも言える。


 やっぱり誰もが自分が可愛いと思う、その自分が傷つかないようにするのも本能である。


 今回はワケが違う。


 何故安心して引きこもれるかは、常に供給され続ける食事、新作のゲーム、マンガ、他人を感じられるネット環境。


 そして決め手は外に人が居るという安心感。


 恐怖感ではない、害のないと分かりきった人は安心感を得られる。手を伸ばせば人に触れられると分かっているからこそ引きこもっていられる。いつでも脱ぐことができる見せかけの孤独が引きこもりたらしめる要因だとも言える。


 今回はそれが極端に希薄になってしまっている。


 確かに居る、けれど安心には足らない。なぜなら手を伸ばしても、伸ばしたことすら他者には分からないのだから。


 居ると分かっていて伸ばしたのに掴むのは虚無ばかり。人類が滅亡したのと変わらない。


 引きこもった原因、固有の聖域、領土、空間に逃げざるを得ないくらい全員他人に絶望した。或いは無意識のうちに、……だから絶望“していた”。


 間接的関与余地を残した理由、完璧な孤独に怯えた。母親の食事頼りの引きこもり思考からの帰結。


 どれも答えにはなり得ない。超常現象を哲学的に捉えているに過ぎないから。


 本当は世界の袋小路に地球の支配者人間様へ向けて、このようなサプライズが用意されていただけかもしれない。もっと、しょうもない理由かもしれない。



 ――況してや飢餓に苦しむ今の状況を打破する考えではない。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 思わずモノローグ調になっていました。まあ、これが本来のお母さんなのですが。


 ぷぷっ、まあ、なんとかなりますよ。ポジティヴにいきましょう。


 と、とりあえず、ホームセンターに行って農業用具を買ってきます。


 文化レベルを一つ落とせば案外、多分なんとかなるハズです。……案外、多分、ハズです。


 さあて、人類引きこもり現象~自給自足編~スタートです。




~~~~




「さて」



 幸い結構広めの庭を保有している我が家なのでこれを全て畑にしてしまいましょう。


 まずは土作りです。


 雑草や小石を除去しつつ、シャベルとと鍬で土を耕していきます。


 次に肥料、混ぜ終わったら畝を作って……殺菌、殺虫を施して……種を植えて。



「はぁ……」



 重労働、過ぎませんか……家庭菜園未経験者に普通ここまでさせますか?


 お父さんはいったい何をしているんでしょうか。お母さんがこんなに働いているというのに。


 てか、これ食べられるようになるまでどれくらい掛かるんですかね。



 『一ヶ月』



「意味ねーっ」



 明日食べる物に困っているのに、今の台所事情を考えて3週間の断食を強いる訳です。


 イケるのかすら分からない絶妙でいて微妙なラインです。


 ああ、そんな冗談抜きでギリギリの生活やだーっ。


 ……すっかり夕方なので、今日の節約料理作りに行ってきます。


 一週間分の食料を一ヶ月に分散させるのです。よく噛んで食べればいいのです。




~~~~



 『今日からご飯が少なくなりました。その代わり愛情をその不足分に割り当てました。なのである意味増量したと言っても過言じゃないです。価値的には食情(食に対する情熱)より愛情の方が上です。腹は満たされないと思いますが、心は満たされると思います。こんな争いの多い世の中で心を満たしてみませんか? ――by愛情30%増量中、お母さん』



 これも食卓に添えることで溜飲を下げる作戦です。


 ご飯と納豆にどうやって愛情を加えるんだって話ですが、それは納豆かき混ぜ地獄の一万回で見せますよ。


 混ぜれば混ぜるほどおいしくなるんですから、混ぜれば混ぜるほど愛情深い納豆になってくれるはずです(?)。


 なんたって“おいしい料理=愛情深い”ですからね。


 だから最近特に料理を頑張っています。


 愛情を証明できるように、母親らしく振る舞えるように。



「さてと、今日の日記は……っと」



 『書いてあった通りに確認したけど、同じことが起こったよ。 車が急に消えたり、現れたり。そしてこの日記のように間接的には繋がれる事実を。この救いの無いような状況が真実なの? もう、自分以外の人と会うことができないの? あれほど人と会いたくなかったのに、今ではそれを渇望してたまらないんだ。あの頃に戻りたい……あの頃の方がマシだった……辛いだけでも、まだ希望はあった……』



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ――あの頃に戻りたい。多分みんなが思っている言葉。


 あれ程、人に絶望していた息子がこの有様だ。きっとこれをスイッチに他人の有り難みが分かった人も多いだろう。


 でも、もう遅い。今更分かったところでどうしようもない。寧ろ分からないままの方が幸せだった。


 無知なる幸せ。――ああ、息子も無知だったのなら引きこもるほどの絶望を手にすることはなかったのだろうか。


 息子を引きこもりに追い込んだのは私だけど、全人類を引きこもりに追い込んだのは本当に誰だろう。


 例えば――特定の誰かではない、そういった思想だったり、それを共感する者だったり、その思想に至らしめた事象だったり、それらが歯車のようにうまく合致して、こうなれば傷つかずに済むという想いが拡散して全員が納得して生まれた現象。傷つかない代わりに傷つけることができなくなった世界の誕生。しかし傷つけ合いは生きる上では必要だということを直接的に開示。人々は考えを新たにする。そして日常が戻る。――物語ならこうなるだろう。点で繋いだような事の発端とそうなれば起こる出来事と顛末、そしてハッピーエンドの締めくくり。


 しかしここはフィクションの世界ではない。伏線は無意味であり、理由なんて無いことの方が多くて、主人公らしき人物は無駄なことを考えて行を埋め、ハッピーエンドは円満な死である。


 しかし、理由は人にとっては必要だ。何かことを起こすためには理由がなければ、そもそも起こすに至らない。無意識にやってしまった行動にも後付けの理由は必要だ――言い訳とも言えるだろうか。


 だから今回の現象にも理由を付けたくてたまらない。そうしなければ解決すら生まれないから。妄想めいた希望でも今はほしかった。宗教や信仰は、こんな世界でも潤いを保ち続けていた。


 いっそう妄想に生きてしまうのはどうだろうか。人はずっと居る。たまたまタイミングが合わないだけで今も外を歩いている。


 息子も元気に学校へ行っている。お父さんも定時にまっすぐ家に帰ってくる。


 そして今私はおいしいご飯を作って、二人の帰りを待っている。




~~~~




 『ただいま』



 息子が帰ってきた。部活帰りなので制服が少し汚れている。



「おかえり」



 しっかり顔を見て笑顔で挨拶を返す。



「ニコニコしてるけど、何か良いことあったの?」



 『うん、なんと記録会前に自己ベスト更新して、先生に褒められたんだ』



「すごいじゃない! さすが私の息子ね」



 私より高くなった頭を背伸びして撫でた。



 『ただいま……』



 お父さんが帰ってきた。



「おかえり」



 『ああ』



 無口だけど表情で大体わかってしまう。



「ちょっと、調子悪そうね」



 『ああ、なんとか耐えた』



「明日はゆっくりしてね」



 『ああ、すまない』



「いえいえ」



 三人が卓を囲むいつもの風景。



「いただきます」



 三人の声が重なる。


 三人の咀嚼音。



 『うん、やっぱりお母さんのご飯は美味しい』



 『右に同じ』



「もう、お世辞ばっかり……」



 『本当だって』



「おかわりもいっぱい用意しているからね」



 『はーい』



 この風景を見るだけで心が満たされていく。



 日常の風景。




































 『違うよね……?』
































「え?」

































 『こんな日々一度も無かったよね、お父さん?』



 『ああ、一度だって無かった』



 そんなはずはない、一度くらいはあったはずだ。



 『お母さん、今日もたくさん……虐められたよ』



「あっ、ああ……」



 『制服なんて普通は汚れない、汚れるとしたら体操服だよ? 気づかなかったの?』



 私は都合の良いように解釈していた。



 『ねえ、助けてよ、お母さん。もっと走っていたいよ』



「うん、……助けるから」



 『嘘でしょ……だって本当は血が繋がってないんでしょ。その事をずっと黙って、嘘をついていたんでしょ。そんなのもう信用できないよ』



「違う、本当よ、ずっと本当の息子だと思って育ててきた!」



 『その息子のために一体何をしてくれたの? ご飯も作ってくれない。話もちゃんと聞いてくれない。甘えさせてくれなかった。いつも仕事に感けて、挙げ句の果て血すら繋がっていない。そんな人に今更、母親面されても困るよ』



 全て事実だ。料理はずっと苦手で作らなかった。忙しいを言い訳に何一つ構ってやれなかった。言い訳だ……本当は知らないだけなんだ、母親というものを。だからどう接すれば良いか分からない。……でも、そんなの息子にとっては関係ないこと。



「わかった……お母さんに任せて」



 『何を……?』



「助けてあげる」



 母親らしいこと、息子のために唯一してあげられること。




~~~~




 私は走り出した。


 無人の町を裸足で走った。――灯油タンクを持って。




~~~~




「ここが……」



 初めて来た、息子が通っていた学校。今は無人で機能を果たしていない。


 開けっぱなしの校門を抜け、施錠されていない校舎へ入る。



「2ー3、2ー3」



 教室へ入る。


 教卓に立ち、そこからの風景を目を瞑って想像した。


 凄惨な風景が容易に想像できる。


 息子が受けた傷。


 目に見える傷と見えない傷。どっちが痛い?



 ――見える傷。


 骨が折れている。走ることはもう叶わない。走ること――息子の夢。夢も同時に消失。



 ――見えない傷。


 それにより受けた感情。夢の挫折。人への信用。ずっと騙していた親。



 計り知れない絶望感。引きこもらざる得ない状況。救えた事実。救えなかった人物。救わなかった人物。実行犯。――全てすべて――燃えてしまえ。


 灯油を教室中にぶちまけた。


 床に浸透してしまう前にマッチを擦って――落とした。


 木目に着地して燃え広がり、引火点を超えた濡れた場所から火は更に進行した。


 それを見てから、ゆっくり教室を出た。




~~~~




「燃えてる」



 電源の落ちた学校はその火を止めることも出来ずに、呆気なく燃えていった。


 通報する者もいないので、燃え移る物がなくなるまで燃え続ける。学校には燃えるネタが多い、一日中燃えているかもしれない。


 でも、罪はなくならない。ここであったことは虚構にはならない。燃えた事実と共に在り続ける。


 その残滓が息子の心を少しでも満たすと信じて。行き止まりの世界でも前を向けるように。


これが過去であると狼煙で示した。



「もっと早く、こうしてあげるべきだった」



 罪責感が絶望的に薄い。ルールが抜け落ちた世界での犯罪は無意味である。得られる物も失う物も希薄だ。



「でも、もうこれしか思いつかない……」



 すべてが遅すぎた。間に合わなかった。



「なんなの……この世界は……」



 その事実しか突きつけない――そんな世界だった。



「ああああああああ――」



 声が続く限り叫び続けた。本来叫ぶべき人の代わりに声を振り絞って慟哭した。




~~~~




 家に帰ると煤で汚れた服と身体を洗った。



「……っ」



 どこかで擦った傷が滲みた。人は傷ついてみないとその痛みが分からない。


 これは……後悔の痛みではない。後悔は通り過ぎてしまった。それなら一体……



 目に見える傷と見えない傷。どっちが痛い?



 ――見える傷。


 外傷、主に外的要因による組織または臓器の損傷。人に備わる治癒能力と人の開発した治療技術で大半は安定に持ち込むことができる。



 ――見えない傷。


 人から受けた暴力暴言を経験として保持し、行動を一部束縛すことによって、その暴力暴言を物理的に遠ざけ未然に防ぐ。大体の場合はトラウマと呼ばれ、その経験が時折フラッシュバックする。そうして更に苦しめる。永遠に消えない経験(傷)となる。



「生きているから痛む……?」



 その痛みに耐えられなくなって人は自殺をする。死ぬ痛みによって、痛みから解放される。なんて皮肉な話だ。入口も出口も痛みばかりだ。



 でも、それが……



「生きている証……なんだ」



 これも、生存確認なのかもしれない。


 脳が受ける刺激によって、世界は形取っている。目から入る情報では不十分過ぎる。五感を総動員させて鮮明なものにしていく。


 同じ機能と似たような姿形を持ちながら他人と呼称する人という存在。近いはずなのに思い通りにならない存在。理解するしないに関わらず心の内は未知な存在。


 それは自分にも言えること。日替わりのように変わっていく心と止める方法も理由も分からない欲望。反射を用いてようやく姿を認識できる、しかもそれは正ではない反転している。


 そんな自分から発せられた言葉に果たして信憑する部分が存在するのか。複雑化された心を反映させることができるのか。


 できない。だから小分けにして少しずつ少しずつ情報を与えていく。その情報は言葉だったり行動で伝え、五感を用いてそれを受け取る。そして半ばもう一人の自分を作るように、自分が分かるように、自分を他人に分かってもらえるように。生きている証拠として差し出す。


 だから他人とは自分勝手でわがままで……愛すべき存在なんだ。


 その生存確認は人によっては違う。優しく伝えることのできる人がいたり、暴力に訴える人もいる。それは伝えるのが得意か不得意の違いなのかもしれない。


 根本は自分という自分でも未知な存在のことを分かってほしい、同時に他人から自分を見いだすために他人を理解しようとしている。自分本位でありながら、うまく合致している関係なんだ、人間関係というものは。


 自分のためでも良い、それで助かる人もいる。



「そうか……!」



 生きている以上は、人が居る以上は、まだ人間関係は築けるはずだ。


 視覚だけが世界ではない。言葉だけが会話ではない。たくさん方法が在るから飽きないんだ――


 天啓を受けたように目指す道が拓けた。




~~~~




 机の上の食器が一つ綺麗になくなっている。その隣に紙が置かれていた。



 『了解、いつもありがとう……愛してるよ――byお父さん』



「……うん」



 お父さんも生きていた。


 こんな私に声をかけて、お互い会話が苦手なことを分かっていて交換日記で会話したんだ。愛情に餓えていた私にほしい言葉をいっぱいくれた、そして今でも。そうしていつの間にか家族になった。一時期それが間違えだったと思ったけど、でも今は結婚して良かったって思っている。好きになったのがお父さんで良かったって心から思える。



「…………」



 霞む視界を指で払い、机に視線を戻す。


 手付かずの食器が二つ。一つは私ので、もう一つは――私の息子のだ。




~~~~




 料理をお盆に乗せて、息子の部屋の前に向かう。


 無駄と分かっていても自然とノックしてしまった。


 一回、二回、三回。


 もちろん反応はない。そして扉も施錠されている。


 交換日記の白紙のページを破り、文字を書く。



 『話、しない?』



 書いた紙を扉の下の隙間に差し込んだ。そして待つ、扉を背にして長期戦を覚悟した。


 形だけの、思い込みだけの母親らしさを求めた文体は捨てた。今思えば何故あの口調にしたのか分からない。寂しさで狂っていたのだろうか。それとも恥ずかしくて、その恥ずかしさをごまかしたかったのか。その両方かもしれない。


 でも、息子と話を合わす為に、今風の文化を取り入れる行為自体は楽しかった。世界が静謐に満ちる以前から始めた行為は、いつの間にか小さな道楽として趣を変えていた。


 暫く待つと、うっすらと隙間から紙が出現した。



 『何……?』



 会話が成立した。



 『私の話、聞いてくれる?』



 『暇だから……いいよ』



 よし、……何を書こうか……



 『お父さんのとーっても恥ずかしい過去聞きたくない?』



 間髪入れずに。



 『聞きたい!』



 釣れた。心で少しほくそ笑んだ。



 『交換日記を始めた方はお父さんだって話したよね?』



 『うん』



 『急にそんな提案されてずっと断ってたんだけど、ものすっごくしつこくてね』



 『ほんと? あの無頓着なお父さんが……』



 『あまり感情出さないんだけど、結構気にかけているのよ? いろいろなこと。

 でね、毎日、気が変わってないか? とか訊くようになってね』



 『うへー、結構キツめ。それでなんで、やることになったの?』



 『えーと、なんでだろう?』



 『えー、覚えてないの!? 歳じゃないの?』



 『その歳でイジるのはなしで』



 『日記では自分でイジってたのに……』



 『自虐はいいの』



 『はいはい』



 『そう…… この、こんな会話がしたかったんだよね。誰かと』



 『え。お母さんぼっち……』



 『独りぼっちの略語止めて』



 『孤立している?』



 『同じ意味だけど、そうなるとすごい危機を感覚えてしまう』



 『独立している?』



 『ああ、すごい良い意味に聞こえる。ありがとう。このまま起業するわ』



 『こんな漫才したかったの?』



 『……そ、そうです(笑)』



 『あ、うん。いろいろ大変だったんだね。そ、それで、始めてみてからはどう?』



 『お父さんもお笑い好きで盛り上がりました』



 『よ、よかったね』



 『よかったです。っていつの間にか私の恥ずかしい話になってるし。気を遣われてるし。まあ、そういう訳でいろいろ交換日記上で交わしたの。話すよりこっちの方が楽だったし、お父さん自身もそうだったし、お互い合致したやり方だった』



 『それで、仲良くなって……どっちが告白したの?』



 『待ってました! ここからがお父さんの恥ずかしい過去の山場です』



 『おー、卒業式の後、大きな木の下で大きな花束を持っていたとか?』



 『…………』



 『ごめん……。最初の日記でそれを示唆する一文があって伏線回収かなと思ってつい』



 『熟読されてる……』



 『うん、最初はお母さんが生きてる事実だけを見て、返事してたけど後から読み直してね』



 『中身も読んでくれて嬉しいよ……』



 『う、うん』



 会話が終わってしまった。廊下をうろうろしながら次の話の内容を考えた。


 ――すると。



 『ちょっと、訊いてもいい?』



 『うん、何かな?』



 『僕のこと。知ってしまってから結局訊けず仕舞いだったから』



 『そうだったね。もっと早く話すべきだったね』



 知ってしまったのが最悪のタイミングだった。裏切りの末の裏切り。教えないということもまた形を変えた欺瞞なのだ。正直さだけが誠意ではないのだが、それを伝えた結果が怖くて後回しにしてきた。これが私の、私達の罪だった。回避が可能だったので情状酌量の余地はない。



 『あなたは孤児だったのよ』



 もっとオブラートに包めたはずだが、その工程に嘘で加工してしまいそうだったので、そうしなかった。



 『……うん、大丈夫続けて』



 少し震えた文字が帰ってきた。言葉の内容は一転、気丈だった。


 私の手も震えてきた。遊んでいる片方の手を支えにしてゆっくりと筆を歩かせた。



 『私達は子宝に恵まれなくてね。そういう場所で里子としてもらったの。そのあなたを産んだ人は親戚も誰もいなくて、産んですぐ病気で亡くなったって聞いたわ』



 『捨てられた訳じゃなかったんだ……』



 『そんなことを考えていたの……ごめんね……辛かったね』



 『僕こそごめん。ちゃんと育ててくれたのに赤の他人である僕を』



 『赤の他人なんかじゃない! どれだけ恨まれたっていい。でもどうか親として恨んで……それだけは奪わないで……初めて会ったときから、ずっと、あなたは私の息子なのよ……』



 『うん、ありがとう……お母さん』



 『ごめん。母親らしく振る舞えてないのにこんなことを言って』



 『そんなことないよ』



 『ううん、違うの私は母親に固執してたの。私、母親居なかったから。ずっとそこで思い悩んでた、母親らしさってなんだろうって』



 『まあ、僕も母親っていえばお母さんだから、なんとも言えないけど……でも、僕がお母さんって言えるのはお母さんだけだからね』



 『そうだね。しっかりしなくちゃね』



 『……最初から、僕から訊けば良かったな。勝手に裏切られたって思って閉じこもって。もともと、いじめも信じていた仲間から受けたもので、それで、誰も人を信用することがで きなくなったんだ』



 『……うん』



 『信用の末に裏切りが待ってるんだったら、最初から関係なんて持たない方がいいんだってそう思ったんだ』



 元を絶つ行為。人としての防衛本能。それは得てして人を孤独に追い込む。でも、いつかは手を伸ばしてしまう。孤独に耐えられず。本来の世界は誰かしらがその手を握る。しかしこの世界では……



 『一人で居るのは楽で良かった。顔を知らなくても共感してくれて、頭を使わなくて、関係が切るのが楽なネットに身を置くのが、そんな簡易的な人間関係が楽だったんだ。でも、世界がこうなって、気がついたんだ……それは一人じゃないってことに。いつだって人は誰かに頼っている。ネットの人も毎日ご飯を作ってくれるお母さんも、そのお金を稼いでくれるお父さんも当たり前だけど人ってこと。どこへ行っても孤独なんて存在してないんだ。だから、いざ本当の孤独を見せられたら、誰も耐えられない。耐えられないんだ』



 『人生ってのは後悔ばかりだね……』



 『あっ、ババ臭くなった』



 『うるさい、説教臭いをババ臭いに変換するな』



 『でもね、お母さん?』



 『ん?』



 『好き』



 『そんなんで、ごまかされないよ!』



 『それに気づけて、それを伝えられる世の中で良かったよ』



「……!」



 人ってすごい発明をしたものだ。



 『私も……好き』



 文字だけで、こんなにも伝えられるんだ。


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