跳躍する花

『Fw:』に登場した台湾人の女の子、ミンが小さかった頃のお話。


***


 初夏の大風にも関わらず、母はバレエのクラスを休むことを許してくれなかった。自分が娘を送っていくわけでもない、当時忙しい両親の代わりに幼い私の面倒を見てくれていたのは、父方の祖母だった。踊るのは好きだが、バレエのクラスは好きじゃない。なかなかレベルを上がることもできないし、元クラスメイトたちから笑われているような気がする。単に母の見栄だとしか思えない。良いところの娘なら、ピアノとバレエを習っているのが当たり前、みたいな感じだ。


 レインコートを雨が叩く。祖母の手に縋るようにして、歯を食いしばって私は高雄の市中を歩いていた。バレエの教室はこの一等地のビジネス街にあるのだ。ビル風が強くて吹き飛ばされそうだった。なんでこんなことしなくちゃならないのか、私は涙が出そうになって、雲がとぐろを巻く空を見上げた。85ビルの屋上が、仄かに輝いている。私は何の見間違えかと思って目を凝らした。確かに光っている。その光の中で、誰かが舞っている。


 美しい人だった。まるで重さの無いように、花びらのように舞い踊る。領布ひれを翻し、背はうなり、爪先は蝶の如く跳躍する。風雨までも平伏すように、その人の妨げにはなり得ない。

阿嬤おばあちゃん、誰かビルの上で踊ってる」

 私は繋いでいた祖母の手を引っ張って叫んだ。考えてみれば祖母は目が悪いので、そんな遠くのものは見えないのだが、私の言葉に祖母も顔を上げた。


 じっと85ビルの屋上を見えない目で見つめた後、祖母は私の濡れた髪を優しく撫ぜてくれた。

「ミン、あれは春の神様だ。風雨と共に夏の神様が来るのを、お迎えするために舞っているんだよ」

 すごく綺麗、と私は興奮して言った。祖母に教えてもらったことが嬉しかった。あんなふうに踊れたら、きっととても気持ちが良いだろうねえ。祖母はにこにこして私の話を聞いてくれた。ミンだって踊れるようになるよ。阿嬤はね、小さい頃春の神様が歌うのを聞いたことがある。そうしたら戦争が終わったよ。みんなまた一緒に歌えるようになったんだから……


 だから今でも晩春の嵐に遭うと、あの美しく舞う人と、祖母を思い出す。

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