最低の恋人

秋梨夜風

最低の恋人

「この場所もキミと一緒に行ったね。また行きたいなぁ」

「ふふ、そうね。懐かしい……」


 スマホの写真を見せてくる彼に微笑みを返しながら、私は怒りに震えていた。画面には行った憶えの無い観光地の写真。"一緒に行った"?いつのどこの女と間違えてるんだか――


 普通なら、自分の恋人が別の女との想い出話を自分と間違えて話し始めたら、怒り狂って謝らせるか愛想を尽かして振ってしまうかのどちらかだろう。

 しかし私は違う。だって、彼の事が本当に好きなのだ。そんじょそこらのカップルが痴話喧嘩をする所を私はグッと堪える。今まで何度もそうしてきた。彼はいわゆるプレイボーイで、私と出逢う前に腐る程の女性と浮世を流してきた信じられないチャラ男だが、私との交際は他の女と違う。

 彼はわざわざ誰かと付き合う必要が無いのに、私と交際しているのだ。つまり彼は無自覚かも知れないが、私を真剣に愛している。私はその事実に気付いたのだ。彼がどれほど愚かな記憶違いで私を傷付けようとも、私はそれを寛大な心で赦し続けて、彼と生涯添い遂げてやるのだ。


 彼は機嫌良さそうに話を続ける。紙袋から箱を取り出して、テーブルの上に乗せた。


「そういえばこれ、前にキミが好きだって言ってたお店のシュークリーム!並んでてなかなか買えなかったけど、やっと買えたんだ。お医者さんも食べて良いって、一緒に食べよう」


 当然、これも私の話ではない。大体、私はあんまり甘いものが得意では無いのだ。おおかた、最近の浮気相手の話と混ざってしまってるのだろう。それを"よく覚えてたでしょ"って顔をして嬉しそうに私に話す彼が愛おしくて仕方がない。

 だってそうでしょ?彼が私との記憶だと勘違いするってことは、彼にその話をした何処かの女は彼の中で既に有象無象の一人、私だけが彼の中に残っていると、逆説的に証明されているのだ。


「あら、ありがとう!ちょうど甘いものが食べたいと思ってたところなの。嬉しいわ」


 自転車で転けて太ももを骨折してしまって、二週間の入院中。あと数日で退院だが、彼はこうして毎日のようにお見舞いに来てくれている。入院食は味が薄かったから、"甘いものが食べたい"この言葉に嘘は無かった。

 彼に渡されたシュークリームの包み紙を開けると、バターとバニラの香りがふわっと漂う。キャラメルも入っているのだろうか、仄かに、美味しい焦げた香りもした。耐え切れず、ひと口頬張る。


「あ、これ美味しい!」

「……だね。ちょうど良い甘さだし、キャラメルの香りも……ちょっと、どうしたの?なんで泣いてるのさ」

「なんでだろ、えへへ。けど、このシュークリーム美味しかったわ。お店の名前後で教えて」

「えっ?あぁ、うん。分かった。折角だから今度一緒に行こう」

「ありがとう。愛してるわ」

「僕も。愛してるよ」

「ちょっと、なんで貴方まで泣いてるのよ……」


――数日前――


「先生、妻はどうなるんですか?」

「落ち着いて下さい。脚の骨折で寝たきりが続いたせいでしょう。高齢者の認知症は運動不足などから一気に進行してしまいますから……」

「退院は出来るんでしょうか」

「そうですね。あれからだいぶ落ち着いたようですし、脚の回復も問題無いので予定通りの日程で退院して良いでしょう。然しあなたもいい歳だ。介護には無理せずヘルパーさんを付けるとか、色々考えた方がよろしいと思いますよ」

「ええ、調べてみます。ありがとうございます」


 妻が交通事故に遭ってから一週間。幸い怪我は脚の骨折だけで済んだが、意識が戻った時、妻は記憶障害を発症していた。話しかけてもボーッとした反応しかしなかった。

 次の日、お見舞いに行くと会話は出来たが、結婚した事を忘れていた。幸い、交際している認識があったようなので、僕が焦って結婚の事を話すと、彼女は酷く取り乱した。どうして自分と結婚しなかったのか、裏切りだ、殺してやると喚いた。

 どうやら妻は、学生時代に付き合い始めた頃の状態に記憶返りしているようだと分かった。

 それ以降、僕は出来るだけ軽い話題から妻が昔の記憶をたぐって、現在までの記憶をゆっくりと思い出せるよう必死に思い出話を続けた。妻の反応から、それがほとんど他人事に聞こえているらしい事は察しがついたが――


 これから先、妻が元の記憶を取り戻すかは分からない。それでも僕は、妻が僕を愛してくれている事を強く感じていた。妻は入院中、他の人との会話をとても嫌う中で、僕との面会だけは嫌がらずに続けてくれたのだ。

 現在、妻の中で僕がどういう存在に認識されているかは分からない。それでも、少なくとも僕は妻の事を愛している。今まで彼女と積み重ねてきた長い月日を、これから先の老い先短い人生でどれだけ振り返られるか分からないが、再び彼女に生涯の伴侶として認めて貰うまで、僕は諦めないつもりだ。


 今日は妻の大好きなシュークリームを買ってきた。妻は甘いものが苦手だが、ここのシュークリームは甘さが控えめなのに香り高くて、濃厚さを感じられて良いのだという。


「そういえばこれ、前にキミが好きだって言ってたお店のシュークリーム!並んでてなかなか買えなかったけど、やっと買えたんだ。お医者さんも食べて良いって、一緒に食べよう」

「あら、ありがとう!ちょうど甘いものが食べたいと思ってたところなの。嬉しいわ」


 彼女の顔がパッと明るくなったような気がした。もしかして、このシュークリームは覚えてくれていたのだろうか……そんな淡い期待は、食べた直後の彼女の反応で儚く散っていく。


「あ、これ美味しい!」

「……だね。ちょうど良い甘さだし、キャラメルの香りも……ちょっと、どうしたの?なんで泣いてるのさ」

「なんでだろ、えへへ。けど、このシュークリーム美味しかったわ。お店の名前後で教えて」

「えっ?あぁ、うん。分かった。折角だから今度一緒に行こう」

「ありがとう。愛してるわ」

「僕も。愛してるよ」

「ちょっと、なんで貴方まで泣いてるのよ……」





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