第8話

蒼汰が転送された場所は大森林だった。彼が目を開けた瞬間、視界に広がるのは途方もないほどの緑の海だ。樹々の間に差し込む光は、葉を透過して美しいグリーンの光を散りばめていた。自然の息吹、木々の囁き、小鳥たちのさえずりが静寂を包んでいる。

彼は自身がどこにいるのか、何が起こったのかを理解するために、まず立ち上がろうと試みた。それは思っていたよりも困難だった。彼の体は疲労感に襲われ、頭は目まいと混乱でいっぱいだった。彼はなんとか立ち上がり、周囲を見渡した。

木々の間から差し込む光が眩しく、彼はしばらくは何も見えなかった。次第に視界が晴れ、周囲の光景が現れ始めた。彼は立派な樹木が立ち並ぶ、原始的な森林の中にいることを理解した。彼の頭は、瞬く間に起こった出来事に追いつくことができず、混乱したままだった。


森の中には未知の生物の鳴き声が響き渡りる。彼は不安を感じながらも、自然の美しさに心を奪われた。しかし、彼はあまりにも現実離れした状況に直面していた。

彼は自分がどうやってここに来たのか、どうやって帰るのかを考え始めた。しかし、その記憶は全くなかった。彼の頭は混乱し、彼は自分が目の前の森林で何をすべきかを理解することができなかった。


彼は直感を信じて行動を始めた。彼は自分が学んだ知識を使い、生存のための基本的な行動を始めた。まず、安全な場所を見つけ、食物と水を確保することに焦点を当てた。

彼が辺りを見渡すと、彼の目の前には小川が流れていた。清らかな水を運んでおり、喉の渇きを癒すための最適な場所だった。小川の周囲には食べ物になりそうな植物がいくつか見つかった。しかし、彼はそれらが食べられるかどうかを確認する方法を知らなかった。彼はリスクを取ることを選び、植物の一部を試食した。幸運にも、それらは彼が予想していたよりも美味しかった。


彼が木々の間を進むと、彼は遠くに人影を見つけた。それはひ弱な少女で、彼女は怯えて彼を見つめていた。彼女は明らかに過酷な生活を送っていたように見えた。彼女の名前はアリアーナ。奴隷身分の女の子だった。彼女は一人で森の中を彷徨っていた。

アリアーナは不安と恐怖に満ちた瞳で彼を見つめた。彼女の細い体は冷え切っており、衣服はほぼボロボロだった。彼女の顔は汚れていて、彼女が食事をしていないことは明らかだった。

アリアーナはその場で蒼汰を見つめ、彼がこの世界の住人ではないことを直感した。彼の出で立ち、彼が持っているもの、そして何よりも彼が話す言葉。すべてが彼女にとって未知のものだった。

彼らの最初の出会いは言葉の壁に阻まれていた。蒼汰が日本語で話し、アリアーナがヴィタリスの言葉を話すという状況で、意思疎通は困難であった。しかし、それは彼らが助け合い、共に生き抜く決意を深める契機ともなった。


蒼汰がアリアーナに話しかけると、彼女は彼の言葉を理解できないことを示すように首を横に振った。彼が何を言っているのか彼女に伝えようとしたが、伝わらない。しかし、彼の目は意図を明確に伝えていた。蒼汰は彼女を助け、安全であることを保証するつもりであることを理解した。


静かな森の中、明るい月光の下、蒼汰とアリアーナは互いに教え合う時を過ごした。彼らの前には、アリアーナが持ってきた野生の果物や野菜が散らばっていた。その一つ一つが、彼らが新たに学ぶ言葉の具体的なイメージとなる。

アリアーナはまず、自分が何を持っているのかを指さして示した。彼女は一つ一つの果物や野菜を手に取り、それぞれの名前をゆっくりと明瞭に発音した。彼女の声は静かで落ち着いていたが、一つ一つの言葉には確固とした意志が込められていた。

蒼汰は彼女の話す言葉を真剣に聞き、それを自分の言葉で再現しようと試みた。初めての試みはあまり成功しなかったが、諦めずにアリアーナの言葉を何度も繰り返した。彼の努力は次第に実を結び、やがてアリアーナが教えてくれた言葉を正確に発音できるようになった。

次に蒼汰は、自分の言葉で果物や野菜の名前を教えた。彼の声は深くて穏やかで、それぞれの言葉を丁寧に伝えた。アリアーナはその言葉に耳を傾け、自分の言葉として吸収していった。

二人はこの言葉のやり取りを繰り返し、お互いの言葉を少しずつ理解し始めた。彼らの会話はまだぎこちなかったが、言葉が通じる喜びがあった。


深い森の中、光が刺すような緑の葉と木々の間で、彼らは共に食事をした。その場所は、鳥のさえずりや風の音がやさしく響く自然の中の小さな広場だった。世界は異なるかもしれないが、自然の中での食事は、彼が日本でキャンプを楽しんだ日々を思い出させてくれた。食事はシンプルだったが、異世界での最初の一歩を象徴するものだった。

蒼汰はアリアーナと共に食材を探し、森の中で見つけた食用の果実や根を分け合った。彼女の知識は彼にとって驚きであり、異世界の生態系について彼女から学ぶことができた。どの果実が食べられるのか、どの根が食用であるのかを示す方法を見て、知識と経験に深く感謝した。

食事を準備する間も、彼らは言葉の壁を超えてコミュニケーションを取り合った。初めはジェスチャーや表情を頼りにしていたが、次第に理解し始めた。蒼汰は彼女の言葉で「ありがとう」を言い、彼女は彼の言葉で「どういたしまして」と応えた。

食事は彼らに必要なエネルギーを与え、同時に共有する喜びも与えてくれた。アリアーナが蒼汰の世界について質問し、彼女は彼の話を聞くことで世界を想像し始めた。

食事の後、蒼汰はアリアーナにお辞儀をして感謝の意を示した。アリアーナは微笑みを返し、彼女自身の感謝の意を伝えた。


月日が流れ、2か月が経った。アリアーナと蒼汰の間には、最初の緊張と警戒心がすっかりと消え、互いの存在が日常の一部になっていた。そんなある日、アリアーナが、いつもと違う表情で蒼汰に話し始めた。

「私、なんで森にいたか、話していい?」と、彼女は蒼汰に向かって言葉を探すように話した。蒼汰は少し驚いたが、アリアーナの顔に浮かんだ真剣さに、うなずいて聞くことを決めた。

彼女が口を開くと、森の中に静けさが広がった。アリアーナの瞳は遠くを見つめ、かつての記憶を辿っているようだった。「私、この森に置き去りにされたの。生け贄として。」

蒼汰の心が冷たくなるのを感じた。アリアーナが一人で生き延びてきた理由は、まさかこんな過酷なものだったとは。それでも彼女は、自分の命を守るために、孤独と戦い、森で一人で生き抜いてきたのだ。

蒼汰は、彼女の強さとこれまで感じてきた彼女の優しさに、心からの敬意を感じた。同時に、彼女が経験した苦しみに心を揺さぶられた。

森の中で一人、生け贄として放置されるという過酷な運命にもかかわらず、彼女は自然と一体になることを受け入れ、自身の命を守り続けた。しかし、その強さと前向きさに、蒼汰は何か違和感を覚えていた。


「でも、アリアーナ。それって、本当に苦しくないの?」蒼汰は彼女の表情をじっくりと観察しながら尋ねた。

アリアーナは少し驚いたように蒼汰を見つめ、微笑んだ。「うん、でも、ここは私の居場所だから。自然と一体になること、それは私の選んだ道だから。」

しかし、蒼汰の心の中には疑問が残った。彼女の言葉は確かに真実を伝えているように思えたが、その背後には何か隠された真意があるような気がした。微笑みには、自然と一体になる覚悟と共に、一縷の寂しさや苦しみも含まれているのではないか。

彼女の言葉と表情からは、それぞれの解釈が可能であり、それが蒼汰を混乱させた。しかし、彼は確信していた。彼女が抱える何かを理解し、それに対する彼自身の感情や反応を彼女に伝えることが、今、彼にできる最善の行動だと。そんな思いを胸に、蒼汰はアリアーナの手を握った。


アリアーナの透き通るような瞳の奥に見えたのは、過酷な自然の中で生き抜く決意だけでなく、不可避の死への覚悟も含まれていた。それは、彼女が自然と一体になることを選んだからだけでなく、生け贄としてこの森に放置されたという現実から生まれたものでもあった。

「死は自然の一部。生まれ、成長し、そして死んでいく。それがこの世界のルール。」彼女の声は静かだったが、その中には揺るぎない決意が込められていた。彼女の視線は遠く、星空に向かっていた。星々は彼女の言葉を静かに受け止め、やさしく光を放っていた。


蒼汰にとって、その言葉は容易に受け入れられるものではなかった。彼はアリアーナをただの友人としてだけでなく、新たな命の一部として見ていた。彼女が何を犠牲にしているのか理解した蒼汰の心は、その覚悟の重さに打ちのめされた。彼女が語る死の覚悟は、抱える痛みや恐怖を隠すためのものではなく、彼女自身が自然の一部としての役割を全うするためのものだと理解した。


蒼汰はアリアーナを見つめる。彼女の顔は初めて出会ったときよりも憔悴していた。彼女の瞳はかつての生き生きとした輝きを失い、頬は細く引き締まり、元々華奢だった身体はさらに痩せこけていた。生命力を吸い取られ、徐々に自我を失いつつあるような印象を受けた。

彼女が微笑むたびに、蒼汰の心は痛む。彼女が森の中で生き延びてきたこと、生け贄とされた事実を受け入れていたこと、それらが彼女にどれほどの影響を与えたのか、彼は初めて理解した。しかし、彼は彼女が森に取り残され、生命力を奪われていく様をただ見ているだけではいられなかった。

蒼汰はアリアーナのために何かをしなければならないと強く感じた。彼は召喚されたこの世界での自身の役割、そして彼が持つ知識を彼女のために活用することを決意した。どのようにしてこの広大な森から脱出すれば良いのか、どのようにしてアリアーナの命を救うことができるのか。


彼は森を探索し、脱出するための手がかりを見つけようとした。彼は森の地形を頭に叩き込み、動物の動きや風の流れを観察し、太陽と星の位置から方向を読み取った。森の中には危険も潜んでいることを知りつつ、蒼汰は夜を徹して探索を続けた。


ある日、蒼汰は光に包まれた小さな存在に出会った。その存在は蒼汰が森で見たことのない美しい色を放っていた。輝くような緑色の光で、まるで太陽の光が木々の間から差し込むような温かさを感じさせた。彼はすぐにそれが自然の精霊、森の精霊の一種だと理解した。

精霊は蒼汰に向かって音もなく口を動かした。言葉は出てこなかったが、蒼汰の心に直接言葉が響いてくる。彼がこれまで聞いたことのない言葉だったが、何故か意味は理解できた。「あなたの友人、アリアーナは弱っている。森から生命力を吸い取られているわけではない。彼女自身が、自分の生命力を放っているのだ。」


その言葉に蒼汰は驚いた。アリアーナが自分の生命力を放っているという意味、それはつまり、彼女自身が生きる気力を失っているということだった。しかし、なぜ彼女がそんなことを...? 蒼汰はアリアーナが森での生活に対して決して楽観的でないことを理解していたが、それでも彼女が自ら生きる気力を放っているとは思ってもみなかった。

彼は自分がアリアーナのために何をすべきか、どうすれば彼女を助けることができるのかを精霊に尋ねた。しかし、精霊はただ静かに首を振った。「それは私には教えられない。しかし、あなたが見つけるべき答えは、彼女の心の中にある。」

精霊は静かに消えていった。蒼汰はその場に立ち尽くし、精霊の言葉を何度も何度も頭の中で反芻した。アリアーナの心の中に答えがあるというなら、彼はそれを見つけ出すために、どうすればいいのだろうか。


夜が更けて、月明かりが木々を照らす中、蒼汰はアリアーナの元へと歩いて行った。彼女はいつものように小さな焚き火の前に座っていて、火の揺らぎを見つめていた。彼女の顔は、火の光に照らされて幻想的に映っていた。その表情は、静かで、しかし何かを深く考えているように見えた。

「アリアーナ、俺たちは森を出るべきだ」と蒼汰は言った。彼の声は静かだが、その決意は明らかだった。アリアーナは彼の声に驚いて、彼の方を見た。彼女の瞳には驚きと混乱が浮かんでいた。

「でも、私たちが森を出たところで、どこへ行くの?私たちはこの森以外の世界を知らないわ。」アリアーナの声は小さく、しかし彼女の言葉は蒼汰の心を突き刺した。彼女は森を出ても、自分たちには行く場所がない。しかし、彼はすぐに自分の考えを整理し、彼女に言った。「だったら、それは俺が作る。俺たちが生きられる場所を、俺が作る。」


アリアーナは驚いたように彼を見つめた。その瞳には、驚き、疑問、そして少しの期待が混ざり合っていた。彼女は蒼汰の顔をじっと見つめ、彼の言葉を理解しようとしていた。

「蒼汰、それは...どういうこと?」彼女の声は小さかったが、その声には強い意志が感じられた。蒼汰は彼女の手を取り、決意を込めて言った。「一緒に新しい世界を作ろう。あなたが安心して生きられる場所を俺たちは一緒に作る。それがこれからの目標だ。」


その夜、二人は長い時間をかけて話し合った。森を出る決意、そして新しい世界を作るための計画。それ以来、アリアーナは少しだけ顔色が良くなった。

彼らがまず考えたのは、どのようにして森を抜け出すかということだった。蒼汰は自身が過去に探索した経験から、森の地形と、どの方向に進むべきかを大まかに把握していた。また、彼は森に住む動物たちの行動パターンや、天候の変化なども考慮に入れ、可能な限り安全なルートを探そうとした。


一方、アリアーナは蒼汰の提案を静かに聞いていた。彼女は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。「ただ森を出るのでは、私たちが村の人々に見つかってしまうだろう。私たちは、彼らから隠れながら進む必要がある。」


月岡蒼汰とアリアーナの会話は深夜まで続いた。蒼汰は森の地形や生態系、天候の変動などについて語り、アリアーナに教えた。また、アリアーナは村の人々の日常やパトロールのパターン、村と森の関係性などについて蒼汰に教えた。彼らは互いの知識を共有し、それをもとに脱出計画を構築していった。

しかし、計画は容易には進まなかった。森を出るための最適なルートを見つけるのは困難だったし、村の人々から隠れつつ進むための策も簡単には思いつかなかった。その上、アリアーナの体力が限界に近づいていたことも蒼汰を心配させた。


静かな森の中、微かな光が瞬き、風がざわめくと、森の精霊が現れた。その存在は肉眼では捉えられず、しかし確かな声と気配が二人の感覚を通じて伝わってきた。

「蒼汰、アリアーナ、我の言葉を聞き入れよ。あなたたちが森を脱出するための道筋がある。」精霊の声は風に乗り、二人の耳に届いた。

「遺跡を探すがよい。」精霊は続けた。「遺跡には古代の力が秘められており、その力により、あなたたちは他の地へと転送されることができる。」

その言葉に、蒼汰とアリアーナは互いに見つめ合った。蒼汰はこの世界に飛ばされてから、自分の知識が何度も試されてきた。そして、この瞬間もまた、その知識が試される時間だと感じた。

「その遺跡の位置は?」蒼汰が素早く問い掛けた。

「それは我も正確には知らぬ。だが、森の奥深くに存在することは確かだ。」精霊の声は次第に小さくなり、やがて消えていった。


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