第5話 姉の事務所のVtuber その2
金曜日、いつものルートで姉のマンションへ向かう。連絡を入れると今回はしっかりと『オッケー』とキャラクターのスタンプで返信があった。合鍵でエントランスを通過し、部屋に入ると彼女はソファーでくつろいでいた。
「やっほ。学校お疲れ様、飲み物いる?」
「いる。お茶でお願い」
最近はだんだんと暖かい日が増えてきた。制服の上着をテーブルの椅子に掛けてソファに座る。姉は冷蔵庫の中からピッチャーを取り出して、コップにお茶を注ぐ。
「はい。麦茶」
「ありがとう」
姉はそのままストンと俺の隣に座って、何かの本を読み始めた。俺はそれがいったい何なのか気になって、表紙を見ようと少しかがむ。
「これ?気になるの?中国語の単語帳。そろそろ第二外国語のテストがあるから」
「ああ、そうなんだ。頑張ってね」
「ありがとう。頑張る」
姉の学部は国際なんとか学部だった気がする。配信で忙しい彼女は、隙間時間を縫うようにして勉強をしているのだろう。英語すらまともに話せない俺にとって、第二外国語なんて考えられない。学業と配信の両立ができている彼女は本当に凄いと思った。
麦茶を飲み干して、キッチンでコップを洗う。姉は自分がすると言ってくれたが、勉強の邪魔をするわけにはいかない。
「そういえばさ、今日、何をするのか聞いてないんだけど」
すっかりこの部屋に来る理由を聞いていないことを思い出す。姉は俺の言葉を聞いて何故か小さく深呼吸をしたように見えた。
「あのね、怒らないで聞いてほしいんだけど……」
俺は彼女がそう言いだす時は大抵ろくなことにならないことを知っている。ただ、怒ってしまうと何も始まらないので一旦黙って話を聞くというそぶりをとった。
「この前コラボ配信した永目メメちゃんっているじゃん」
「うん。知ってる」
「あの子と今日ご飯行く約束してるんだけど、優くんにもついてきて欲しいなっておもって」
「……え?」
彼女は両手の人差し指をしきりに動かしてもじもじとしている。上目遣いでこっちを見るのはとてもかわいいが、状況が呑み込めない俺はそんなことを気にする余裕はなかった。
「えっと……私が人見知りなのは知ってるよね」
「もちろん」
17年間も姉弟をしていたのだから分かる。彼女は重度の人見知りだ。だから、大学でも彼女の素性を知る者はいない。
「それでね。この前収録終わりに一緒にご飯行こってメメちゃんに誘われたんだけど、その日締め切りの大学の課題があって断っちゃって……」
「うん」
「そしたら、メメちゃん、私が人見知りなこと知ってて気を使ってくれたみたいで、弟くんも一緒にどう?って言われてね……もちろん優くんが私の仕事関係の人と会いたくないってことは知ってるんだけど。気を使ってもらったのに断るのも悪いかなって……」
俺は姉のVtuberの同業者と一度も接触したことはなかった。事務所のマネージャーは何度か顔を合わせたことがあるのだが、配信者となるとどんな人がいるか分からないし、万が一トラブルを起こして姉に迷惑をかけてはいけないと思っていたからだ。そのことは彼女によく話しているし、実際に彼女の先輩に一度誘われたことがあったが、その時は断っていた。
はあ、と思わず短いため息が漏れる。永目メメは配信ではかなりさっぱりした性格であるように思えたし、話を聞く限り日常も同じような感じなのだろう。なにより、今更弟は家に来たけど断られました、というほうがまずいのではないかと思い、俺は承諾することにした。
「事情は分かった。言っとくけど今回だけだから」
俺がそういうと姉は顔をパアッと明るくさせた。
「じゃあ、7時にT駅集合になってるから、30分の電車に乗ろう」
「制服のままでいい?」
「着替えたほうがいいんじゃないかな、予備の服一応うちにあるし着替えていこう」
姉の部屋には万が一の時のためという名目で俺の服が一応用意されているのだが、まさかこんな形で使うことになるとは思っていなかった。姉は一度会っているからいいものの、初対面の女性と会うのは妙な緊張感がある。俺は寝室に入れてもらい、そこで着替えをした。念のため、軽く髪を整え、鏡の前でチェックをしているとあっという間にマンションを出なければいけない時間になっていた。
荷物は部屋に置いて、財布と携帯だけを持って外に出た。駅は退勤中のサラリーマンや部活帰りの学生たちが多かった。金曜日ということもあって、飲みに行く人も多いのかもしれない。
ホームで電車を待っている間、俺の勉強の様子や学校のことについて色々な話をした。二人でいるときは、基本的に彼女が色々な質問をして俺が答える場合が多い。俺が姉に聞くことといえば、大学生活がどのようなものかということが多く、配信業についてはあまり聞くことはなかった。
電車の中は混んでいたので、あまり話をすることはなかった。一人分の席が空いたので、姉に座ってもらう。姉は座っている間、また単語帳を開いて勉強をしていた。俺も英語の単語帳でも持ってくればよかったなと少しだけ後悔した。
55万人もの登録者がいれば、もしかすると彼女のチャンネルを登録している人、登録していなかったとしても存在を認知している人くらいはいるかもしれない、そんなことを考えながら、俺はぼーっと椅子に座った彼女の顔を見ていた。
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