8月5日

人間死んだら海に還るのだろうか。

そんな呑気なことをふと、サイレンの音を忙しなく鳴らしながら走る箱の中で考えた。

傍らをみれば憔悴しきった祖父が腰をおって呻き声をあげている。幼い頃、私と一緒にとんぼを一生懸命走って追いかけた人だとは到底思えぬ姿だった。

隊員の人が額に汗をかき「もうすぐですからね」と祖母の名前を呼んだ時、右手で祖父の血管が浮きでたあつい手を取り、左手で祖母の身も無い骨だけになった手を取った。

その瞬間、初めて生きていて良かったと思った。


ちょうど仕事から帰った時だ、こんな夜中に祖父母の家電から着信がなって内容を聞かずとも頭が真っ白になり足が震え頭が痺れたのをはっきり覚えてる。聞きなれない声がしスリッパを履いて一目散に駆け出した。

祖父母の家へ飛び込むと布団にぐったり横たわり白くなった祖母を見た時はもうダメだと、半泣きで救急車を呼んだ。祖父が「小便で起きたら珍しくいびきをかいてないもんで揺すったら返事がない」そう言ってへたりと座り込み、少し離れたところでぼーっと見つめている。救急隊の人が来るまで必死に名前を呼んだ。涙が出そうで、しかしそんな事もしていられないので持ち物を祖父に指示するとわからないという。絶望した、あんな強かな祖父が見る影もなく家の鍵さえもわからないというのだ。いつも仕事で来ている叔父に電話して家の鍵なり保険証なり場所を聞く、そうしている内にサイレンを鳴らしながら救急隊の人が駆けつけてくれて白くなった祖母を運ぶ。まともに立てない祖父を引きずって車に乗って病院へ着き、一命を取り留めた。

「これからどうするよ」

「うーん、ずっと傍におってやりたいけど仕事がなあ」

「うちも子がいるから実家におることはできんよ」

そう頭を抱える父と叔父をみて胃がじくじくと傷んだ。幼い頃から暖かなご飯で育てられたというのに何を迷う必要があると吐き捨てたかったがぐっと唇を噛み、握りこぶしを作って掌に爪を食い込ませた。

「夜は私が家におる、それでいいやろ」

「あんたが?それは無理よ。家の鍵も分からんかった親父のことを二十歳すぎたばっかの子供に支えきれよか」

頭に血が昇るのがわかる。この頃腹が立って仕方ないとき物に当たってしまう、目の前にいる男の頬を思いっきり叩いてしまえば私がどれだけの怒りを抱えているのかわかると思うが、それこそ子供にしかすぎないのでぐっと堪えた。

「それでも誰かいないよりかはマシやと思うけど。」

「夜のバイトはどうすると、そう簡単には休めんやろ」

「いやいや休むよ、今は何よりばばの方が大切やから」

「そんなこと言ったってお前じゃなあ…」と父がぶつくさ言う中、祖父が帰ってきた。

「じじ、もう体調大丈夫?」

「すまんな、いきなりびっくりしたもんやから。ごめんなあ。迷惑かけたなあ。」

病院につき祖母が無事だと聞いた途端、安心して全身の力が抜けたのかバタリとその場に倒れ込んだのだ。お医者さんによれば軽い熱中症だという、祖母のことで精一杯で汗を大量に流している祖父に気が回らなかったことに酷く後悔した。こういう所を子供というのだと落ち込む。

「なんでよ、ほらそこ座り。ばばもよう眠ってるよ」

「親父、大丈夫か?しばらく入院になるからうちに持ち物取り帰らんと」

「母ちゃんの顔みていく、先行っといて」

ひとつ返事をし父と叔父はブツブツ言い合いながら病室を出た。

「来週から夜は私が家おるからなんも心配せんでいいよ」

「ごめんなあ、俺が不甲斐ないばっかしに。ごめんなあ」

「やめてよ、そんな何回も謝らんで。ばばちゃんと生きてるしそれだけでいいがね。ほら、顔みて行きなよ」

うん、とこくり返事をしたので祖父のしわしわした手を引いてカーテンを開けた。

電子音が、一定のリズムで心地よく鳴る。呼吸器をつけた祖母は家で見ている様子とは何ら変わりもなく今にもうちへ帰り今まで通り過ごせそうだった。

「母ちゃん、帰ったら何でも我儘聞くからよ。一緒に家帰ろうなあ」

ああダメだ。今ここで泣いたらばばはもう、じじと家へは帰られない気がする。鼻水が垂れたけどTシャツの裾でグイッと拭いて「父さんが呼んでるわ、はよ行って来ない」と明るく背中から声をかけた。

祖父はぎゅっと祖母の手を握り病室から出て行く。スリッパを引きずる音さえも老いて聞こえ、そこでポロポロ涙がでた。


心の準備というものをそれなりにしてきたつもりであった。


死んだ時のこと、死んだ後のこと、葬式のシュミレーションだとか不謹慎なことを考えた時もあった。その時は確かに大丈夫だと、悔いないよう出来ていると思えた。

それがどうだ。やせ細った祖母を目の前にし狼狽え、足の力が抜けみっともなく泣いている。こうしておけば良かった、おいなりさんの作り方教えてもらえばよかった、もっとばばのご飯食べておけばよかった、もっと笑って話しかければよかった、もっともっと。

私の覚悟は偽物だ、変わっていく祖母の姿を見て見ぬふりをし言い聞かせ心の安寧を保っていただけだ。

なんて浅ましい。

「生きちょった」

驚きベットをみると先程まで息をしていなかった祖母がゆっくり呼吸をしている。目を薄くあけてこちらを見つめ微笑んだ。

「あら、可愛い孫がおった。」

「ばば…」

慌てて滲んだ涙を拭った。精一杯笑顔を作ってぎゅっと手を握る。

「よかった。」

「ごめんねえ、ありがとうねえ」

なぜ老人は悪くもないのに謝るのだろうか、いちばん辛くて泣きたいのは自分なはずなのになぜ泣かないのだろうか。

「そうだ、元気になったらさ、ばばの好きなハイビスカス一緒に育てよっか。ね、買っておくから早く家に帰ろうね」

「ごめんねえ」

祖母は私に返事もくれず、ただ謝るばかりで横たわり手さえも握り返してくれない。

じわじわ死んでゆく人を見るのはまるで海の中にいるみたいだ。

私は冷たくぼんやりとした海の中、祖母とぷかぷか水中を浮き音のない静かな深縹色こきはなだいろをした海底を揺蕩う。

祖母が笑うと口から出た泡がパチンと弾けた。その様子を優雅に泳ぐミズクラゲが横目でちらりと見て一緒にふくふくと笑う。

太陽が海底に陽を注ぎ、私たちに光のスポットライトを当て、小魚達がぐるぐるとトンネルを作り鱗をキラキラ瞬かせた。

その中を祖母と2人、手を繋いで歩く。

海は広かった、どこまでも続いており終わりがなかった。真っ暗なその先に進むことが出来ず手を離してしまう、振り返った祖母が優しく微笑む。

「あんたなら大丈夫よ。その先にばあちゃんもおるから、安心して歩きないね。不安になったら抱きしめてあげるから、あんたは私の宝なんだから」

そう言って私の手を引き、クジラの船に乗せた。

「置いてかないで、一緒に行くの!」

「置いてかんよ、見守ってるから。あんたなら大丈夫」

駄々をこねる私にはお構い無しにクジラは泳ぐ。泳いで泳いで、私の知らないところまでぐんぐん泳いだ。

叫んでも、声が出なかった。祖母を呼ぶことはもうできなかった。

「おーい、起きない。こんなとこで寝てたら風邪ひくよ」

「うん…あれ」

「おお、ばばも顔色が良くなったが。孫がおってくれてさぞ嬉しかったんやろね」

「そうかも、しれんね」

祖母はそうだと言わんばかりにニッコリ笑っている。





(私の宝の人へ、愛をこめて)

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