ぽつり
揺蕩う
20230515
海が、すぐそこにあった。
雫がぽつり、頭のてっぺんに落ちてきて天上を仰ぐと1匹の真っ黒な魚が優雅に泳いでいる。
あーいいな、私も君みたいに泳ぎたい。ヒレをたくさん動かして、時には流れに任せゆらゆら踊りたい。
手を伸ばした時、泳いでいたその真っ黒な魚はピタリと動きをとめてごろりと横になった。
死んでしまったのだと思う。さっきまであんな自由に尾っぽを動かしていたのに死んでしまった。それでも手を引っ込めることは出来ずなんとかして手に入れようと必死に腕を伸ばす。
海の外からわっと笑い声が聞こえ我に返った。
あれここどこだっけ、焦って辺りを見渡すと狭いトイレの中にいた。
視界がぐらぐら揺れ気持ち悪くなりその場にしゃがむ。
ああそっか、今バイト中か。数ヶ月前から通いだしたスナックで絶賛お仕事中だったか。
今日は羽振りのいいお客さんがきていて、慣れないビールをたらふく飲んだところだった。
海に来てたんじゃなかったのか。
先程のことを思い出し、そんなわけないだろと可笑しくなってあははと口に出して笑ってみる。
はー可笑しい。飲みすぎた、ああ面白い。面白くて笑ってるはずなのに虚しくてさみしくて、次は涙が出てきた。
慌てて立ち上がり鏡を見る、冷静になろうと思ってぱちんと両頬を叩く。
にっこり笑って言い聞かせた。大丈夫、あなたは大丈夫だと。頬まで落ちてきたアイシャドウのきらきらひかるラメを見て見ぬふりしてトイレから出た。
それからなんとなく酔っ払いの相手をして仕事が終わる。店から出る、日中は蒸し暑かったが夜にはまだ春風が残っており心地が良かった。
気分がいい、今最高に気分がいい。さっきまでの憂鬱とした気持ちが嘘みたいだ、なんならスキップして家まで帰れそう。
そうだ、海へ行こう。
波の音が聞きたいと突然思い立ちそこら辺に止まっていたタクシーに飛び乗る。
近所の海まで行き先を伝えたら怪訝な顔をされ何度も確認されたが、何度聞かれようと間違ってませんと言い張った。
そう、間違っていない。ビールを沢山飲んで気分が良くなったからでは無い、私は海へ帰りたい。
窓を開けると潮の匂いがした。もうすぐで帰れる、ここから解放され自由になれるのだ。
目的地に着き、靴を脱いだ。浜辺までの道は舗装されていなく石がゴツゴツしてい足にくい込んだがもうそれもどうでもよかった。
木々をぬけた先に海があった。黒い生き物がザアザアと音を奏で蠢いている。
海へ踏み込む、波が私を拒むことはせず受け入れてくれる。冷たい温度が背筋まで伝って身震いした。奥を見つめると声が聞こえる、おいで、早くおいで、私を呼ぶ。
これでほんとうに、いいのかな。なんか私忘れてる気がする、大事なこと。
膝まで浸かったところでポケットに入った携帯電話がブブッと震えた。
我に返って携帯を開く、恋人からの連絡だった。
『君との会話、見返してたんだ。そしたら伝えたいことがいっぱいあって書き出してみたけど上手くまとめられなかったや。』
たまらなく愛おしくて、ふふと笑う。
『君がいるから生きようって思うことが出来てる、いつもありがとう』
息が止まる。風も波の音も私を呼ぶ声も止まった。
気が抜けてその場にへたり込む。涙が出てきて視界が揺れる。
夢を見ていた、私は死ねるのだとつい最近まで信じていた。
こんなにも愛おしくして私のことを好きだと言ってくれる奇跡のような人がいてもそんな浅はかな考えは止まらなかった。
愚かだ。愛されていることを忘れ私は海へ還ろうとしていたのだ、この人を残して。
この幸福を上回ってしまう私の衝動的な死にたいは、私ではもうどうすることも出来ない。
悔しい、悔しくてたまらない。20歳を越したというのにいつまでたっても甘えていて考えが浅はかだ。
また携帯が揺れる。恋人からの着信だ。
「もしもし」
「あ、ごめんねえ。声聞きたくなって。あ、お仕事だった?ごめんね」
「うんん、終わったところなの。だから、」
「あれ外?波の音が聞こえる、今どこ?」
「えっと、タクシーまだ捕まらなくて。周りが騒がしいからかな」
「ほんとに?無理してる、なんかあった」
不安そうな声が聞こえる。心配させてダメだなあ。
「ちょっと、苦しくなっちゃって。そしたら君から電話かかってきたから、安心しちゃった。今から帰るから起きてたら声聞かせて」
「そっか、わかった。ずっとまってるから」
深呼吸をした。
とりあえず家に帰ろう。帰ってお風呂に入って君の声を聴きながら眠りつこう。
今日あったことは夢だったと思って眠りにつこう。
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