第35話 魔女

「お気づきになられましたか?オデュッセウス様」


「ここは…。キルケー、君の船か?私はいつの間にか気を失って…」


 オデュッセウスは気を失う前の記憶を思い出す。

 パリス王子の矢による傷が思っていた以上に深く。そこからの出血により次第に意識が段々と薄れっていき、モンスター達に複雑な指令を発信する事が難しくなっていた。それにより船の制御が上手く出来なかった。しかもそんな状態の中で嵐に遭遇してしまった。


「あの吹き荒れる嵐の中、たまたま君の方の船の所まで流されたわけか。はぁ…運が良いのか、悪いのか分からないな」


 オデュッセウスはそう呟きながらゆっくりと上半身を起す。まだ体が痛む。魔女キルケーの治療は完璧ではあるもののとても万全の状態とはいえない。本当に散々な有様だ。


「察しが良く助かります。お目覚めのところ申し訳ないのですが、私に説明をして頂けませんでしょうか?孤島では一体何が起きたのでしょうか?

 オデュッセウス様がこの様な状態になるとは思いもよりませんでしたので混乱しております」


「あぁ、そうだな。正直、体は辛いが我々の現状については説明は急ぐ必要があるな。少し長くなるが落ち着いて聞いてくれ。それと水を貰えないか?喉が渇いた」


かしこまりました。用意いたします」


 オデュッセウスは水を飲んで喉の乾きを癒やし、キルケーに孤島での自身の敗北について話す。それはキルケーにとってはとても衝撃的な内容だった。普通だったら到底信じられないものではあった。

 しかし、キルケーは長年の付き合いからオデュッセウスが嘘をつくはずがないという確信があり、そして何よりもオデュッセウスの今の状態がそれが事実だという事を何よりも事実を裏付けていた。


「まさか、オデュッセウス様のヒュドラまでもが攻略されるとは。これは思っていた以上に大変な事態になっていたのですね」


「あぁ、今までヒュドラの毒を撒いていきた土地もあの精霊の炎により浄化されてしまうだろう。再びトロイ王国の侵攻が始まる。

 一刻も早く戻って体制を立て直して対応しなければ奴らに多くの龍脈を奪われてしまう。ゲッホ、ゲッホ…」


 オデュッセウスは立ち上がろうとするが咳込み。その場に膝をつく。どうやら自分が思っていた以上に重症の様だ。力が思うように入らない。


「オデュッセウス様。焦る気持ちは分かりますが、先ずは体をお休めください。

 傷もまだ完全には癒えていませんし、戦いと嵐の中の航海により魔力、身体共に大きく損なっております。とても動いて良い状態ではありません。しばらくの間は安静にしていないと」


「うるさいな!そんな事は僕自身が一番分かっている。だけど、じっとしていられる状況じゃあないだろう。

 最悪、僕らの命を賭しても奴らの船の帰還はさせてはいけない。僅かな勝算であっても再度、この海で襲撃をかけて何としてでも奴らの帰還を妨げるぞ!」


 オデュッセウスは自分自身を奮い立たせる様にそう言い放ち、何とか立ち上がる。


「はぁ…」


 キルケーは思わずため息をもらす。オデュッセウスにしては珍しく感情的ではあるが確かに合理的な判断だ。龍脈を奪われて数の有利を失うの魔王軍にとっては致命的だ。

 何としてもここでその芽を摘もうとするのは最適解とまでは言えないが、決して間違いではない。

 魔王軍全体としてならば…


冥界神の拘束具シャックル・ハデス


 突然、キルケーが小さな声で呪文を唱えた。その瞬間、何処からともなく現れた赤錆びた禍々しい金属の拘束具がオデュッセウスの体を拘束する。オデュッセウスはその場にうずくまる。その姿はまるで囚えられた罪人の様であった。


「何をするんだキルケー。ふざけている時間はないんだぞ!早く、この拘束を解除しろ!魔力を無駄に使うな」


「オデュッセウス様。悪いけど私は命をしてまで魔王軍に協力する気はないの。貴方の為に頑張ってきたけど勝算の低いのはゴメンだわ」


「何だと、君の目的は何だ。僕をどうする気だ。ここで殺すのか?それともパリス王子達にでも命乞いの為に売るのか?」


「安心して貴方の命を奪うつもりはないし、トロイ王国に降るつもりもないわ。そんなのは私の望んでいる事ではないわ。

 私の望みは貴方よ。オデュッセウス様。貴方がずっと欲しかったの」


 キルケーはオデュッセウスに不気味な程の満面の笑みを向ける。あぁ、演技ではない本心からの笑顔なんて本当に久方ぶりだ。それもそうだとうの昔に諦めていた長年の願いが叶うチャンスが来てしまったのだから。


「………」


 一方、オデュッセウスはあまりにも理解しがたいキルケーの言葉に顔をゆがめる。

 彼からして見れば一番追いつめられている時に信頼している副官から裏切られたのだ。

 怒りと混乱、様々な感情に頭を支配され言葉が出てこない。そもそも常時であったとしてもキルケーのこの狂愛とも言える感情を合理主義のオデュッセウスは理解できないだろう。


「ふふふ、頭の中が真っ白になってしまったかな?可愛いですね。機械的な考えしかできないのがオデュッセウス様の欠点ですけど、いいですよ。私はそこも含めてこれかも貴方を愛してさしあげます」


「魔王軍を裏切ってこれからどうするつもりだ。魔王アガメムノン様がトロイ王国を滅ぼしたあかつきには裏切り者として始末されるぞ!」


 ここにきてオデュッセウスはキルケーの言葉の意味は理解できないものの、このままでは不味いと感じて必死に言葉を返す。


「そうとも限らないわ。もしかしたらトロイ王国がアガメムノンを倒すかも知れないわ」


「業腹だが確かにその可能性は無いとは言えないが、トロイ王国が勝ったら勝ったで魔人である人間達に僕達は追い詰められるんだぞ。殲滅せんめつ戦が始まる可能性だってある。どちらにしろ僕達の道は途絶える事になるぞ」


勿論もちろん、理解しているわ。でもね。今、死ぬよりはマシ。今の状態でパリス王子の船を私達が生きて沈める算段は流石のオデュッセウス様でも持ち合わせていないでしょ?」


「くっ…」


 キルケーの言う通りであった。この状況で相手の船を沈めるにはモンスター達で敵の気を引き、その間に自分達の船を衝突させるのが一番、確実な方法であった。そこに自分達の生存は全く計算に入っていない。


「その反応は図星みたいね。分かりやすくって助かるわ。さっきも言ったけど私は魔王軍の為に死ぬつもりはないの。このまま貴方を連れて私の隠れ家がある島に逃げ延びるつもりよ」


「君は僕になんの恨みがあってこんな仕打ちをするんだい?」


「恨みとかは…まぁ、あるにはあるけど。オデュッセウス様を悪く扱うつもりはないわ。私は私が欲しいと思った物を手に入れたいだけ。それだけよ

 それにこのまま魔王軍とトロイ王国が激突すれば両軍共にかなり消耗するはず。上手くいけば漁夫の利を狙えると思わない?」


 このキルケーの発言は特別に楽観的な考えでもない。トロイ王国は精霊の力と召喚術を使って多くの龍脈を奪いながら進軍し、やがて魔王アガメムノンの所まで辿り着くだろう。

 アガメムノン自身は現状では動く事はできない。間違いなく、トロイ王国の大勢の兵士達と召喚されたモンスターの大群に包囲されるだろう。

 しかし、アガメムノンが完全復活の為に拠点にしている場所は龍脈の質が桁違いに高い。他の龍脈が奪われようが、そこの中心にいればそれだけで十分に戦える程にだ。それに加えてアガメムノンはオデュッセウスやアイアスを超える最強の存在である。

 この激突は避けられないものではあり、その勝敗の予想はオデュッセウスでさえ難しい。

 キルケーの言った通り、両軍共に大きな被害がでる可能性は非常に高い。


「君の企みは僕の理解を完全に超えているな。流石は魔女の中の魔女だな。悍ましさに震えが止まらないよ」


 オデュッセウスは観念し、らしくない無駄な言葉を漏らす。それに対しキルケーは


「魔女は皆こんな感じですよ。すご〜く執念深く、敵に回すととってもとっても怖いんですよ。たがら気をつけてくださいねオデュッセウス様」


 明るいがどこか恐怖を感じる口調でキルケーはそう言い返すのであった。

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