マダニャイン

作戦は道中で考えることにした。

考えてから動いたのでは全てが遅くなりそうな気がしたのである。

いかなる手段を以てしても、人間の言葉を盗み出さねばならぬ。




そもそも、看板に書かれている言葉が分かったとしてもそれは序章に過ぎないのだ。

何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。

ただ忠太は、何かがあった時のために行動するネズミだった。


翌日の夕方、いつも見ている巣穴を這いつくばうようにして巣穴を出た。

念の為自身の机には、「しばらく外出する」と誰が読むか分からないメモを残しておいた。



山の中から人間界へは、ネズミの足だと途方も無い時間がかかる距離だ。長年愛用している靴も、今日は鉛を履いているようだった。

用心棒には数十年前から伝わる爪楊枝を持った。

カビだらけのチーズが道中での唯一の楽しみだ。



あっという間に日が暮れ、街灯の無い山の中は闇に包み込まれんとしていた。

「もうこんな夜なのか...」

呟いたところで返事をしてくれる者はいない。


ただ夜空で、心配そうに輝く月光のみが忠太の足下を照らした。


山を下り、名もなき道を歩いた。


全ネズミの命がかかっているかもしれない、だなんて口に出したら嘲笑されるかもしれない。

そのやり取りに無駄な時間を食うくらいなら自分が動き出したほうが早い。

見返りなんぞいらない。今笑われようが、この小さな体とは比べ物にならない器で受け止めるのだ。


「漸く街が見えてきた」

街は夜でも街灯があるので楽に動き回ることができる。ジリジリと燃える街灯は、時に眩しかった。

今回の研究に丁度良い民家を目指して歩き続けた。なかなか自分を見つけるのに疎い者、加えて見つけたとしても驚いたり、無条件反射的に殺そうとしてきたりしない者の家に侵入するのが丁度良い。


あるパン屋からは、所狭しと並んだ焼きたてパンの香りが流れ、忠太を小麦色の空気で励まそうとした。


夜にも拘らず、電灯があることによって人々が行き交っていた。忠太はなるべく陰を歩くことにした。


「人間界の発展は留まることを知らないな」

しばらく歩くうちに首が疲れてきた。

「上の方ばかりを見てしまった」首を左右に傾けた。


少々寝ぼけてきた頃である。ある塀の前を通りかかった時。

バサッ―。

忠太は何者かによって目の前を塞がれた。


「何者?!」忠太は一瞬後ずさりしそうになった。


街灯が届いていないせいでよく見えなかったが、大きくて、恐らく黒いのだろう。

その巨体は目をギラギラさせ、ニヤリと笑って見つめてきた。

その上から目線で明らかにかぶりつく態度で、ニャアッと威嚇してきた。


...油断した。私はてっきり、殺されるとしたら人間だと思っていたが、その前に猫に食い殺されるのだ。


  頭の隅で走馬灯が走りかけた。


…こんな始まりで命が奪われるのか。私はまだ何もできていない。しかし脳からいくら足に信号を伝達しても、驚く程に動かない。

友人や生徒達、家族の顔が写真のように一枚一枚忠太の目の前を通り過ぎた。


忠太は落ち着いて、絞り出したような声で伝えた。震えを感じさせてはならない。


「私はなすべきことがあるんだ。食らうべきではないぞ」


聞こえているのかどうかは分からなかった。忠太自身、恐怖で声が出ていたかどうかも定かではなかった。

諦めて死んだふりなどはしなかった。最後まで可能性を探った。


猫は私の目をじっと見つめては、ニヤリと笑みを浮かべて口を開いた。


「お前、これまで食ってきたネズミとは違う目をしているな。食う前に少し時間をやるから、何かしゃべってみろ」


忠太は少し身を乗り出した。ここで説明しても死ぬかもしれないが、後悔などしようもない。すぐ食わないだけ、一分でも理解のある猫だ。もし仮に、口すら開かずに逃げようもんなら食い殺されるだろう

忠太は一か八か、今起こるかもしれないネズミ界の危機を早口で、しかし力強く伝えた。


話している間にかぶりつかれるのかもしれないと思いながら、声にならぬ声で訴える。

少しでも黒い巨体が動くたび、びくっと体が動いた。

しかし案に相違して、不思議にもその猫は段々とお利口そうに黙って聞いていた。


...数える暇もなかったが、数分経った頃だろうか。忠太が説明を終えると、猫は徐に口を開いた。

「...にゃるほど、ではお主はその看板を解読するために。人間界に来たわけか?」

猫はネズミ一匹入るくらいの口を開けて笑った。

「お主、この野生の世界で自分が生きるのも大変なのに、無数のネズミの命をお主の力で助けようっていうのかニャ?」


忠太は精一杯の背伸びをした。

「そ、そうだ。だから、私を食い殺してくれるなよ」

猫は、先程とは少々ニュアンスが異なる笑みをニヤリと浮かべた。

「食い殺すも何も、俺は主人に夕飯をもらったばかりで腹は減っていない。キャットフードをたらふく食べたからな」

忠太は少し肩をなでおろしながら

「キャットフードってなんだ?猫はネズミを食らうものだろ」

猫は口をむっとさせた。

「ネズミを食うなんていつの時代の話をしているんだ。人間界は発展しているんだぞ」と吐き捨てた。



「いやあしかし、勇気を持ったネズミもいるもんだ。猫でもそんな心を持った者はなかなかいやしない」

感心しつつ、マダニャインは先程とは目つきを変え、にこやかな表情で

「お主、名をなんという?」

「忠太という。お前は」

猫はまたニヤリとして

「吾輩は猫である。名前はマダニャインだ」と胸を張った。


忠太は首を傾げ、

「ん?まだないんだ?」

「いや、名前はマダニャインだ」

「...。」

「マダニャインと呼んでくれ」


(紛らわしいな…)なるべく顔を出さないようにした。食い殺されるリスクを復活させてしまう。

「仕方ないだろ、夏目漱石好きに飼われたんだから」


マダニャインは髭を撫でた。

「ところで、どうやって文字を解読するのだ」


忠太は俯いた。見切り発車である上、黒猫の一件で頭は真っ白だ。


マダニャインは、「飼い主のいる猫に見つかって良かったニャ」と前置きした上で

「吾輩の考えを教えてやろうか?お主よりも脳みそが大きいからな」と説明を始めた。

「吾輩の飼い主には小さな子どもがいてな。毎日子どもが書いた右ページに書いた日記を、お母さんが左ページに絵として描くという珍しい交換日記のようなものをしている。そこでだ、看板書かれている文字を書いておいて、次の日になって描かれた絵を見れば、その文字が何を表しているか分かるだろう」


「なるほど!猫は賢いのだな」忠太は前のめりになった。


マダニャインはまたニヤリと笑った。

「猫だからではない、吾輩だからだ。何しろ、お母さんは画家をしているらしいからな。これは期待できるぞ」

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