第12話 そつない君と姉


 頬に軽い衝撃を継続的に与えられている感触があって、意識が急浮上した。簡単に言うと、頬をペシペシと叩かれている感触で目が覚めた。


「星くん?こんなとこで寝てたら、風邪ひくよ」


「美羽姉…」


 ゆっくりと開けた目に真っ先に映し出されたのは、薄水色のパジャマ姿の美羽姉だった。


「寝てたのか…」


「風星が、お風呂上がって星くん呼びに行こうとしたら、部屋にいなかったって言ってたからここかなって。勉強してそうだから、声かけなかったらしいよ」


 はっきりしてきた意識で周りを確認すると、ループ再生でかけっぱなしのプレイリストが微かに鳴っていて、加湿器からもまだ水蒸気が吐き出されている。


「今何時…?」


「十一時半くらいかな?私も、もう寝るとこ」


 大体の予想通り、一時間半ほど寝ていたらしい。宿題は終わってなくて、まだ風呂にも入っていない。


「そういえば、美羽姉、宿題は?」


「私は、星くんが帰ってくるまでにとっくに終わらせました」


 相変わらず、美羽姉は時間の使い方に無駄がない。学校から帰ってきて、すぐに宿題をするというのは、僕には無理だ。


「疲れてる?」


「んー、そこそこ」


「嘘ばっかり。言わないだけで、何か面倒ごと背負い込んだでしょ」


「……」


「おねーさんには、誤魔化しは通じません。出会って二ヶ月やそこらのクラスメイトとは違ってね」


「はいはい、降参です。疲れてるね、かなり」


 カッコつけを諦めて、降参の意と共に、少しの弱音を吐き出すと、美羽姉は「よく出来ました」と微笑み、椅子の腕置きに軽く腰掛けた。


「…紀伊さんのこと?」


「え?なんでそれ…」


「意外と、教室の隅に一人でいると教室のことがよく見えるの。というか、気づいてない人たちがおかしいんだけどね」


「まあ、まだ関係性出来上がってない今の時点だったら、こんなもんなんじゃない」


「確かに、自分のことで必死で、周りのことまで気にかけるのは無理な段階かもね…」


 高校一年生の初頭。高校生活の今後の立ち位置を左右し、スタートダッシュに失敗すると、三年間引きずってしまうのではという、妙な緊張感のある時期。

 既にうっすらとカーストの階位が見えてきて、落ち着いてきているクラスではあるが、紀伊さんがいなくなった辺りには、他人のことまで気にしている余裕はなかったのだろう。


「その点、友達作りもカーストも全く気にしない私は!周りを見る余裕があったのでね!」


「誇らないでよ…その負担誰にきてると思ってんのさ…」


「やっぱり、紀伊さんのことに首突っ込んでるの、日高先生に何か言われたんだ」


「そのとーり。あのスパルタ教師め…」


 口ではこう言っているが、あの人にはかなり感謝している。あの人が碧海高校に存在していなければ、俺と美羽姉が同じクラスに居て、こうして宿題の話などできなかっただろうから。


「…ごめんね、星くん」


 美羽姉は夕食の時と同じ顔で、同じ言葉を言った。謝らせるのが嫌で、少しでも罪悪感を美羽姉の日々に抱えさせられるのが嫌で、疲れを見せないようにしたかったのに。ああ、鼓星。寝てしまうとは情けない。


「謝らないでよ」


「でもさ、結局星くんが無理してるのは、大体全部私のせいだから」


「違うよ、違う。美羽姉が笑ってて欲しいのは、学校に来て欲しいっていうのは、あの日からずっと俺のわがままなんだ。だから、俺は自分のわがままを押し通してるだけなんだ」


 在りし日を思い出す。あの冬の日。俺は志望校を碧海高校に変え、中学から長かった髪を切った。笑顔の練習をした。

 

 全部、学校に行けなくなった美羽姉を連れ出すためだった。 


 俺は、変わってしまった美羽姉に元に戻って欲しかったわけじゃない。黒く長い髪が、白く短くなっても関係なかった。ただ、少しでも日常を与えてあげたかった。美羽姉は学校が好きで、そこに通う十六歳の日常を、自ら手放したわけじゃないと知っていたから。


「優しいね、星くん。ずっと」


 そう言って、美羽姉は乱れた俺の前髪に、手櫛で梳くように、そっと触れた。俺は、何も言わずにそれを許し続けた。


「おやすみ。疲れてるなら、宿題写してもいいよ。リビングに置いたままだから」


 どれだけそうしていたのか、机上の加湿器が息を引き取る微かな異音を合図に、美羽姉は去っていった。階段を登る音がする。


 一人になり、呼吸音がかき消されるくらいの小さな音だけが流れる部屋で考える。ずっととは、いつからのことだったのだろうか。

 それすらわからないほど、俺たちが共に過ごした時間は長かった。とても、長かった。


 耳には、ずっとSEKAI NO OWARIの『眠り姫』が残っていた。


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湿度が高いのは加湿器のせいだし、SEKAI NO OWARIは作者が大好きなだけです。

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