第5話 そつない君と保健室
「ちょっと、養護教諭と話つけてくるから待ってろ」
そう言って、一人だけ先に保健室の中に入っていった日高先生を見送ると、人気のない廊下で、新宮蛍と二人きりになる。
彼女は壁に背を預けて腕を組むと、瞑想でもするように目を瞑る。当然のように会話する意思はないようで、俺は一つため息を吐くとスマホを取り出し、妹に少し帰宅が遅れるかもしれない旨を送る。
二つ下の妹はバレーボール部なのだが、今日は練習が休みで家でダラダラするといっていたはずなので、念の為だ。
程ないうちに、送ったメッセージには既読がつき『OK』と書かれた無料スタンプが送られてくる。今日の料理当番は俺なので、できるだけ早いうちに帰らないと、我が家の成長期たちが文句を言ってくるに違いない。
とても顔見知り二人がいる空間とは思えない沈黙の最中、扉の向こうからかすかな声だけが聞こえる。話がついたのか、声が途絶えるとすぐ扉が開いて、日高先生が俺たち二人に手招きする。
保健室特有の、決して好ましくない消毒液の匂いが鼻に充満して、顔をしかめる。高校に入学してから初めて入る保健室は思ったよりも広く、思わず周りを見渡してしまう。
そこで目についたのが、一台だけカーテンで覆われ、完全に外界と隔絶されたベッドが存在することだった。恐らく、あの中に紀伊薫がいるのだろう。
日高先生はカーテンに近づくと「紀伊。さっき話した二人を連れてきた。入るぞ」と言ってこちらに視線を向けてから、カーテンの向こうに消えた。
どうやら、入って来いということらしい。
「紀伊さん、入るよ」
一応一声かけてから、カーテンを少し開いて中に入る。後ろから「失礼するわ」という声が続く。
保健室らしい真っ白な清潔なベッドの上に、二週間ぶりに見る紀伊薫はいた。
「久しぶりだね。紀伊さん」
久しぶりという程でもないかもしれないが、心の隅でも気にかけていたせいか、随分久しく感じる。紀伊さんの目を見据えると、彼女は力なく笑って「久しぶり」と言った。
目の下には薄くはない隈があり、艶やかだった少し茶色気味のボブカットの髪も、心なしか手入れが行き届いていないようだった。
「ごめんね、わざわざ。宇久井君にまで、迷惑かけちゃって」
「いいんだよ。あのままじゃ後味悪かったって思う部分もあるし。そつない君らしく、紀伊さんのことも何とかするさ」
俺が、紀伊さんにできるだけ負い目を感じさせないようにそう言うと、背後から疑問符を乗せた声が聞こえる。
「そつないくん?」
声の主は言わずもがな新宮蛍で。今、そこ聞く必要あるか?という単語がどうやら気になったようである。
「そつないくん?って?」
繰り返し詰問してくる声に「俺のあだ名だよ」と雑に返すと「宇久井鼓星のどこに、そつないの要素が…?」と、なんだかアナグラムを探し始めた女に、なんだか期せずとして張り詰めていた空気が少し緩む。
「紹介が遅れたな。こっちのが、新宮蛍。知ってるかもしれないけど」
「どうも、新宮蛍です。挨拶は必要ないかもしれないけれど」
腕を組み、変わらぬトーンでそう宣う新宮蛍に『本当に誰相手でもスタンス崩さねえな』ともはや感心していると、やはり記憶にあるものよりは力はないものの、穏やかな微笑みで、紀伊さんは「初めまして」と言った。
なんなんだろうな、ツンケンオーラの代表と、ほんわりオーラの代表格の組み合わせは。どっちかっていうと、後者の空間に居たいなあ…
「それで、さっそく本題に入るけれど、私たちは、あなたが教室に戻る手伝いをするわ」
「…うん。ありがとう」
「紀伊さん、そこで一つ俺から尋ねたいことがあるんだ」
「…なに?」
「紀伊さんはさ、どういう形で教室に戻りたいの?」
俺の質問の意図がどうやら十全に伝わらなかったらしく、紀伊さんと新宮は首を捻る。それを見て、俺は補足するように言葉を続ける。
「元のグループに戻って、前と全く同じように過ごしたいのか、それとも新たな形で教室に戻りたいのか、はたまた教室に戻れるなら何でも良いのか。それによって俺たちがすることって、結構変わってくると思うんだ」
「それってそんなに大事なことかしら?紀伊さんを晒し者にする人間がいるグループなんかには戻らない方がいいと思うけれど」
「それはお前みたいな強いやつのセリフだよ新宮。本人にとっては、そんな息苦しい場所でも、失いたくない場所だったりするんだ」
どこへ行っても自分のやり方で呼吸ができるお前には分からない。心の中でそう毒づく。容姿、学力、正義。全てを持ち合わせ、突かれる所がほとんどない新宮にはきっと分からないのだ。
「どう?紀伊さん」
俺が再度尋ねると、紀伊さんは小さな声で「こうなる以前と、できるだけ同じ形で戻りたい」と溢した。
「わかった。じゃあ、少し時間が欲しい。正直なところ、まだ何も具体的なことを考えてない」
「ううん、急な話だと思うから。私も、もう少し時間がかかるのは覚悟の上だよ」
そう言って気を遣うように精一杯に笑顔を作る紀伊さんに、どこか胸がざわつく思いがある。
大丈夫なのだろうか。この優しさは、上手く紀伊さんが教室に戻ったとして、時間が経つにつれ、損なわれはしないだろうか。空虚なものに変わってはいかないのだろうか。
自分に合ってない水の中で過ごす生物は、早晩命を落とすか、その水に慣れるために別の生物へと変化していくしか道は無いのだから。
「あら、あなたが何も思いついてないなら、私が案を出してもいいのかしら?」
「は?」
「もう、一つ提案することが思いついたと言っているの」
「教室に戻るためのか?」
「といっても、その足がかりになるかもという程度だけれど、やってみて損は無いでしょう?」
新宮は俺と紀伊さんの目を見ながら「明日、もう一度この時間に集まれるかしら?」と問う。
紀伊さんがコクコクと頷いたのを見ると、新宮は早速踵を返し「じゃあ、今日は失礼するわ」と保健室を後にする。拒否権がないのを分かっているから、俺には一瞥もくれずに。
「宇久井くんも、今日はもう帰りなよ。私も、そろそろお母さんが迎えに来るから」
「あ、ああ。また明日」
「うん、また明日」
保健室に広がる一面の白を焼く夕日と紀伊さんに見送られて、俺は保健室を後にした。
教室に戻り、鞄を確保すると靴箱へ向かう。いつもよりちょうど一時間ほど遅い帰り道。スマホを見ると、修介と創がカラオケで楽しんでいる画像が送られてきていた。時間を思えば合流出来なくもないが、今日は色々な意味で疲れた。慣れてきたフリック入力で『行けなくて残念、また誘ってくれよ!』と、文字ですら擬態した俺を乗せた。それに違和感を覚えなくなる日も、来るのだろうか。
俺の大切な人に限界が来たように、俺にも限界が来るのだろうか。
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