第2話

 月日はさらに流れ、人間は神が予期した以上の力を持つようになった。そして自惚れによって人々は自他の間に新たな線を引き、神の名は時として傲慢の象徴のように人々の口から飛び出した。そんな中、マンセマは悪事の火種を大人小人を問わずばら撒き、カミエルが激昂して彼を問い詰めるのを待つ日々を終わらせようとはしなかった。騒乱の種が昔よりも増えている今、個々につけ入るのも簡単になっていたのだ。

 カミエルはカミエルでマンセマが起こさせる大小の騒乱を追い続けた。しかし、はっきり言って埒が明かない上に、どれだけ追い詰めてもいつも最後は逃げられてしまう。そこである時、カミエルは柄にもなく一計を講じてマンセマを監視下に置くことに成功した――とある戦乱のただ中にマンセマがいて、あることないことを吹聴していることを突き止めたカミエルは、人海に紛れてマンセマの脚を例の剣で斬りつけたのだ。苦痛に泣き叫び、文句と悪態を吐き続けるマンセマを、カミエルは郊外の小屋に連れ帰って看病した。しかし、計画通りにマンセマを手に入れたというのに心は少しも晴れない。あっちに行け、俺に構うな、お前も能天使の一人なら今すぐ俺を天国に突き出せ――マンセマがどこか達観した顔で正論を吐くたびに、カミエルは手負いの悪魔に天誅を下すのは早急だ、などとあまり理屈の通っていない言葉を返した。そもそも彼が自分を傷つけようとしたことがあっただろうか? さらに悪いことに、天国の剣で付けられた傷を癒す力を彼は持ち合わせてはいなかった。ましてや相手は悪魔だ――彼にとって悪魔とは排除すべき敵でしかなかった。なのにこれは一体どういう風の吹き回しなのだろう? これでは地獄も同然だと思いながらも、カミエルは痛みのせいでろくに歩けなくなったマンセマの手を取り続けることしかできなかった。この期に及んでもなお、彼は痛みに苦しむマンセマを助けてやりたいと思ってしまったのだ。

 一方のマンセマは、カミエルが憎しみの目で見てくれなくなったことが不満で仕方なかった。それに比べれば脚の痛みなど、ろくに歩けないことなどなんでもなかった。彼はカミエルと一緒にいたいわけではないし、カミエルに何か負い目があるわけでもない。事実、彼に斬られたときには素直にやりすぎだったと思ったほどだ。これで天誅が下るなら仕方がないと、マンセマは受け入れる心づもりでいた。それなのに、あろうことか憐みの目で自分を見てくるカミエルに甲斐甲斐しく面倒を見られながらの軟禁生活を強いられている。マンセマにとってもこれは地獄だった。今までは地獄に落ちろと罵られる(もちろん彼が地獄から来た悪魔だなどとは露も知らない人間にだが)たびに地獄がなんだと笑い返していた彼だったが、今それを言われたら十中八九言い返すことができないだろう。

 要するに、カミエルもマンセマも、二人して煉獄の炎に焼かれるがごとくに思っていたのである。そして先に根を上げたのはマンセマだった――ある夜、彼はカミエルが見ていない隙を狙って窓から逃げ出したのだ。



 窓から転げ落ちるくらいは痛くも痒くもないが、天使の剣で斬られた傷だけはいつまで経ってもしつこく、そしてひどく痛む。数歩行くごとに倒れ込み、全身汗だくになりながらまた立ち上がって進もうとするマンセマはあっさり人間たちに囲まれてしまった。小屋に籠っている間にまた年月が過ぎたのか、人々の装いは彼が見たことのないものに変わっている――そもそもカミエルが人の住んでいる場所に彼を閉じ込めていたのが意外だった。四方八方から差し伸べられる手を跳ねのけながらマンセマは一歩、また一歩と進んでいたが、ついに道に倒れ込んだきり一歩も動けなくなってしまった。

 どこからか耳慣れない音が聞こえる。人垣の誰かが「キュウキュウシャ」なるものを呼んだらしい。現れた見慣れない乗り物に担ぎ込まれたマンセマは、なるほど人が人を救える時代になったのかと一人感心しながら目を閉じた。人の力ではどうしようもない痛みや病を悪魔や罪のせいにしたり、神に救済を求めたりする時代はもう終わったらしい。

 そして面白いことに、人間の編み出した救済は悪魔の体にも効くらしかった。病室に入れられ、痛みを取る薬に管で繋がれたマンセマは思わず笑みをもらした。寝ても覚めても火を入れられたように痛んで仕方なかった脚が嘘のように静かだ。その実、カミエルが病院に来たときに彼が真っ先に思ったことはそれだった――畜生、カミエルの小屋にはこの救世主はいないじゃねえか、と。

「マンセマ」

 カミエルが口を開いた。その声には少しばかりの怒りが含まれている。

 マンセマは「ハッ」と笑って言い返した。

「怒ってるのか? カミエル」

「そうだ。外に行きたいなら言ってくれればよかったのに」

 心配で仕方がなかったなどとは言えず、カミエルはとりあえずの嘘をついた。その声には、かつて無実の罪で処刑される女たちを見て見ぬふりをしていた頃とは打って変わって迷いがない。

「マンセマ、私にしてほしいことがあるなら何でも言ってくれ。君をこうしたのは私なのだから、君にはその権利がある……私は、君に償いをしなければならないから」

 なるほどこれが彼の本心かとマンセマは思った。つくづくカミエルはお人好しだ――いつでも本懐を果たせただろうに、カミエルはそれをせずにマンセマの苦痛にずっと寄り添っていたのである。いや、寄り添おうとしていたというべきか。どちらにせよマンセマにとって、カミエルに憎まれることもなくただただ世話を焼かれているのは地獄の苦しみと同義だった。そもそも自分は、カミエルに天誅を下されるはずだったのだ。それがあったからこそカミエルを幾度となく挑発し、わざと怒らせてきたのである。

「なあ、カミエル」

 マンセマは少し考えてから口を開いた。

「もう終わりにしようぜ。お前の剣で俺を殺してくれよ」

 その瞬間、カミエルが愕然とマンセマを見つめた。マンセマの方が驚くほどに、彼はこの言葉に衝撃を受けたらしい。

「それはできない。私が邪なことを考えたせいでこうなったから、私は責務を果たさなければいけない――君を手負いにすれば悪事をしないようにできるかと思って、だから騙し討ちのような真似をしたのだ。結局は私に君を消すことはできないから、だから……」

 カミエルの言葉は先細りになって消えていき、彼は金の巻き毛で顔を隠すように俯いた。マンセマが見ているとその肩が震えだし、膝の上で握りしめた両の拳にぽたぽたと水滴が落ちる。

「……けどよお。今みたいなのはほんっと地獄だぜ。せめてそれだけでも終わりにしてくれよ」

 マンセマが言うと、「何を言う」とカミエルが言い返してきた。碧眼から涙が溢れて美しい顔を汚しているが、それでも言い争う気が失せたわけではないらしい。

「真の地獄を知る君が、今の暮らしを『地獄』と言うのか?」

「言うね。いくらでも言ってやるよ。毎日毎日寝ても覚めてもうじうじしてるお前しか見れないなんて、俺にとっちゃ地獄以外の何物でもない。しかもそんなお前とずっと二人きりなんてたまんねえよ。こんなんだったら今すぐ天誅でもなんでも下った方が何倍もマシだね」

 マンセマはそう言うと目をぐるりと回してみせた。カミエルは鼻をすすりながら続く言葉をじっと待っている。

「俺はなあ、お前が俺を睨むのが好きだったんだよ。だからあれこれ手を回してたってのにお前ときたら」

「それは……すまなかった」

 カミエルはぽかんとしたまま謝った。相変わらずマンセマの考えていることが分からない様子だ。

「だが天誅は無理だ。私はどうすれば」

「さあな。まともに同棲でもしてみるか?」

 マンセマは頭の後ろで手を組んだ。しかし、適当に言った一言がカミエルの顔を晴れさせた。

 カミエルは何かが腑に落ちたように目を瞬くと、突然マンセマの枕元に歩み寄ってその美しい顔を寄せてきた。

「天誅は無理だが、祝福なら与えられる。君が受け入れてくれるなら、私の祝福を和解の証としてほしい」

「しゅ……祝福って、何するんだよ⁉」

 固まったマンセマにカミエルは答えなかったが、代わりに、その額に口付けを落とした。


 何か変わったことが起きるわけでもなく、しかし何も変わらなかったわけではなかった。

 マンセマはカミエルの顔に触れると、自らの唇へと引き寄せた。そして思った――天にも昇る心地というのは、きっとこういう思いを言うのだろうと。

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Heaven, O Heaven 故水小辰 @kotako

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