Heaven, O Heaven

故水小辰

第1話

「君が噂の悪魔か」

 透き通るようで重い、男とも女ともつかない声。言われた方はというと、耳に心地よく、それでいて脅しのような険しさをも孕んだその声の主を見上げて「げっ」と一言顔をしかめた。

「なんだよ。お前誰だよ」

「聞くまでもなく分かっているのでは?」

 漆喰よりも白い肌、蒼天よりも青い瞳、黄金よりも美しく輝く金色の巻毛。ふわりと揺れる膝丈のローブこそありふれたローマの装いだが、それ以外は天からの贈り物としか評しようのない美男子が、一体どこから取り出したのか、眩いばかりに威光を放つ長剣を目の前の壁にもたれて座っている青年にまっすぐ突きつけている。見目麗しくないと言えば嘘になる程度には己の顔立ちに自信を持っていた青年も、この美男子を前にしてはおいそれとそれを自慢できないと感じてしまうほどにこの男は美しい——どこからどう見ても万事休すだというのに、青年はそんなことをぼんやりと考えていた。

「君は皇帝の心に取り入って我が神の民に害を与えた。私は君という悪を取り除くためにあめより遣わされた者、君に下された天誅だ」

 青い目が青年を真っ直ぐ睨めつける。それはまるで射抜かれているような——自身に惜しみなく向けられる憎しみと怒りは、目の前の獲物に全神経を傾けている狩人の視線のようだ。青年は今までにないほど気分が高揚するのを全身で感じていた。この目を己から逸らせないためなら何でもしてやろうと、そう心に決めるほどにはこの美しい男が気に入っていた。

「……なぜ笑っている」

 興奮が顔に出ていたのだろう、自らを天使と称した美男子が怪訝そうに首を傾げる。見抜かれたのならと青年は声を上げて笑った。

「そりゃ愉しいからだよ。愉しいのに笑うなってのか?」

 美しい眉間にますますしわが寄るのを見て青年はもう一度「ハッ」と笑い声を上げる。天使は警戒を強めるように長剣を握り直し、今度は喉元ぎりぎりまでほうを近づけた。

「へえ。やるなあんた。さすが天使ってのはおっかねえんだな、友達ダチに聞いたとおりだぜ」

 ひやりと冷たい殺気も喉に集まる緊張も、青年にはもうどうということはない。この美男が天使であるように、この青年も悪魔と呼ばれる存在だった——こと話術に長けている彼に興味を示したが最後、話をさせればさせるほど相手は疑心暗鬼に飲み込まれていく。そして天使もまた、知らず知らずのうちに彼の罠にかかっていた。とはいえ悪魔はそのつもりで笑ったわけではなかったのだが、それでも死——天使や悪魔の場合は存在の永遠の消滅と同義だが——を前にしてもなお笑う彼に興味を持ってしまったが最後、天使はこの蜘蛛の巣に囚われてしまったのだ。虚勢こそ張ることはできても、もう彼に天誅を下すことはできないだろう。

 案の定、天使は剣を握ったまま一向に悪魔を貫こうとしない。にわかに生じた疑問がその手を止めさせ、どうにも動けなくさせていた。一方の悪魔とはいうと、今やすっかり困り眉の天使を堂々と鼻で笑った。唐突に危機が去ったのみならず、彼がこれまで誑かしてきた大勢と全く同じ反応をこの天使が示したからだ。となれば、思いがけず手中に落ちてきた獲物をどうするか——悪魔は唇をめくり上げると、天使に名はあるかと尋ねた。

「あるに決まっている。我が名はカミエル、神の名を穢す者に天誅を与える者だ」

「そうかい。でもカミエル、お前、もう俺を刺せないよなあ? だってその気ならグダグダ話し込まずにとっととやることやってるはずだもんなあ。認めろよ、否定しようたってその顔じゃ説得力がまるでないぜ」

 見透かしたように言えば、カミエルは今更のように歯を食いしばる。それでも鋒がぶれることはないあたり、さすが悪魔と戦う天の戦士というだけあるが。

 そしてカミエルは、自分に覚悟を決めさせるかのように鋒を悪魔の首に触れさせた。聖なる刃が皮膚を裂き、一筋の鮮血が流れ出すとともに肉が焦げたような臭気が漂い始める。

「ははっ、ようやくその気になったか。ならさっさとやれよ。ちなみに俺はマンセマってんだ、天国に帰ったらお前の首領とおやっさんに伝えてくれよな」

 虫に刺されたような傷でも、剣が天の威光をまとっている限り悪魔の体には耐えられないほどの苦痛が走る。その例にもれず、マンセマは今すぐ叫びだしたいほどの痛みを必死で堪えていた。笑みを貼りつけていようにも顔が震え、冷や汗があとからあとから目に入ってくる。もし剣を持っているのがマンセマだったら歓喜して相手を煽り、より一層の追い打ちをかけて苦痛を倍増させようとしているところだが、カミエルがそこまでの残酷さを持ち合わせているはずもない。カミエルは余計に困惑したように目を泳がせると、ついに剣を下げてしまった。

 解放されたマンセマは転がるようにカミエルから遠ざかり、喉をさすりながら思いきり咳き込んだ。今まで経験したことがないほどに体が震えて立っていられない。四つん這いにすらなれず、マンセマは地面に丸くなったまま、荒い呼吸と黒い巻き毛の間から呆然と立ちすくむカミエルを一瞥した。

「お前……ッ、お前、なんでやめたんだよ、」

 文句のように言ったマンセマに、カミエルは答えることができない。カミエルは首を傾げると、「分からない」とマンセマよりも震えて弱々しい声で言った。

「だが、お前には天誅を下す。それが私に与えられた使命だから」

「お前、とんだお人好しだな。悪魔でも苦しんでりゃ見逃してやるってか? まったく天誅が聞いて呆れるぜ。お前、そんなんでどうやって俺を倒すんだよ」

 口が回り始めると、マンセマは次第に調子を取り戻していった。ようやく動きを再開した脳裏に新たな思いつきが浮かび、マンセマは満足げにほくそ笑む。

「なぜ笑う。なぜそうやって、全く面白くない場面でお前は笑うのだ?」

 カミエルの口調には心底分からないという思いがにじみ出ている。マンセマは笑いながらかぶりを振ると、冷や汗で貼りついた前髪をかき上げてカミエルを真っ向から見据えた。

「お前にとっては面白くなくとも俺にとっては面白いんだよ。どうだ、俺と勝負しないか? 俺は今日限りでローマから手を引くが、代わりの場所で新しい奴を見つけてお前の民を苦しませる。俺が世界中の人間をたぶらかすか、お前がそれより先に俺に天誅とやらを下すか、どっちが早いか勝負しようぜ」

 カミエルは一瞬目を丸くしたが、やがて意を決したように頷いた。

「良いだろう。必ずやお前に神の力を思い知らせてやる」

「そうなればいいがな。さ、これで話もまとまったし、用がないならもう行け。また違う場所で会おうぜ」

 そう告げると、マンセマはようやく言うことを聞いた足で立ち上がってひらりと手を振った。



 しかし、善悪というものは常に一方がもう一方の影であるかのように付きまとい、コインの面のように切り離すことができない。マンセマの提案は終わりのないいたちごっこに過ぎず、カミエルがそのことに気付いたのは何度目かの再会のとき、魔女狩りの現場でマンセマと出会ったときだった。

 そもそも魔女狩りの現場にカミエルが赴いたのは、敬虔な信者だったはずの女が火炙りにされると聞きつけたからだった。村の広場に引き出され、丸太に括り付けられて次々と足元に粗朶を積まれる彼女を遠巻きに眺めていたのが粗末なシャツと皮のズボンという出で立ちのマンセマだったのだ。

 カミエルはついに火をつけられた女を救い出し、怒りのあまり天使の格好に戻ってこの茶番を始めたのは誰だと問い詰めた。すっかり委縮した村人たちは、人だかりの外にいるマンセマが首謀者だと藁にでも縋るように訴えかけたのだ。もちろんマンセマは人間の名を名乗っていたが、そんなことを気にするカミエルではない。

「マンセマ!」

 カミエルは一言叫ぶと同時に眩い光の塊となって空に飛びあがった。台地を揺るがす怒声に村人たちは一斉にその場に這いつくばったが、建物にもたれかかったまま唯一立っていたマンセマはというと、彼が初めて見せた本当の姿に完全に見入っていた。

 村人たちに見えていたのは太陽よりも明るい光の塊だけだったが、その中にいるカミエルは強烈な憎悪でもってマンセマを睨んでいた。ぴかぴかの鎧にむき出しのすねを覆う編み上げの靴、冷たい金属の肩に落ちる黄金色の巻き毛。その手に握られた長剣こそは、会遇のときにマンセマの喉元に突き付けられていたものに他ならない。

 それは美しく、また冷徹で、マンセマに全てを忘れさせた。彼を付きまとわせるためにわざと各地を転々として大人から小人までをたぶらかしてきたというのに、そのことさえもがどうでもよく感じられる。会遇のときよりも存在が脅かされているというのにそれすらも気にならなかった。

「貴様、神の民を愚弄して神の民を殺させるとは一体どういう了見だ? それほどまでに我が神の怒りを買いたいか!」

「違う。俺が買いたいのはお前の怒りだ」

 惚けたように答えたマンセマに、カミエルの目線がさらに険しくなる。マンセマはその様子を軽く笑うと、得意の弁舌を繰り出した。

「それにカミエルよお、お前、神の民が好き勝手無実の人間を殺してるのは無視してきたくせに、それがお仲間に向いたら途端に怒り出すってか? こいつらが今までに何人殺してきたと思ってるんだ? 俺がこいつらに手を出したのはな、こいつらが俺抜きでも平然とあんたの親父さんに逆らうからだ。その証拠に、こいつら、ちょっとていの良いことを言ってやったらすぐに殺気だって教会に踏み込んであの女を縛り上げたぜ。神父さえも俺が言ったことを全部真に受けてさ、ざまあないね」

「貴様、言わせておけば……!」

 カミエルは歯の間から唸ると、マンセマめがけて一直線に降りてきた。轟音に悲鳴が上がり、しかしカミエルはマンセマの喉に剣を突き付けたまま貫くことができずにいる。

「どうする、能天使さんよお? 天誅とやらを下して神への反逆を扇動した悪魔を消し去るか? それとも普段から神の掟を無視してる不届き者どもを残らず罰するか?」

「……だが、彼らが火炙りの刑に処したのはどれも異教の女たちだろう。父なる神に従わない者に相応の罰を与えたのだから、彼らは務めを果たしている」

「本気かよ? ならなんでそんなに声が揺れてるんだ?」

 マンセマに言われてカミエルはぐっと言葉に詰まった。そうでなくてもマンセマの方が弁が立つ。その上カミエルは悪魔でさえも苦しむところを見ていられないのだ。マンセマを追いかける中、あらぬ罪状で処刑されていく「魔女たち」に心を痛めていたであろうことは容易に想像がついた――それこそ今回の「魔女」のように、火の中に飛び込んででも助けてやろうと思っていたはずだ。

「まあ、俺もあの女が本気であのまま殺されるとは思ってなかったけどな。こいつらを利用してお前を呼ぶにはちょうど良かったから使っただけだ」

 マンセマはそう言うと、唐突に息を止めて喉元に突き付けられた剣を腕で払いのけた。剣は思いのほかあっさりと向きを変え、マンセマは痛みに顔をしかめながらその腕を振っている。

「いってえ、やっぱりその剣痛えわ。けど、お前のその顔が見れたから俺はもう行くよ。じゃあな」

 マンセマはそう言い残すとさっさと踵を返した。村から大分離れた森に入ってから、彼は大きく息を吐いてふらふらと座り込んだ――あの威光、あの美しさが目の奥に焼き付いて離れない。事実、天から引きずり降ろしてやりたいほどに彼はカミエルに入れ込んでいた。あれはまさしく天からの賜物だった。それもマンセマという一人の悪魔にのみ見ることが許された特別な宝だ。しかし、マンセマは彼が地上で自分と同じように民草に紛れているところは見たくなかった。無論、マンセマの悪事を突き止めるために民の間に降りていることはあるだろうが、そのためにあくせく走り回っているとは思いたくなかったのだ。

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