雨の降る母の日
増田朋美
雨の降る母の日
その日は雨がよく降って、なんでこんなに雨が振るんだろうかと思われるほど雨が降っていた。それでは出かけようにも出かけられず、家の中にずっといる人も多いのだろうが、小さな子供を持つ家庭の人は、子供がそれだけでは満足しないだろうなと思われた。雨が降っていようとなんであろうと、子供は外に行きたがるものだから。男の子でも女の子でも、子を持つ母というものは苦労が耐えないものだ。
その日も澤村禎子は、一生懸命自宅内でバイオリンの練習をしていた。いきなり隣の部屋のおばさんが、禎子の部屋のドアを叩いて、
「澤村さん、澤村さん!赤ちゃん泣いてるよ!」
と、声を荒らげて言うものだから、禎子はやっと赤ん坊の太くんが泣いているのに気がついたのだった。
「あ、ああ、ごめんなさい。」
禎子はそう言ってすぐにテーブルの上で寝かせていた太くんのところへ駆け寄った。
「ごめんなさいじゃないわよ。澤村さん、赤ちゃんいつまでもなかしてないで、早くミルクを作って上げるなり、おむつを変えて上げるなり。してあげなさいよ。」
隣のおばさんに言われて、禎子はすぐにミルクを作り始めた。これを見ていた隣のおばさんは、
「全くね、そんなんじゃ、バイオリニストとしてはすごいのかもしれないけど、母親としては全然だめね。もうちょっとさあ、母親として自覚を持ちなさいよ。そんな人が自己満足で親になろうだなんて、馬鹿なことを考えるから、日本も進化しないんだわ。」
と、禎子に言った。そのセリフには、たしかに禎子もちょっとむきになったと思ったけど、でも隣のおばさんの言うとおりだと思ったので、彼女は反論できなかった。
「ごめんなさい。」
禎子は、太くんにミルクを飲ませながら、申し訳無さそうに言った。
「ごめんなさいは、私に言うもんじゃないわ。そこに居る赤ちゃんに謝りなさい。そして、二度とこんな事をしないように気をつける。わかった?澤村さん!」
隣のおばさんは禎子に嫌そうな顔をして言った。
「まあ、こんなことで今回は気がついてくれたから良かったようなもので、今回は通報しないけどさ、今度そういう事したら、警察呼びますからね。それも覚悟しといてよ。呼んだらどっちが困るか、楽しみだわ。」
隣のおばさんに言われて禎子は申し訳ありません問tぅた。隣のおばさんは、そんな禎子を、困った人というより呆れた顔で見た。
多分隣のおばさんが指摘してくれたことは、間違いではないと思う。でも禎子は、何故かいい気持ちにはなれなかった。太くんの事は、たしかに自分の不注意だったかもしれないが、でも他人の子供のことでどうのと言われてしまうのは、なにか嫌な気持ちにさせられてしまうものだ。
しかし、それでもバイオリニストの仕事はしなければならなかった。禎子は、その日、アマチュアオーケストラと協演する仕事があった。太くんを部屋の中に置きっぱなしにして、オーケストラの演奏が行われるコンサートホールに言った。その時の曲は、ブラームスのバイオリン協奏曲である。これを禎子は、ソリストとして演奏することになっていた。バイオリンが華やかにソロを彩る名曲。これを弾きこなすのは、昔は大変だったけれど、現在はなんてことなく弾ける。もちろん、人前で弾くのになれてしまったということであるが、禎子は、そうなるためには明らかに苦労をしてきたと自分では思っていた。他の人から見たら大したこと無いのかもしれないけれど。
演奏が終わって、オーケストラのメンバーさんたちから、澤村先生すごいですね、とか、次もよろしくお願いしますねとか、そういう声がかかる。そういう声がかかるのを見て、禎子は自分のしていることは間違いではないと思うのであった。
その日、演奏が終わって、禎子は自宅へ帰ろうと、終電近い駅へ向かってあるき出した。その時、スマートフォンがなった。誰からだろうと思ったら、また隣のおばさんからであった。
「はいはい。もしもし。」
禎子が電話に出ると、
「澤村さん!何をしているの!早く帰ってきなさいよ!赤ちゃんがね、テーブルから落ちたのよ!」
隣のおばさんはえらく怒っていた。
「それで太は今どこに?」
禎子がいうと、
「だからあ、落ちたときに頭を怪我して今病院!竹沢外科医院。早く来なさい!」
おばさんはスマートフォンが壊れてしまいそうなほど、大きな声で言った。
「ごめんなさい。すぐ行きます。竹沢外科医院と言いますと、最寄り駅はどこでしょうか?」
禎子が言うと、
「そんな物は無いわよ。今どこに居るの?何ならタクシーで来なさいな!」
と隣のおばさんに言われて禎子はすぐに
「わかりました!」
と言って、急いでタクシー会社に電話をし、タクシーで竹沢外科医院へ直行した。
「ごめんなさい!遅くなりまして!」
禎子がそう言いながら、竹沢外科医院の入り口に飛び込むと、太くんは、たしかに額に包帯を巻かれて、隣のおばさんに抱っこさせていた。
「悪いけど澤村さん。警察に通報することが必要だと思うわ。」
隣のおばさんは怖い顔で言った。
「そうですよ。テーブルの上に寝かせたまま、バイオリンの演奏に行くなんて、母親失格と言っても良いんじゃありませんか?子供を部屋に残したまま外出するなんて、澤村さんはどうかしていますよ。日本では、そんなに厳しくないかもしれないけど、外国では、子供を一人で部屋に残しておくことは犯罪になることだってあるんですよ。それと同じくらい、罪の深さを知ってください。」
と、心配そうな顔をした看護師が禎子に言った。医療関係者はいいなと禎子は思う。そうやって誰かに医療関係であることをいいことにして文句が言えるからだ。禎子は、一人で小さく、
「でも、あたしは、ああしなければ生活も成り立たないし。」
と言った。看護師は耳聡くそれを聞きつけて、
「バイオリニストとしての仕事が忙しいようですけど、赤ちゃんが居るんですから、それをちゃんとわきまえてください。でないと赤ちゃんが可哀想です。あなた、赤ちゃんを放置して、バイオリンの練習に夢中になっていたそうですね。それで、赤ちゃんが泣いていたのも気が付かなかったそうじゃないですか。それでは、母親が務まりませんよ。あなたのような演奏家が、一人で赤ちゃんを育てるなんて、無理な話ではないでしょうか?」
と、禎子に言うのだった。禎子は、そう言われても反論できないなと思ってしまって、申し訳無さそうに看護師を見て、
「ごめんなさい。次は気をつけますから、警察に通報することだけは勘弁してください。私は、昔は確かに水商売とかもやってましたが、今はバイオリニストなので、そのままでいたいんです。やっと、ソリストとしてオーケストラと協演もできるようになったのに。それが全部なくなってしまうのはどうしても避けたいんです。」
とだけしか言えなかった。看護師も、隣のおばさんも、呆れたように禎子を見た。それでは、行けないんだといいたげなかおだった。
「全く、子供が、テーブルから落ちて大怪我したっていうのに、それよりもバイオリニストの方を優先するんじゃだめね。施設にでも預けたほうがいいかもしれない。」
隣のおばさんは、大きなため息をついた。
「とにかく、これ以上こんなことがないように気をつけますから、今日は帰らせてください。」
禎子が言うと、隣のおばさんは、看護師に、こんな人に彼を渡してもいいでしょうかという顔で目配せした。
「そうですね。全く反省していない。」
と、看護師は言った。
「それでは、お渡しできないと思います。とりあえず、彼女が反省するまで、安全なところに預けたほうがいいのではないでしょうか。」
「そうですね。じゃあお願いしましょう。」
隣のおばさんと看護師はそう言い合って、太くんを診察室の中に戻してしまった。禎子は、そうなっても仕方ないというか、自分がそれだけの事をしたのだと言うことを、彼女はやっとここで認識したのだった。禎子はガックリと肩を落とした。
それと同時に、一人の若い女性が、竹沢外科医院に飛び込んできた。女性と言っても、まだ20代後半の女性で、やはり二歳くらいの男の子を、両腕に抱いていた。禎子もそれを確認した。男の子は、頭から血を流している。
「一体どうなさったんですか?」
と、看護師が聞くと、若い女性はいきを弾ませながらこういうのだった。
「うちの子が、うちの子が、いきをしていないんです。あたしが、気がついたときは、いきをしていなかったんです!」
「ちょっと、ちょっと落ち着いてください。まずはじめに、気持ちを落ち着かせることから始めましょう。」
奥から女性の医者が出てきてそういうのであるが、少年の様子を見てすぐに表情を変え、すぐに少年をひったくるように抱きかかえて、脈を取ったが、もう少年は息絶えていた。
「これは、もう、だめですね。一体なぜ、こうなったんですか?」
医者が若い女性にそう言うと、
「私が、私が殴りました。」
と、彼女は言った。
「私が?」
医者が急いでそう聞くと、
「はい。私が殴りました。この子にいい加減に寝てもらいたかったんですけど、それをしなかったから。仕事から帰ってきて、この子が、おかえりと言ってきたんです。こんな遅い時間まで起きていて、何をやっているんだと叱るだけだったんです。そうしたらこの子はママといっしょといい出したものですから、思わずカッとなってしまって、私が殴りました。」
と女性は涙ながらに答えたのだった。看護師が、息子さんの遺体に着せられていた、血だらけの洋服を脱がすと、たしかに全身に殴られたような痕がたくさんついていた。それに、胸の肋骨が見えるほど痩せていて、ご飯を碌に食べていないこともわかる。
「まあ、なんで、なんでこんなことに!」
子供思いの看護師がそう言うと、女性は、涙をこぼしながら、
「私のせいなんです。私が、息子を愛せなかったから。息子が成長して嫌だとか、そういう事を口にするようになって、それに私の父の事を思い浮かべるようになってしまって。」
と言うのだった。
「そんな個人的なことで、自分の子を死なせてしまうなんて、なんか、変な人ね。あたしはさ、子供が生まれるって、すごいことだと思うんだけど?例えば大変な事をしたら、ずっとそれが、頭に残っているもんじゃないのかなあ?」
と、隣のおばさんが大きなため息をついてそう言うと、
「そうですよね。私は、それを忘れてしまいました。ごめんなさい。」
と、彼女は答えるのだった。
「あーあ全く、お母さんになるために、体を痛めて産んだことも忘れてんだ。全くおかしな人ね。それでは、なんのために息子さんが生まれてきたんだろう。それでは、殺される溜めってことになっちゃうわねえ。そんな可哀想な人生、息子さんにはそれしかなかったわけだ。可哀想に、息子さんは何もしてもらえないなんて。昔じゃ絶対ありえなかったわ。なんで今の人は平気で殺してしまうのかな。」
隣のおばさんは、大きな声で呆れたように言った。
「あなた本当に、母親をやる気があったの?それとも、誰か望まない子供を作ったの?」
隣のおばさんに言われて、その女性は、もう逃げ場がないと思ったのだろうか、床に崩れ落ちてワッと泣き出してしまった。
「いい気味だ。息子さんの事を嘆くことで、もっと、苦しめばいいわ。息子さんが、そうさせているのよ。」
「そんな事ありません。」
禎子は、思わず、隣のおばさんに言った。
「きっとこの方も一生懸命やっていたんだと思います。ですが、なにか上手くいかなかったというか、彼女を支えてくれる人がいなかったのでしょう。それが何に当たるのかはわかりませんが、彼女を支えてくれる存在、親御さんとか、お友だちとか、そういうものがなかったんだと思います。彼女は、もしかしたら、助けて助けてということもできなかったのでは無いでしょうか。だから、息子さんを殴り殺してしまったんですよ。」
「そうかも知れないけど、でも、子供さんを殴って殺すとか、育児を放棄するというのは、悪いことだわ。私は絶対に許さない。そんな身勝手な人が、この世に居るということがおかしい。」
隣のおばさんが、そう言うと、
「そんな事ありません!私もそうでしたけど、きっと生活していくために、仕事が大変すぎて子供さんの事を忘れてしまったのではないでしょうか。それは、私もそうだったから、よくわかりますよ。きっと、生活していくために精一杯で、子供さんの事は考えられなかった。そういうことでしょう。それは、お母さんだけを責めても行けないと思います。きっと彼女は、育児が面倒だったとか、そういう気持ちになったわけでも無いと思いますよ。その代わり、あんなに泣いているじゃありませんか。」
と、禎子は、おばさんに言った。
「でも、許せないですよ。自分の子を、生活のためだと口実を付けて、育児を放棄する、殴り殺す、そんなことがあっていいものでしょうか?私の時代だって、片親家庭というものはありましたよ。でも、そういう事であっても、ちゃんと一人前に育てて、殺すということはありませんでした。だから、彼女も同じようにすれば、息子さんを殴り殺すなんてしなかったと思うんですがね。そうじゃありませんの?」
隣のおばさんがそう言うと、禎子は、これだけは伝えて置かなければならないなと思った。
「いえ、そんな事はもう今はできません。今は、昔とは時代がぜんぜん違う。昔みたいに、色んな人が手を出してどうのという時代ではありません。それなのに、昔はこうだったああだったって、昔の良かったことを押し付けるから、今の人が相談できないんじゃありませんか。」
「そんな事、困ったことがあれば、いつでも相談できるように行政もなんとかして居るんじゃありませんか?」
と看護師が禎子にいうと、
「いえ、そういう事はできません。なぜなら日本では、そういう事をするのが恥ずかしいことだと思われていて、他人に手を出してもらうことを、嫌う傾向があるからです!」
と禎子は、すぐに言った。
「そうなんですね。じゃあ、私達ができることは、もう無いってことですかね。」
と、看護師が言うと、
「ありませんというか、もっと人に頼っていいというか、そういうところを見せてほしいです。気軽に相談していいって医療関係の方はいいますけど、それを実際にやって、楽になったとか、解決したとかそういうことが、まるで見えてないから、相談することもできないんじゃないですか。それは、悪いことだっていう年寄りの考えばかり押し付けられて、逆のことが一切公開されていないから、こういう事件が起こるんじゃありませんか。それでは、お母さんになるということは、非常に難しいことになりますよ。」
禎子は、看護師に言い返した。
「今は、産んだときの記憶がどうのとか、お母さんだから子供に愛情が持てて当たり前だとか、そういう時代ではありません!周りの人たちが、お母さんをしっかり支えていることによって、初めてお母さんが成立するんです!」
「でも、澤村さん、それは、甘えというものになるのではないですか?」
隣のおばさんがそう言うと、禎子はもうやるせないというか、なんでこんなに伝わらないんだろうという気持ちになって、こういったのだった。
「甘えではありません!殺されても甘えではありません!私が、そうだったから。」
「はあなるほど。」
と、おばさんは馬鹿にするように禎子を見た。
「あなたの話では、甘えることも当たり前ということになっているようね。悪いけど、私のときは、スマートフォンのような便利な道具もなかったし、すぐに相手に会いたいと連絡を取ることだってできなかったのよ。それに、相手にいつでも話ができるようなSNSというものもなかった。あなたの時代のほうが、よほど、便利で良いものがたくさん出ているのに、なんでそんなに甘えん坊さんになってしまったのかしら?」
禎子は、それは、と言葉に詰まると、先程泣いていた母親は、やっと顔を上げた。
「本当にありがとうございます。私をかばってくださって。私は確かに、夫に先立たれてしまって、息子と二人だけでいきてきましたが、それで結局息子を育てられなかったんです。どこかで自分を変えなければ行けなかったんでしょう。ですが、私はそれを逃してしまいまして、息子を殺してしまった。それはやっぱりやってはいけないことです。私、警察に自首しますよ。私がしたことは、許されることじゃないから。」
「でも、それでは、あなたが一方的に不利になるだけだわ。ちゃんと、弁護士さんとか、そういう人に話をよく聞いてもらって、少しでも軽い刑ですむように、なんとかしてもらってください。もしよろしければわ、」
禎子は、彼女にそう言おうとしたが、隣のおばさんに抱かれたままになっている、息子の太くんを思い出して、
「ごめんなさい。もう一度言うわ。ちゃんと弁護士さんなんかに話をして、少しでも軽い刑にしてもらうようにしてね。そのためには、ありのままのあなたを見せるのが大事なのよ。あなたの失敗は、もしかしたら誰かの役にたつのかもしれないわ。それは、絶対に忘れないでね。あなたは、社会から外れているように見えるけど、こうすることによってまた戻ってきたのよ。」
と、お母さんに向かっていった。
「ありがとうございます。私は、なんて母親なんでしょう。二年間息子と一緒に居られて、幸せだと思っていたのに、こんな事になっちゃって。私はやっぱりだめですね。でも、ありがとうございました。私の、味方になってくれた人がいたから。私、その思い出があるから、前科者としていきても平気です。」
お母さんは、涙を拭きながらそういうのだった。それではと医者が言って、警察に電話し始めた。まもなく警察がここへやってきて、彼女を逮捕することだろう。それを見届けたかったけど、禎子は自分も母親であり、太くんが居ることをもう一度確認して、隣のおばさんから彼をそっと受け取って、
「二度とこんな事はしませんから、御免遊ばせ。」
と言って、病院をあとにした。
雨の日の5月の第二日曜日、母の日の夜だった。
雨の降る母の日 増田朋美 @masubuchi4996
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