第9話 蕎麦屋にて
琉生の父が切り盛りする「手打ちそば、スパーク」は、いつものように開店時間の前から行列ができていたが、開店10分前に臨時休業が告げられ、騒然となった。
崩壊する旅館の奥に踏み込んでいった息子を助けようとした父をまわりが取り抑え、それでも奥に進もうと父が暴れる、それを取り抑える、それでも行く……、を繰り返しているうち、腰を痛めてしまったらしい。
つけ汁にヤバい薬でも仕込んでいるのではと思わせるほど中毒性がある店らしく、食べに来たのに食べれないという事実に皆、がく然としていたようだが……。
担架で自宅に運び込まれた店主の姿を見て、これは無理だと悟ってくれたようだ。
ひどい怪我をして長期離脱が間違いなさそうなサッカー選手が、それでも俺はくじけないぜと担架に乗せられたまま拳を掲げ、それを見たサポーターが拍手で見送る、といった光景が小さな蕎麦屋でも展開された。
客たちが帰って行くと、店の戸口には琉生とその母、
由梨は年のわりに若く見え、琉生の姉と思われることすらあった。
いったいあの父のどこが良くて一緒になろうと思ったのか、世界七不思議の一つに入れて良いくらいの綺麗さを持つ人だ。
かなり抜けた性格なので、人違いで結婚したのだろうと常連客にからかわれたりするが、夫婦仲は良い方だと琉生は感じている。
「お客さん、わかってくれたみたいで良かった」
店が荒れなかったことに安堵する琉生の隣で、母は異常にそわそわしていた。
「どこ、どこ、どこから来るの、人文字さんは?」
「いちもんじさんね」
父からどこまで話を聞いているか知らないが、いつものジャージ姿が今日に限っては着物である。
「あ、あの子、あの子でしょ? 超可愛いじゃん!」
アレはどう見てもお爺さんと散歩するゴールデンレトリバーだが、本気なのかボケなのかわからないのが母の恐ろしいところ。
あの子、違う、じゃあ、あれ、違う。などと騒ぐ母と息子の後方から、一文字真子はやって来た。
「失礼します」
帆布製の小ぶりのリュックに、20リットル程度のスーツケース。
黒魔子というあだ名の由来となった、いつも真っ黒けの私服。
「うお……、めっちゃ可愛い……」
絶句する母。ガン見する母。
「一文字真子と申します。これからよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる未来の嫁を見て、母は満面の笑顔になった。
「おめーやったな! 勝ったなおい! 息子ぉ!」
我が子の肩や背中をバシバシぶっ叩くが、琉生は無視して黒魔子のスーツケースを取り、笑顔で話しかける。
「部屋は無駄に余ってるから、好きなの使って」
すると黒魔子は頬を赤らめながら、母に聞こえない程度の声で、
「一緒の部屋でいいんでしょ?」
と意地悪く聞いてきた。
「いきなりそれはないよ」
笑って受け流すが、
「でもいつか行くからね、あなたの部屋」
さらっと呟き、その頬を琉生の肩にこすりつけた。
そして一台の車が蕎麦屋に横付けする。
運転席にいたのは緑川氏で、車から降りて何度も母に頭を下げる。
続いて後部座席から降りてきたのは、一文字桜帆であった。
姉を見ると笑顔になり、勢いよく母に向かってお辞儀する。
「え……」
なぜここに妹が来るのか。
戸惑う黒魔子をあえてそのままにして、琉生は桜帆に近づいた。
「手ぶら?」
わざとらしく驚いてみせると、桜帆はなぜか得意げに、
「荷物は後でどっさり来る」
そうかと笑いながら、琉生はそっと囁く。
「あの銃、シルヴィに持ってかれちゃった」
「問題ないよ、一時間くらいで壊れるようにしといたから」
「はは、そっか」
恐ろしい子だ……。
「それより、お兄ちゃん、ご愁傷様だね」
「どういう意味?」
「ありがとうって意味」
そして桜帆は姉の元へ駆けていき、その手を取り、姉を見上げて微笑む。
「あの、これは……」
今もなお戸惑う黒魔子に母は言った。
「姉妹が別々に暮らすにはまだ早いって旦那がいうし、私もそう思うから」
そして母は近づいて、逃がさないとばかりに強く、ぎゅうっと姉妹を抱きしめた。
「もう何にも気にしないでいいから。嫌になるくらい家にいなさい」
「……」
黒魔子はホッとしたように大きく息を吐き、
「ありがとうございます……」
そう呟きながら安心したように母の背中に手を回した。
その時、琉生はこれでいいと心から思った。
ご愁傷様といった桜帆の言葉の意味はこれからたっぷり実感することになるだろうけれども。
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