天使曰く
【確かに失敗なんかしたことなかった。|】
指は頭の中でパソコンのキーを叩いている。手はまったく動かないのに、指先に硬いプラスチックが触れるような気がする。どうしてもそうなってしまう。なぜなら私はちょっと前まで、小説家を志していたからだ。内なる声が囁くと、私はそれをそのままタイプする。あとは勝手に作品が出来上がってしまう──。
でも。
「そうかもしれません。確かに、私は今までつまづいたことすらありませんでした。でも」
私は彼女のギラついたサングラスからすっと目をそらした。
【でも私は取り返しのつかない失敗をしてしまった|。】
「ここはもう地獄です。これ以上落ちるなんてことないです。明日からもまたじご」
「何言ってんだ?」
女はマスクを外した。つやつやした唇が、呆れたようにいう。
「バカじゃないの。仕事一回ずる休みしたくらいで。あんた、最底辺にいたこともないし、最底辺を見たこともないじゃん」
そう言い放って女は、運ばれてきた分厚いトーストに齧り付いた。ま新しい伝票にはモーニングトースト分の料金が加算されている。
「そういうのは、あとちょっとで死ぬかもってとこまで追い詰められてから言いなさいよ。不幸気取り?」
女の言い分に、私はカッとなって立ち上がった。
「何にも知らないくせに!!第一あかの他人のあなたに何だかんだ言われたくないっ!」
「私がどんだけつらい思いをしてあの席にいたか、知らないくせに!」
「まあまあ」
「何……不幸気取りってなに!」
隣のおじいちゃんがとうとう席を立った。女は、バターで濡れた唇をぺろんと舐めた。
「落ち着け、若いの」
女は私の手を掴んだ。「みんなが見てるよ。目立ってる」
私はさあっと青くなって、小さく縮こまった。女は私が落ち着くのを待ってから、ゆっくりとコーヒーを飲み干して、空になったカップを置いた。
「残念だけどあたしはあんたをよく知ってるし、よく見てると思うよ。誰よりもね」
「……いったい、誰なの」
「天使」
トーストを食らった女は、サングラスをきらりと光らせた。
「正真正銘、天からやってまいりましたワ」
※※※
インターネットの交友がすべてだったころ、私にはYという年下の友人がいた。極めて上手い書き手だった。彼女の創造した世界の中には必ず漆黒の衣をまとった天使が登場し、退廃的でいて幻想的な物語を紡いだ。
あるときは死にかけた患者の末期の病棟に。あるときは月夜の散歩道に。天使は必ず現れて、彼女の作品の象徴のようにきらきらと光っていた。白と黒の文字の中にいて、きらきらひかるのは彼女の天使だけ。
ネット上のつながりだから、たぶん長い人生の中のひとときが重なっただけだったのかもしれない。けれどその偶然を今も私は愛していた。
※※※
「は」
【ありえない|】
句読点を打つのも忘れ、私は口をあんぐりと開けて天使を見つめた。天使はぎらついたサングラスを弄ると、私にぐっと顔を近づけて、それからにっこり笑った。
「だからあんたのことは誰よりもお見通しってわけよ。その頭の中で文字打ってるのもね。ありえないってことはないでしょう、現に見えてるんだから」
【なんで思考が読めるんだ。本当に天使なんだろうか?いささか俗っぽいような気もするが、|】
「俗っぽい天使がいたっていいじゃないの」
天使はそれからゆったりと席に腰を落ち着ける。私が頭の中でパソコンに打ち込んでいる文字も見えるのなら、もはやそれは人間業ではない。
【訂正、天使っぽい。まじの天使っぽい。これはまいったな】
「よろしい」
天使は満足したようだ。店員を呼びつけて、コーヒーとチョコレートパフェを注文している。まだ食べる気らしい。私はあわてて、財布の中身を確認した。
「待ってくださいよ、あの、お会計は?」
「ワリカン」
【天使はワリカンをする。覚えた】
天使は頷いた。「食べたかったのよね、ここのチョコパフェ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます