天使のピアス

紫陽_凛

物語にすらなれない

【物語にすらなれないつまらん人生。】

 頭の中に浮かぶ。浮かんでは消えていく。音のようでもある。文字のようでもある。ノートパソコンのキーが手元にあるみたいだ。叩いてもいないキーが指を押し返してくる。そしてありもしない学生ノートPCの汚れた画面上にカーソルが浮かぶ。

【しにてえ|。】


 朝イチで駆け込んだ喫茶店のコーヒーは味がしなかった。裏がえされた伝票は油ですこし汚れている。私は鼻をすすり、鞄の中を弄って涙を拭くためのティッシュを探している。

 隣のおじいさんは見ないふりをしながらタバコを吸っていた。漫画本のページをめくる速度がさっきと比べて速い。私は申し訳なくなって、ぐちゃぐちゃのティッシュをようやく取り出すと、鼻をかんだ。


【こんなところまで来て、泣き止めないのは性分かもしれない。そうじゃないと苦しい】

【涙が出る。止まらない。涙を制御する方法があるのなら、教えてほしい|。】




 きょう、会社に入ろうとして、入れなかった。一歩踏み出すごとに涙がぼたぼた垂れてきて、我慢できなくて、とうとう化粧が溶けて、もう誰にも見せられない顔になってしまった。私は逃げるように車にかけ戻り、車の中から電話をかけた。でっち上げた体調不良の症状も覚えていない。ただ必死に「そこに行かなくてもいい理由」を探した。そうして逃げてきた。この喫茶店に。

【どうしよう。】

【逃げてしまった。|】

 はたから見たら、朝からなぜか号泣しているOLが優雅に(?)コーヒーを飲んでいるようにしか見えない。私の抱える焦燥なんか誰も悟っちゃくれない。

【どうしようどうしよう逃げてしまったどうしようズル休みなんてそんな馬鹿なこと】

 私はコーヒーを飲みながら、バックスペースキーをありったけ叩いて、今までした全てを消した。

 でも最初の「物語にすらなれないつまらん人生」だけは、どうしても消せなかった。



【物語にすらなれないつまらん人生。事実。私は社会人として何か欠落している。だから、会社でも疎外されている】

 『フレッシュさが足りないんだよね。一生懸命さが伝わってこないっていうか……』

 課長の棘のあるお小言は、私の胸に深々と突き刺さっていて今も抜けない。

 入社したばかりの頃も言われた。

 三ヶ月の面談でも言われた。

 そして半年以上経った昨日も、同じことを言われた。


【欠陥品である】


 大声の返事や地声より高めにとった声、むりやり口角を上げた笑顔すら、彼には伝わっていなかった。取り繕っているつもりであってもこれなのだから、もうどうしようもなかった。フレッシュでない新人フレッシャーの烙印は重たい。


【所詮欠陥品。何者にもなれない欠陥品。だから私は嫌われるし、除け者にされるし、裏で愚痴を言わ|】



「おい」

 声がかかったのはその時だ。目の前は冷めかけたコーヒーと油っぽい伝票と、鼻をかんだティッシュの山、外していたメガネだけになった。

「は、はい?」

 私は慌ててメガネを掛け直した。

 声をかけてきたのは、派手なサングラスとマスク姿のいかにも怪しい女である。女だとわかるのはその声だけだ。パーカのフードをかぶっているから髪型すら判然としない。前髪は栗色で、ぱっつんに切り揃えてあった。

「向かい、座っても?」

 喫茶店はさほど混んではいない。また指の腹に、キーボードの感触が伝わってきた。

【いやだ。怖いし|】

「ど、どうぞ……」

 思考とは裏腹に言葉を返して、内心で「ヤバい人に目をつけられたんじゃないか」と恐怖する。女はお構いなしに私の向かいに座ると、お冷を持ってきたスタッフに「モーニングトースト」と言い放った。そして私の有り様を見て、はは、と乾いた声を漏らした。


「終わってんね。世界が終わったって顔してる」

「……わかりますか」

「うん。むしろ自分で世界終わらせてやる、みたいなね、わかるよ。……でもね、あんたの世界はおわらないのです」

 女はわけのわからないことをいう。私は涙で汚くよごれたメガネを拭いてから、また掛け直した。

「は、はぁ」

「世界終わらせる前に、地獄に落ちてみ」

「じ、じごくう?」

 突拍子もないワードに私はその後絶句して声もなかった。女はケラケラ笑いながら私を指さして、「んだ、地獄だ」と言った。


「あんたは一回も失敗したことないからね。失敗すれば全部地獄に感じるだろうね」

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