第7話 七星ひかり
私は協会のマリア像の足元に手を重ねる。
きっと大丈夫。私は大丈夫。私は七星ひかり。七つの星のもとに生まれた女の子。
私はまぶたを開ける。
観客席には大量のサイリウムが光り、それらひとつひとつが波のように揺れ、私に向かって私の名前が叫ばれる。
「ひかりちゃーん!」
「七星ー!」
ここは日本武道館。私はそこに立つアイドル七星ひかり。ここで光っている大量のサイリウム一つ一つにそれぞれの人生があるのだと思うと頭がおかしくなりそうだ。
「みんなー!今日は来てくれてありがとー!たくさん楽しんでいってねー!」
皆のための、そして私のための舞台が幕を開ける。
「ねぇ前澤くん、七星ひかりって知ってる?」
9月の午後の陽気の中、前澤と田中さんは共用スペースでお茶を飲みながらお互いの情報交換を兼ねたお喋りをしていた。
「名前は知ってるよ、いま超売れっ子のアイドル。田中さん、アイドルとかに興味あったんだ。」
「すごく可愛いのよ、ストレートの黒髪に宝石みたいなぱっちりお目々。ちょこんと乗った小さな鼻に、小さな口、背は低いけど、スタイルのいい引き締まってる身体。女の子の憧れを詰め込んだ宝石箱みたいな娘ね」
「ふーん、同性のアイドルを応援するってちょっと分からないなぁ。」
「それだけじゃなくて、すっごく頑張り屋さんなんだから!私も頑張らなくちゃって、元気づけられるんだ。今度息子と一緒にライブを見に行くのよ。」
彼女がタブレットでに映した七星ひかりの画像を見せてくれる。
「ふーん、そうなんだ。ところで、最近田中さんゲームの仕事があったみたいだけど、そっちの進捗はどうなの?」
前澤が有隣荘に越してきてから、既に3年が経っていた。その間に彼女はあるスマホゲームのキャラクターデザインの仕事に抜擢されていたのだった。
「ふふふ、あんまり有名所ではないのだけれど、ヒロインのデザインを任されてるのよね。やっと世の中が私の才能に気づいたのかもしれない!社外秘なんだけど、前澤くんは信用できるから、ちょっとキャラクターを見て評価してくれない?」
「もちろん!え!?…いいの?」
「何してるんですか?僕も混ぜてくださいよ。」
「宇宙人くん!」
宇宙人くんは相変わらず一年中変わらない、暑そうな同色のタートルネックとジーンズを着て、まるで地球の気候を知らないかのようなマイペースぶりである。
「夏場もそんなだったけど、やっぱり暑くないその格好?」
「周りに阿るよりも、自分を貫くことの方が大事ですから!それにファンクラブの人達に好評なんですよこのスタイル。」
宇宙人くんは先月、彼が書いた小説のコアなファン達が主催したオフ会に参加していたのだった。どうやら彼の予想を遥かに超えて、ファンが何百人も集まったようで、それを捌くのに必死だったらしい。
「僕サインなんか初めて書きましたよ、宇宙の片隅に、僕のファンが少しでもいることが知れて、大変だったけどとっても嬉しかったのですよ、うふふ。」
「良かったねえ。作品が地球の住人の心に届いて。」
「ところでそれなんですか?」
田中さんはタブレットに描いてあるアニメ風の女の子の絵を二人に見せる。黒いドレスを着て、ぼろぼろのぬいぐるみを抱いている黒髪のゴシックな感じの小さな女の子である。きれいな油彩の彩色で、遠目で見るとまるで美術館に飾ってある油絵のようだ。だが、よく見ると女の子は3等身で可愛くデフォルメされていて、前澤は以前と比べて彼女の成長を感じたのだった。その女の子はちょっと七星ひかりに似ていた。
宇宙人くんはまるで初めてアニメの女の子を見たかのように目をまんまるにして眺めている。
「ふふふ、そんなに驚かなくても。」
「田中さん、すごい可愛いと思うよ、そのヒロイン!」
「何だかよくわからないですけど、僕もとても可愛いと思います。地球にはこんな可愛いという感情があるんですね。」
「ふふふありがとう、宇宙人くんに褒められたの初めてだな…。」
「前澤先生!ちょっと来てください!」
部屋に聞き慣れない声が響いて、宇宙人くんと田中さんが後ろを向くと、そこに20代くらいの女性が前澤を睨みながら立っていた。猫のような顔に大きな丸眼鏡で、髪は金髪のショート、ダボダボの黄色いパーカーとデニムのショートパンツを着てラフな印象である。
「あ、ごめんごめん、貴島さん、どうしたの?」
「主人公のアイレベルがおかしいところがあって…。もう一度メインキャラを描き直さないと…。」
「え、あ、そうなの、ごめんこんなところに呼び出して。ごめん田中さん、宇宙人くん。じゃあね。」
「いいよいいよ。」
「お仕事がんばってください。」
「先生いい加減スマホ使いこなしてくださいよ〜。電話でもラインで連絡しても全然反応がなないんだから…。」
「ごめん、非通知にしてたみたいだわ。早く行こう。」
前澤が行ってしまうと、二人は顔を見合わせてくすくす笑う。
「このアパートで一番の出世頭は前澤くんよね。」
「今のアシスタントさんでしょう、漫画が連載2年目でもうすぐアニメ化もされるんですよね。印税ガッポリですよねぇ。羨ましいなぁ。」
「本当にそうよね、このまま前澤くんここに残ってくれるかな。どっか都内に持ち家買ってそこに行っちゃうかもしれないね。なんだか前澤くんが遠くに行っちゃったような気がするなぁ、ちょっとさびしいなあ。」
翌日、前澤は出版社の編集部へ打ち合わせに行く。
「まずはアニメ化おめでとうございます。」
相変わらず、担当編集の佐伯さんは前澤に対して感情を差し挟むことなく、淡々と手続きを済ますかのように喋る。
「漫画の単行本の売れ行きも好調です。10巻で2000万部っていうのは大ヒットですよ。」
「なんでこんなヒットしたんですかね未だに実感がないです。」
彼の描いている漫画は「引き子の神隠し」といい、引きこもりの女の子が中世ファンタジーやSFな未来都市など異世界と現実を行ったり来たりする中で成長していく物語だ。
「みんな数年前のコロナで引きこもりになって、逃げ場が映画やゲームでしょう。それらは例えるなら異世界と言えると思います。今はコロナが大分落ち着いてきましたけど、異世界にいつでも行けるんだという選択肢を皆が共有するようになった。そのタイミングで前澤先生の「引き子の神隠し」が連載された。みんな本当は異世界に逃げたいんです。それと、大体の異世界転生ものは行ってそれまでですけど、行ったり来たりというのも今の現実と重なってるんでしょうね。どうやって現実と異世界を擦り合わせていくかというテーマが受けてるんだと思います。」
「タイミングが良かったんですね。」
「それで前澤さん、実はですね…。アニメ映画化の話が来てるんです。鬼滅ブームが去って久しいですが、このコロナの脅威が完全に去ったタイミングで公開すれば、大ヒットを見込めるかと。もう声優も決まっていて、配給会社も監督も決まってます。」
「あ、え?そうなんですか?」
彼は権利関係のことを完全に出版社任せにしていたことを思い出した。
「ということでよろしくお願いします。それと、明日声優の顔合わせとアフレコがあるので出席してください。」
「分かりました。」
彼は悶々として出版社を後にした。
出版社の前でアシスタントの貴島さんが待っている。
「どうでした、打ち合わせは?」
「映画化が決まったよ。みんなで高給焼肉でも行くかい?」
「もう声優から何から全部決まっちゃってるなんて、編集部に完全に舐められてましたよね?」
「…っ!何故それを…。」
「これこれ。」
彼女は彼のシャツの襟にくっついてる小さな黒いボタンのようなものを指差す。
「………!!盗聴器!」
「前澤先生も有名人なんだから時代に合わせて警戒していかないと。それと私は用意周到な女なんですよ。ナメないでくださいね。先生、ちゃんと権利関係のことを把握しておかないとだめですよ。私達の給料に直接反映されることなんですから…。先生何にもわかってないみたいだから、帰ったら法律関係のことレクチャーしてあげます。」
「君ってやつは…。用意周到でも盗聴器はだめだろう…。」
「先生頼りないから、もっと私達を頼ってくださいね。」
翌日、彼は都内のスタジオのアフレコ現場に行く。既に脚本から何から動いており、アニメ映像も少し完成しているとのことだった。完全に前澤は舐められていた。
背と鼻が高く、引き締まった身体で、白人の自信満々な様子のプロデューサーにアニメ制作の面々を紹介してもらう。
「こちらが監督の藤木さんデスネ。私がプロデューサーのアンドリューで、こちらが音響監督の…。」
面々は尊大な態度で前澤にまるで部外者の様に接する。
「どうも、原作者の前澤です。」
前澤はアニメ界の錚々たる面子に完全に気圧されてしまっていた。
その時だった。
「あ、あの原作者の前澤友平さんですよね!」
「ああこちらは主演を務める…。」
「わ、私七星ひかりと申します!初めまして、ガールズリフレクションの頃からのファンです!わああうれしい〜!」
宝石のような瞳、シルクのようなストレートの黒髪、色んな女の子の憧れを詰め込んだような、宝石箱みたいな女の子。
本物の七星ひかりがそこに居た。本物は写真よりも一層きれいだった。佐伯さんの話を話半分で聞いていたので、忘れていたが、主人公の声を担当するのは七星ひかりだった。
「あ、どうも前澤です。よろしく。」
「よろしくお願いします〜。うれしい〜、憧れの人に会えるなんて〜。」
七星ひかりが前澤の手を掴んで、胸の前でブンブン振る。
「ふふふ、やっと見つけた。」
「なんか言いました?」
「いえ何も。これから引き子ちゃんに命を吹き込むべく頑張りますので!」
前澤はその場に自分のファンが一人でも居て少し心強かった。
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