第8話 高校生『雨空 味雲』の姪

 世の中は雨に打たれ、世間はジメジメとした空の涙に濡らされて。壮大な世界を歩く気が失せてしまう天の気まぐれの中で学校という狭い空間はいつも通りに嫌な愉快加減を演出していた。

 スーパーマーケットで母の言葉に逆らってから一週間近くが経った。あの日の感情は未だに鮮明に思い出すことが出来る。

――あの日の俺、ちゃんと正しい選択出来てたのかな

 味雲は思い返す。霧葉との人生を選び取ることと引き換えに母の手を跳ね除けてしまったということ。迷路のような人生の方向性が増してしまって更に迷ってしまったということ。晩ごはんは毎日霧葉の言えで済ませて家に帰って眠る生活。揺りかごのある場所という以外は特に用事もない家、親の助けなどもうないも同然だった。

 霧葉に相談を持ち掛けてみたところ、返って聞いた答えも単純なものでしかなかった。

「謝るしかないんじゃないかしら」

 あの日以来一度たりとも口をきいていない親、想いを向けない日が重なれば重なるほど気まずさは増して行って美味しさというものを知らないほどに味わえない可能のパイ生地が濃厚になって行った。

「だよなあ、正直凄く気まずいんだけど」

 気まずさはあったものの、最も大きな感情は許しの否定だった。霧葉という人物そのものを平気で否定してみせる親、恋愛においては完璧な百点満点の敵。そう思える相手を許すことはあまりにも難しい。乗り越えなければならない山はあまりにも大きかった。

 雨は静かに窓ガラスを叩く。湿気は心地の悪い感情を呼び出す。梅雨という時期はあまりにも薄暗い色彩を運び込んでいるものの、それは自身の後ろめたさを隠すどころかますますはっきりと色付けていく。

 世界全体が居心地の悪い場所のように感じられた。

「この時期は髪の毛が重く感じるから嫌いなの、アジサイももっと晴れっぽい時期に咲いてくれないかしら」

 霧葉の語り、枯れた低い声からにじみ出る湿っぽい感情と愚痴はこの時期の空気感と混ざり合いそうに思えても分離してくっきりと形と成ってしまう。

 味雲としては今の時期、雨に濡らされたアジサイの花こそが一番美しいと思っていたものの、霧葉の目を窺ってしまっては到底言葉にできなかった。

「まあいいや、ミクモ、まずはお母さんに認めてもらって」

 母の思想は自分自身という宗教に心酔して狂っているように映っていた。あの女を説得する事など出来るものだろうか。美人と付き合うという異端者と成り果てた息子の言葉など届いてくれるものだろうか。

 霧葉の方を見つめる。心配の気持ちを詰め込んだ表情は届いたのかどうか。霧葉が返すように浮かべた表情は妙に明るい微笑みだった。

「仕方ないな、謝りに行ってみるか」

 霧葉の手によって導かれるように味雲の脚で歩み始めた。霧葉は傘を差して味雲の左腕に右腕を絡めて密着していた。柔らかで安心感を与えてくれそう、そんな想像はすぐさま打ち砕かれた。現実に待っていたのは嫌な興奮と恥ずかしさに顔中に覆い被さって来る熱だった。

 相合傘は愛合い傘、その傘の下に刻まれる名前の代わりに居座るふたつの愛し合う魂。

「ちか……近いよ」

 味雲によって呟かれた感想は霧葉の中の何処にまで届いただろう。耳元までだろうか、離れる気配は微塵にもなかった。

 ジメジメとして居心地の悪い空気の中、気持ちの悪い温もりに見守られながら歩みを進め続ける。振り返っても校門が見えなくなったであろう距離を稼いだそこ。ここまで来てしまえば学校の生徒たちは冷たい目を向けることなく無意識の世界にふたりを置いてけぼりにしてくれるだろう。ぜひ永遠に放っておいて欲しかった。

「なあ霧葉」

「なに、可愛いミクモ」

 わざわざ可愛いと加えるのは意地悪なのか冗談なのか、はたまた全く別の感情なのか、こればかりは味雲の中に答えを用意することが出来なかった。

「霧葉のが可愛いだろ、でさ、ホントに家まで来るつもりか」

 味雲の身体中が恥ずかしさに溢れかえっていた。人に家を、自室を見せることなどあまり慣れていないこと、これから慣れて行かなければならないのだろう。近付くとともに、心を打つ脈が強く大きくなっていく。これから彼女を家に招待するのだ、不安はひとつやふたつでは済まされなくて喉を締め付けるような昏い気持ちが影を差す。

 味雲の心情など構うことなく時間が自然とふたりの身を味雲の家にまで流し込み、ドアは開かれた。

「ただいま」

 そう告げて靴を脱ぎ、そこで気が付いた。靴が一足多いということ。天音のものではないだろう、あの姉はいつも白くて安っぽい着物に草鞋か下駄を履いてやって来る。つまりは来客なのだが、想像も付かせない。

「どうしたの」

 霧葉の顔に書かれた疑問は尤もだった。自分の家に上がるだけでここまで困惑している人物などそうそう見かけない。

 味雲は小さくて薄茶色をした落ち着きつつも可愛らしい靴を差して、説明する。

「多分、他にも誰か来てる。靴が一足多いんだよな」

 とはいえ姉貴じゃないだろうし、そう付け加えてその口を閉じた。先ほどの想像のことに加えてもうひとつ。天音の足ならばもう少しサイズが大きくなければ入らない、簡単なことだった。

「て言っても誰が」

 考えたところで分からない予想はそこで打ち止めとして味雲は霧葉と共に家の中へと入って行った。

「お邪魔します」

 きっと招かれざる客、霧葉が歓迎される未来など想像できなかった。

 家に上がり込んだ先のリビングでソファに座ってテレビとにらめっこしている女。疲れ果てて老け込んだ女は味雲がいつも目にしている母の姿。母の顔が味雲の方へと向けられる。虚ろな顔をしていた。それからすぐ斜め後ろに立つ霧葉へと目が移され母の貌が変わり果てる。全てを呪う貌をしていた。

 何もかもが想像通りで味雲はあきれ返り乾いた笑いを浮かべる。

「あなた何でそれ連れて入って来たの」

 味雲を責め立てるように固い声色と尖った視線で迎えて、味雲からどう足掻いても否定一択の姿勢で言葉を引き出させる。

 勿論従って言葉を吐く他なかった。

「彼女を家に連れ込んだんだよ、この前怒ったことは本当にごめん、でもさやっぱり好きな人と付き合うことは」

「許さない、今すぐ別れなさい、そんな女」

 そう、味雲の母の心は己の考えという宗教一色に染め上げられていて、他の意見など聞く耳を持たなかった。

「だいたい誰があなたを育てたと思ってるの、私がいなかったら私の姪の世話にでもなってたのか」

 味雲の母の姪、つまり味雲からすれば年の離れた従姉弟に当たるだろう。確かにたまに会うのならば多少は可愛がってはくれていたものの毎日となれば扱いにも困ることだろう。中途半端に他人なのだから。

「味雲、いい? お母さんに感謝の想いを込めてルールには従いなさい、いいからそれとは二度と会わないで」

 見た目だけで性格までも嫌いだと勝手に判断すること、食わず嫌いもいいところだった。

 霧葉はそんな女の顔を眺めつつ、声を振り絞る。

「すみません、顔が気に食わないことは分かってるのですけど、ミクモのことはミクモ自身が決めることで、その、互いに愛し合ってるんです」

「だめ、そんな顔からそんな口から出てきた言葉なんか信用しないわ」

 美人との関係でなにか恨みを抱えるような出来事でもあったのだろうか。ここまで否定されてしまっては霧葉も味雲も口の出しようがなかった。

「そんなにウチの味雲と付き合いたかったらまずはその何でも隠せる上にすぐちやほやされるお得な顔を捨ててみせなさい」

 味雲の口は力なく開かれて塞がらない。味雲の目は見開かれて、瞳は泳いで揺れていた。霧葉は味雲の肩に手を置いて、微笑みながら答えた。

「それだけでいいんですか、分かりました。顔を崩すだけで一緒にいられるんですね」

 霧葉にとって味雲とはどのような存在なのだろう。自分で好きだと言っていた顔を穢し壊してまで一緒にいたいと思える人物なのだろうか。味雲は母に対して埃っぽくて底が仄暗い感情を向けて言葉を投げつけた。

「待って、それはおかしいだろ。わざわざ今ある姿を変えなきゃ一緒にいられないのは違うだろ、どんな見た目だったって受け入れてこそだろ」

 霧葉は一瞬目を見開き、やがて頬に帯びる熱に貌を蕩けさせ味雲の右肩に置いていた手を左肩にまで伸ばして回して顔を寄せた。

「やっぱり優しいね、流石私の大好きな人。真面目に私の見た目にも慣れてくれたものね、嬉しい」

「味雲、結局見た目なのね、あなたをそんな風に育てた覚えはないわ、だらしない男に育てた覚えなんて」

 母の睨みはあまりに色濃くて、人格の否定は酷に感じられた。味雲は大きく息を吸って、思い切り息を吐いて、再び息を大きく吸う。

「そうだね、母さんはいつでも俺には捻じれたことだけ教えてごはんも趣味も全く楽しませてくれなかったよね」

 母は違うの、お姉ちゃんに女の子に不自由はさせたくなかったから終わったら、そう述べ始めるものの、味雲の今の想い、地にしっかりと足を着いた視点、固まった心が揺らぐことなどなかった。

「終わったらっていつなんだよ、もう姉貴は社会人だし甘やかしてもないのに俺の扱いは変わってないだろ」

「そうかしら、ちゃんと教えること教えるようになったじゃないの、お金はお化粧とかシャンプーリンスその他にお酒とかその辺がもっと安くなってからね。こんな美人ばかり持て囃して化粧は礼儀とか言う社会がいけないの、シングルマザー泣かせよ」

 出て来る言葉の全てが味雲には普通すら許されないという事実を語っていた。後に回すなどという誤魔化しの言葉だけで全てを騙っていた。

「別にお金はいいよ、俺もその辺は分かってるしさ」

「ごめんなさい、誕生日すら祝ってあげられなくてごめんなさい、お誕生日、いつだったかしら」

 もはや誕生日すら覚えていないのか、味雲は乾いた呆れの表情を貼り付けて母の態度を震える声を見つめていた。あまりにも哀れで責め立てる気のひとつすら湧いてはくれなかった。

「別に俺は顔とかスタイルとか気にしてないし霧葉も痛いのとかお金かけてまでって感じだし、認めて。ただそれだけ」

 話を纏め上げようと言葉を振り絞ってはみるものの、母の表情からは納得の言葉ひとつたりとも理解の色の破片たりとも見て取ることが出来なかった。

 きっと永遠に分かり合うことの出来ない領域だったのだろう。

 これ以上は時間の無駄、霧葉もそう気づいたのだろう、味雲の指を優しく包むように握り、味雲の部屋へと向かおうとした。その時のことだった。姉の天音が住んでいた部屋がゆっくりと開く。優しくと呼ぶよりは力なくと表した方が正しいと思える心地、味雲の知る天音のような力なくも豪快さを芯に感じさせる具合いとは異なる感覚で開かれたドアから現れたのは背の低い少女だった。黒くてさらさらとした艶のある髪にやつれた様子が窺える瞳は細められ、目の下には永遠に消えそうにもない深くて濃いくまが刻み込まれていた。少女の顔に微かな記憶の残滓は何かを訴えては来るものの、味雲にはその正体を掴むことが出来ない。曖昧の塊に埋められたその姿は人々の目にはどのように映っているのだろうか、表情はどのようなカタチを持っているように見えるのだろうか。

「あら、出て来たのね」

 母はしっかりと微笑んで、仮初めの表情を化粧のように塗りたくって創り上げた貌で迎えていた。

「ん、ああ、私も寝てばかりじゃいられない」

 なに故に寝てばかりだったのだろうか、母から説明が入る。

「この子覚えてる? あなたの姪よ、霊が視え過ぎて夜も眠れないって言って精神科の先生たちもお手上げの子」

 姪は目を伏して低くて大人しい声で味雲に言葉を掛けた。

「私は中二になった、味雲さんは高二だったか」

「お、おうそうだな」

 姪の全体を目に捉える。全体的に細々としていて弱々しく感じられるのは霊が見えて参っているせいだろうか。中学生という若々しさの象徴に身を置きながらさながら社会人のような疲れようだった。

「中二か、ついこの前みたいだなあ。気でも抜いて生きてたら中二がついこの前の中年なりそうだな」

 霧葉は味雲に対して行なったことと同じように姪の手も包み込むように握り、ふたりを連れて味雲の部屋へと入って行った。

「ここがミクモの部屋……私のステキなカレが過ごす場所かしら」

 特に否定できる言葉など見当たらない、それは間違いなかったものの、とりあえず何か言い返したくて頭の中を泳ぐ語彙を擦るように触れ続ける。

「過ごすって言ってもほぼベッドにしか用ないけどな、勉強道具の倉庫で寝所ってとこ」

 霧葉は閉められたドアの向こう、味雲の母の方に目を向けた。

「そうね、私みたいなキラキラしたカノジョいてあのどんよりお母さん。仕方ないものね」

「いや話してみたらキラキラとは程遠くないか」

「そういうことじゃないわ」

 外見のことだろう、流石の味雲でもそれは理解できていた。

 ベッドと学習机とカーテン服がかかっているハンガー、季節によって使われない服を仕舞うためのタンス、ただそれだけ、娯楽のひとつもない部屋だった。

 姪が見渡した部屋の中、呆れた瞳は感情がそのまま出てしまったもののようで思わず言葉をこぼしてしまっていた。

「天音の部屋と全然違う」

 味雲にも分かっていた、天音に対して手渡されていた小遣いはきっと味雲とは大いに異なる生活の質をもたらしたであろう。資本主義国家、何を手に入れようにも殆どどこか片隅だけでも金が付き纏う国。金すらない味雲、学校の規則でアルバイトすら許されなくて殆ど食費しかもらえない身分としては世間に流行り蔓延る娯楽を何ひとつ味わえないまま生きるしかなかった。学校の規則を破ってアルバイトをしたところで万一知られてしまっては後がない、家庭環境はそうした危機感の想像に関する知識はしっかりと叩き込んでいた。

「何もない」

「だろうな、あの母さんだし」

 なにを頼んだところで男だからという理由で冷遇されてしまう。こればかりは変えようもなかった。この家庭においてはどのような変革の言葉も届きそうになかった。

「でもさ、慣れたら普通に楽しいよ、散歩とか景色眺めたりとか」

 カメラもなければスケッチブックもない、勉強用のノートすら食費の余りで購入と言われてしまっては贅沢など許されるはずもなかった。

「つまり、ただ歩いて自然を見てるだけってことか」

 姪の言葉に間違いはなくてただ一度頷くだけ。姪は天音の部屋を思い返しながら想いを言葉にした。

「それはダメと思わないか、天姉は普通にマンガとか取り揃えてるんだけど、不公平だ」

 姪の意見には頷いて母にまで伝えるだけの価値はあるものの、その価値を理解できない聞き手には何を言っても無駄だろう。別に悪いものでもない人間関係にまで言葉を刺す女の耳に流し込んだところで全て反対の耳から流れ落ちて何も残さないだろうから。

 霧葉の目には影が差し込んでいた。潤いがあって優しい輝きを持っていたはずの眼から、優しい感情が一切失われてしまっていた。

 味雲は慌てて背筋を伸ばして両手を振って話題を別のものへと取り換え始めた。

「俺のことはいいから、霧葉、この子まで連れ込んだのは何で?」

 椅子に腰かけてその太ももの上に味雲の姪を座らせて、艶のある絹のような黒髪をしっかりと目に焼き付けつつ姪に訊ねる。

「霊が見える、ただそれだけなんでしょう」

 突然現れた話題の衝撃に味雲は一瞬肩をぶるりと震わせた。

「そう、私の目には視える、ううん、視えるというより感じてるか、音を見るように、香りに触れるように」

 かつての域人が遺した断末魔を様々な感覚で拾い上げる、味雲には考えられないようなことだった。

「見えるだけでなくて全身で感じているのかしら」

 しかし、味雲の姪の超人的な霊視能力に対して対処能力は無に等しいのだという。つまり、いることだけがひしひしと伝わり、悪霊相手だったとしてもそれをどうすることも出来ないのだという。

「つまり否応なしに視界に映り込んでは霊障を浴びせられ続けてきたのがこの子ってこと」

 かわいそうでしょ。そう訊ねられて味雲はその首を縦に振ること以外なにも思い浮かばなかった。気の利いた答えが用意できるなら、そう思うと煮えるように這いずるように上がって来る薄暗い感情に支配され始めていた。

 味雲の顔を見てだろうか、霧葉は微笑んで味雲の手を引っ張る。

「はい、姪ちゃんサンド」

 味雲にはとてもではないが笑い飛ばすことの出来ないギャグだった。心を迸り、トゲを刺し込み続ける気まずさの茨、恥ずかしさは華やかなバラを咲かせてますます恥ずかしさを増して行って、昔のようには姪とも関わることが出来ないのだと心の底から実感していた。年頃の少女、付き合っているわけでもないその身体に触れることすら心は許さなかった。

 湧いて来た否定的な想いは留まることを知らずに容赦なく溢れ続ける。ため息をついてどうにか誤魔化しながら、言葉を紡いでいった。

「やっぱバカだろ」

 悟らせず意志をどうにか込めて口にしたそれは霧葉を満面の笑みへと誘った。

「バカね、確かに今は馬鹿。でもそれでいいんじゃないかしら」

 笑顔という色を霧葉に振る舞うために提供した言葉ではなかったはず、そう思い返すだけで、更なるため息をついた。同じ行動に同じ感情、おかわりのしすぎで飽きてしまいそうだった。

 姪に密着していた身体を引き離し、妙な気分転換を無理やり与えられた心で味雲はわざとらしく作った微笑みを見せながら大切な話の続きを、進めるべき道を繋ぎ続けた。

「で、霊が視えるだけの子で生活に支障をきたしてそうだから俺の部屋に連れ込んだってことかな」

 正解、そう言い放つ霧葉の目つきはあまりにも堂々としていて感情をしっかりはっきりと読み取ることが出来ないでいた。

――多分、あれは深いことは何も考えてないな

 その場の感情、行き当たりばったりの気持ちで重要なことを進めている姿はどこか釣り合わないように思えた。というよりは、文字通り釣り合わない質感だった。

「俺は相談に乗ってあげられるか分からないけど、霧葉は」

 そう言っている途中のことだった、霧葉は訊ねられるのを待つまでもなく首を左右に振っていた。

 それから姪が霧葉の膝の上で話す姿を何処か微笑ましく思いつつ、何もしてあげられないことに胸を痛めていた。

「初めてこの世のモノじゃない、幽霊とか呼ばれるのを見たのは幼稚園に入るより前だったか」

 その時何者か分からない存在、明らかに存在が希薄であるにもかかわらず影が濃くて普通ではないモノを視てしまったのだという。それは冬であれどもお構いなしに半袖の薄手のTシャツを一枚着てジーパンを履いた男が表情を影に溶かして感情を見せないまま手招きをする姿だった。特に何かを語るわけでもなくただ白黒を思わせる感情の乏しさでひたすらゆっくりのろのろと手招きをする姿はあまりにも不気味だったのだという。

 それ以来、ヒトと異形の差を簡単に見分けつつもあまりにも鮮明に全身で感じ取ることの出来るそれ相手を捉えることに大きな疲れを抱きながら生きていたのだという。

 特に学校では同じくらいの歳の子がよく遊びに誘って来ることがあり、断り振り払う労力を獲得し、体育の時間にはやんちゃな幽霊が人の速さでは有り得ない速度で走りながら寄って来るのを無視することなどに限界を感じて保健室にまで駆けて、そこでも弱り果てて痛々しい様の子どもの霊の姿を目にして布団に潜り込んでしまったこともあるそうだ。

 姪は過去話をここで区切って己の当時の予想とそれに対する現実の裏切りを語る。

「噂に聞いた程度なんだが、成長と共に霊感は薄れていくって聞いてさ。凄く期待したんだ。いつかその悪夢は終わりを告げるってな」

 味雲も霧葉も態度だけはお揃いで何も言葉を返すことが出来ずにいた。姪は呆れ気味に笑いながら感情をこの部屋の空気の中に刻み込み綴る。

「でもさ、現実って非常だね。無くなるどころかますます強くなってくばっかで。今じゃあこの世に残された死者の姿が残り香のように香るのか離れてるのに肌で触れてるのか存在を自然と思ってるのか目で見てるのかそこにいることを聞いてるのか、さっぱりわからないんだ」

 勝手に視えてしまうが為に人生を狂わされてしまった少女のあまりにも重い話にふたりの口は塞がったまま開くこともない。

 姪が当時最も許せなかったのは霊感があるふりをして人々を騙す偽者、男子に多かったそれの話を聞くだけでも怒りが募って仕方がなかったのだという。

 男子が「ここにオバケがいるんだ」と言って右手を指している一方でぶら下がっている左手に懸命に触れようとしている霊がいたときには胸の鼓動ががくがくと不吉な震えを起こしていた。何も霊は悪い物ばかりではない、未練を持った者が遺ることが殆どでその未練は無念が多いために悪い存在が目立つだけで純粋な霊もこの世にはいる。その時男の子の手を取ろうとしていた霊は一緒に遊びたいといった意思表示をしていたようだった。

 今でこそ分かるものの、当時は幼かった上に霊的なモノだというだけで必要以上に避けていたが為に一緒に遊ぶなどと狂ったことを述べるつもりなど一切起きなかった。

「それが私の過去で、今も霊を感じ取れる自分が少し憎いんだ」

 それが本音なのだというのなら、なんて普通の大人だろうか。学年が三つも上の霧葉や味雲は飽く迄もこの世ならざる者との接触を自ら行ってきた。それも対処法のひとつではあるものの、そうした姿勢こそが今の霧葉のように仕事を生んでいるものの、味雲の姪の大人のような振る舞いの巧さには遠く及ばない気がしていた。霧葉は、姪の小さな身体を膝に乗せたまましっかりと抱き締める。

 こんなにも近くにいるというのに、何処までも遠くへ、彼女は手を伸ばしても届かない程先へと進んでいるような気がしていた。

 胸の下あたりに手を回されて抱かれる少女は分厚いくまが刻み込まれた瞳を優しく細めて言葉を混ぜ込み始めた。

「聞いてくれてありがとう、少しだけ気が楽になった」

 回し抱き締めている霧葉の右腕は姪の手によって剥がされて抱えるように抱き締められた。甘えるようにも見えるその仕草はオトナのように想えていた少女が歳相応の子だということを気付かせる。温もりある優しさに身を委ね切って霧葉は左手で身体の温もりを感じ続けていた。

「凄く優しくて暖かい……何も答えてあげられなかったし対処方法も知らないけど、救いになれたならうれしい」

 きっと姪はこの孤独な感覚の苦しみ、人より見える世界が広いためにヒトより狭くなってしまった世界で今の感情を分かち合える人物を知らなかったのだろう。

 気を楽にして話すことの出来る人物がそこにいるだけで孤独から解放される、それがどれほど大切なことなのか、姪は身に染みて感じていた。今の想いの温もりに浸かり続けて霧葉と味雲のふたりと一緒にいられる甘い時間を啜り続けていた。


 もっと長く、出来るだけ長く、ずっと、そのままで。


 その感情に対する欲はそこで味わう想いへの恋しさを生んでいた。この時間との、仲間との別れが嫌いで仕方がなかった。

 窓の外へと視線を移し、変わらぬ景色を今までとは変わった瞳に映す。そこに広がるのはいつも通りに訪れた夜の暗黒ありきの空模様。つまりは静かな晴れ空。明るみの中でも孤独を感じ続けていた少女はその暗闇の中に仲間の存在を見つめていた。

「私は、ひとりじゃないんだ」

 ぽつりと、ほろりと言葉と共に頬を伝う涙が零れ落ちる。それはこのセカイの今の中では唯一の雨日和。屋内で降り注いだ天気雨はきっと彼女の心を晴れ空へと導いてくれることだろう。


 それから時を経ることニ十分ほど。時計を確認してリビングへと三人揃って向かって行った。

 そんな彼らを迎えたのは妙に明るい笑顔の女、味雲の母だった。テーブルには三人分の食器が用意されていて、誰が数えられていないのかは過去のやり取りが、晴れやかな笑顔がしっかりと物語っていた。

 そうして浮かべられた笑顔だったが、姪の姿を目にした途端、目にも止まらない速度で凍り付き、気が付けば固い声で述べていた。

「大丈夫かしら。目が赤いわ、そこのソイツにいじめられたのでしょう」

 人差し指が向けられたそこに立っていたのは長くて艶のある黒髪を誇らしげに伸ばした美しい顔をした少女だった。

 姪は涙の痕跡を誤魔化すようにくまが特徴的な瞳を閉じて首を左右に振る。

「違う、私は霧葉さんに救ってもらったんだよ」

 霧葉が部屋に連れ込む前とは打って変わって明るみに染められて弾んだ声をしていた。きっと少しは気が楽になったのだろう。元々の大人しさは抜け切れていないものの、少しだけ声が高くなっていた。

「霧葉さんじゃなくて霧葉って呼んでもらえないかしら。私の数少ない友だちなんだから」

 霧葉が挟み込んだ言葉に心を回され頷く。緊張はほころび、気の抜けた笑顔が花びらのように可憐に開いた。

「そうだね、霧葉」

 母にも笑顔は向けられて、姪は優しい様を見せて、強い意志を魅せてしっかりと頼み込んだ。

「どうか霧葉のことを認めてあげて。凄くいい人だから」

 私に笑顔を与えてくれた人だから。言葉を引いて味気ない部屋に華やかな想いを塗り付ける。

「だよな、俺のことも笑顔にさせてくれたからな。霧葉って心の底から綺麗な人だよな」

「そうだねえ、味雲兄ちゃ」

「相変わらず兄ちゃで止めるんだな、にしても霧葉って」

「ちょっと、恥ずかし」

 そうして雨空家の母にも無理やり認めさせられた霧葉という美人。悲しみに歪められたその瞳から、少しだけ澱みが抜け落ちた。そんな気がしていた。

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