第9話 恋人『味雲と霧葉』の夏祭り

 味雲の母が笑顔で味雲に手を振る。

「行ってらっしゃい、パンは霧葉ちゃんにも分けてあげてね」

 無理やり貼り付けたような顔と声はいつまでもつのだろう。感情はねじ伏せて親切を優先する姿は少しだけ同情できた。

 味雲がドアを開いて足を踏み出すと共に声が届いて来た。

「おはあ、ミクモ」

 低い枯れ声を発しながら、その声に明るい感情を乗せながら、きっと過去の悲しみに歪められたその瞳を嬉々とした感情で明るく歪めて歩み寄り、味雲の手を取った。

「霧葉ちゃんいらっしゃい、今日も輝いてるね」

「ありがとうお母さま、ミクモのことは絶対に幸せに、ううん違うね」

 一緒に幸せを分け合ってふたりで幸せになるから。そう続けられた。

 どうやら味雲の母は一応霧葉のことを認めているらしい。その笑顔の裏の感情は暗闇の中に隠されているものの、昔のように美人だからとなりふり構わず否定することはやめたようで味雲はほっと一息ついたのだった。

 霧葉の声はどう足掻いても枯れ声であまり響かずに静かな朝には心地が良すぎる。いつまでも会話を紡ぎ続けていたい気分だった。

「今日も授業終わったら遊びにいらっしゃい」

「ありがとう、今日も寄るわね」

 ふたりは背を向けて歩き始めた。向かう先はいつも通りの授業が待っているはずの学校で、特に楽しい出来事は多くもなかったものの自分から進んで行ってますという姿勢と偽りの心を本心とした前提で授業が受けたくてたまらないという意思表示を無理やり示させられる場所。

 味雲は歩きながら一瞬後ろを向いた。未だにドアは開いていて、母が優しく手を振っていた。

 味雲は母の過去の発言と態度を脳裏で回しながら霧葉に訊ねる。

「母さんと仲いいのか」

 霧葉は澄んだ空気の清らかさ顔負けの爽やかな微笑みを口に浮かべ、しっかりと答えた。

「仲いいよ、一緒に買い物して料理を教えるくらい」

 味雲は頭の中を回り続ける過去の中に最近の家庭の献立を織り交ぜた。明らかに不器用な手料理が増えていて、全てが霧葉のおかげなのだと知って、笑ってみせた。

「霧葉が教えてたんだな、ありがとう」

「どうも。でも礼はいいかな、だって優しいあの人とは友だちだし」

 味雲の知らない間に様々な心情や状況が塗り替えられて行く。気がついた時には既に大きな変化が起こったあとのこと。

 これから社会に出たならば常にこうした出来事とは隣り合わせの顔見知りなのだろう。出来事を知らないなどという事実と知り合いになるなど味雲としてはあまりいい気持ではなかった。

 時は八月、アジサイの花は枯れ果てて、空を覆い尽くすものは耳を突くセミの忌々しい声。見えなければただの雑音、見えたところで初めて気分を害するその姿を思ってしまう。家を出る時にはささやかながらにしか届いて来なかったセミのけたたましい鳴き声が声の揃わぬ大合唱を行なっていて、耳を潰そうとばかりに叩きつけて来る。

 既に夏休みなどと呼ばれている長期休暇を得ているはずがふたりにとっては授業時間が半分になるだけの登校日に過ぎなかった。空は青く焼き付けられて、太陽から注がれた光は大地をも焦がす。遠くで揺らめく空気は水のようだが歩くと共に遠ざかって行く様は生きているようにも思えた。

「ミクモ、八月ね」

「ああ、そうだけど」

 相づちを打ちながら霧葉の言葉にしっかりと耳を澄ます。低くて枯れた声ではセミの声の圧に圧し負けてかき消されてしまいそうだった。それ程までに響きが弱い、それは心の底の色の現われなのだろうか。過去を知ってしまった味雲にはどうしてもそうだとしか思えなかった。

 周囲の迷惑、自然からの邪魔に対抗するつもりが無いのか抵抗する力はあまりないのか、霧葉の声は相変わらずの響きの悪さを保ったまま会話を繋いでいった。

「明日お祭りあるんだけどね、一緒に行きましょう」

 味雲は空を仰いだ。祭りの季節、これまでの思い出が語ることによればそれは年端の行かぬ少年少女であれば自転車に乗って向かう程の、そこそこの距離を稼いでそれなりの時間を消費してようやく行ける大きな公園で行われる花火大会だろう。味雲は毎年行くことが叶わず窓から暗闇に染まった空に咲く大輪の光の花を眺めていた。姉の天音と母はふたりでバスでも使って行っていたのだろう。味雲の印象では毎年のようにふたり酔いに足をもつれさせながら、顔を赤くして不安定な声と心を携えて帰って来ていた。

「そういや行ったことないな、母さんと姉は行ってたけど俺は留守番させられてたし」

 今なら理解できた。きっと出店で売られているものがどれも高くつく上に近くの外食でもいつもの食事より心なしか金が出て行ってしまうためだろう。節約のためにひとり躾の壁に覆われ閉じ込められて何もさせてもらえなかったのだということ。

 昏くて澱んだ物思いに耽る様をしっかりと見届けた上でだろう。ちょうど視線が動いた途端、霧葉は言葉を挟み込む。

「大丈夫、今年は私と一緒だから。ミクモのお母さんも謝ってたわ」

 そこからひと息置いて続けられた言葉、それを耳にして味雲は目を見開いて顔を赤くした。どうやら謝っただけではなかったようだった。

「あと頼まれた。ミクモに何もしてあげられなかったから、酷いことばかりしちゃったから代わりにいっぱい思い出を作ってあげてって」

 そう言っていたのが本当に母なのか、過去を見て来た自身がどうしても疑ってしまう。味雲に対しては放置と言っても過言ではない対応ばかり取っていたあの母が、あれだけ美人が苦手だと言っていたあの女がそのような反応を普通に行なう図。

 思い浮かべただけでもセピア色の違和感が肌を撫でて鳥肌を演奏し始めてしまう。

「ミクモの姪には感謝だね」

「え、なにそれ」

 味雲は耳を疑った。あの弱そうな姪が母に如何なる色合いの言葉を吹き込んだのだろうか。

「あの子が私を命の恩人だってしっかりと聞かせて納得させてくれたの。顔が良いとか悪いとかじゃなくて『目の前の人のことを』しっかり見てあげてって」

 おまけに味雲のことも話したらしい。あの生活では潰れる一方だという言葉、果たしてその通りなのだろうか。

 味雲には実感が湧かなかった。ここまで無事なのだからこれからも無事、流行にとらわれない、自分は慎ましく生きているなどといった立派にも見える言葉を書いたラベルを貼り付けた態度を取ることで変人扱いされる。それだけで済むのではないだろうかと希望を持っていたものの、学校生活にどうにか馴染んでいた姪から言わせればそこまで甘い話でもないのだそう。

 心の支えなど霧葉がいるのだからそれで充分、そんな態度を塗り付けてもいた。

「私も思うわ、色々知っていた方が知らないよりはお得だし、世界はこれだけじゃないんだって実感して味わう程人生の味は上等になってくんだと思う」

 味雲は与えられた教育を経て心に過ちを刷り込んでいたのだと気づいた。過ちが刷り込まれた心から出て来る行動は底が浅くて見苦しいものなのかも知れない。自身の歩む静かな低評価の道を想像しただけで身震いが止まらなかった。

 歩き続けて見えて来た学校。焼き付くような爽やかな空の青を背景として建つ姿はあまりにも絶望的だった。

 日頃の半分から三分の二だけとはいえ授業で時間が溶けていく。初めから休ませるつもりなどない、盆の時期には集中学習期間と称して更に授業を詰め込むのだろう。そこに大量の宿題。

 勉強以外のことも大事だと頭の輝きを誇らしげに惜しみなく見せつける校長は語っていたものの、初めから勉強以外のことを行なわせる時間など与えるつもりはないのではないだろうか、そうとしか思えなかった。

「夏休みの宿題だけじゃなくて毎日授業の宿題も出るんだよな」

 言っていることと実行していることの差に呆れた笑いしか出てこなかった。季節性の乾いた風は味雲から零れ落ちた乾いた笑いを巻き込み吹き飛ばしながら生温い手で空気の熱をかき混ぜた。

 大きく息を吸って吐いて、薄暗い想いと呆れから来る笑いを吐き出して、空に咲く大輪のヒマワリを見つめ、目を細める。その輝きは眩しすぎて、自身の想いとは反対側の世界に居るのだと思い知った。

 どのような態度を装ってみても如何なる心持ちで向き合おうとしても、味雲のやる気など湧いては来ない。一年前にも同じ流れを味わったが為に予想は出来ていたものの、それでもやはり心は沈んだまま。

 想いに答えて重くなる足をどうにか引っ張り引きずるようによろめき歩き授業という心に立ちはだかる大きな壁と向き合うこととした。

 やる気のなさを誤魔化しつつも明らかにやる気のない顔は誤魔化せないでいるだろう。確認するまでもなく分かることだった。教師はなぜ平静を装い続けることが出来るのだろう。心を上手く隠し通して授業を進める姿、建て前の仮面を手に入れ使いこなすということが大人になることだというのならば、味雲には決してたどり着くことの出来ない境地のように思えた。それ程までに己とは遠い存在だと思えて仕方がなかった。

 流れるように授業は進む中で、味雲は周囲を見渡していた。

 本気で授業に取り組む人物が一部だけ存在する中で大半はやる気の欠片もないと言った様子。ひそひそと話す男子たちの声が品もなく控えめに響いていた。小さな手鏡を手に、髪をいじる女子は仕草だけは通勤列車に乗る社会人への偏見の姿のようで今の状況との釣り合いの取れなさは滑稽の言葉がぴたりとあてはまる形をしていた。真剣に聞いている人々はそもそも苦にも思っていないだろう。

 ちょうど目の前の教師のようにきっと飽きたであろう説明を、感情を表情に示すことなく話し抜ける姿の面影を持つ人物などいなかった。味雲はそうした大人と呼ぶに相応しい想いを持ってこの世に臨む同世代の姿を一目見ていたくて堪らなかった。

「そこ、うるさいぞ」

 大声を上げる教師の言葉の大きさに味雲は肩を一瞬だけ激しく震わせる。一方で怒鳴りつけられた三人程の生徒はつまらないのがいけない、夏休みまで削って学校とか休みの意味ねえ、何のための休暇だ。などと屁理屈と愚痴をこね回し続けていた。きっと心の底からねじ曲がった普通の人間なのだろう。味雲はきっとストレスを毎日溜め込み続けている教師に向かって心の中で拝んで黒板に書かれた文字をノートに書き写す。

 やはり味雲の思う大人というものは見当たらない、成長や仕事の経験という過程で身に着くものなのだろうか。

 欠伸を噛み殺しながらどうにか乗り切った授業、休憩時間には人々が異様に騒ぎ立てるがその喧騒がどうにも愉快でなにがどのようにか把握は出来なかったものの何処か心地が良かった。

 しばらくの間心を乗せて和んでいたものの、休みの喧騒は次第に鎮まり収まり消えて行く。やがて訪れた休みの途切れ、授業の始まり。

 教師はチョークを手にして数字と幾何学模様にも思える記号を書き連ね始める。味雲は読み取るだけで精いっぱいだったものの、隅々まで軽々と分かり尽くす人物もいるのだろうか。味雲には想像も付かない世界、無知は明らかに今の生活そのものを侵食して悪しき結果を生み落としていた。

 教師の話に耳を傾ける。語られる言葉の意味をどれだけ把握できるのか、それを知るだけで自身の理解度の下振れだけは簡単に頭に留め置くことが出来た。問題は上振れ、どれほどの難しさまでなら理解できるのか、意外と測ることが出来ないものだった、理解しようとするのに必死だからだろうか。

 そうして頭を必死に回して受け続けた授業もまた、幕を閉じた。

 途切れていた休憩時間は再び繋がれる。教師だけが話していた授業中、個の力ではどうにも破られなかった静寂はいとも容易く掻き消えてしまう。

 喧騒によって緊張と集中力は溶け込んで、騒がしさに肩まで浸かってゆったりとくつろぎながら霧葉のことを想う。

――祭り、楽しみだな

 霧葉はどのような貌をするのだろうか、どのように喜んでどのように笑ってどのような声の弾ませ方でどのような言葉を耳に流し込むのだろう。

 味雲の中で膨らみ続ける妄想など誰も見てはいなかった。このまま誰にも見抜かれないまま放っておかれるのだろうか。寧ろその方がいい、その結論に達していた。今騒いでいる人物の大半は特に具体的な恨みも真っ当な理由もなしに霧葉を異物として嫌っているのだ、もしも知られたとして取られ返される反応など冷たいものしか思い浮かばなかった。誰も見てくれない方が幾程でも良い、そう思えていた。

 霧葉が花火の彩りに輝く姿、花火に目を輝かせる姿、暗闇の中で互いに輝かせ合うことを期待して待ち続ける。明日が来るのが待ち遠しくて仕方がなかった。

 そうした想いの余韻は授業が始まっても尚、残り続ける。綺麗な音を、澄んでいて弱々しく思えるものでありながらも強さはしっかりと自分が主役だと言い張り出て来る。

 そうした感情の動きに身を任せて動く人生も悪くはない、本気でそう思えていた。

 余計な考えを同行させながら授業という時を、教師の声をバックグラウンドで再生させながら過ごしてお仕舞いへと向かって大あくび。

 やがて訪れた昼休み、味雲はこの時間というものに青春と苦々しくてとげとげとした視線のふたつを感じ取っていた。

「明日の祭りのことだけどさ」

 味雲に訊ねられて霧葉は悲しみの痕跡に引きずられた瞳に弱々しく見える笑みを浮かべることで本心を見せながら言葉にして、意思を分かち合う呪文にした。

「ふふ、楽しみよね、夕方集合で」

 あまりにもスムーズに進んだ話、今日の空は未だ青の真っただ中で、太陽は元気に満ち溢れていた。気持ちが溢れ出て外にいることがツラいと感じてしまう程の強烈のひと言で言い表せる光が射し込み熱を刺し込む。

「暑い……しんどいよな」

 味雲がふとこぼした言葉に霧葉は純粋な表情で頷き答えた。

「だよなあ、ってか声も出ない程か」

 霧葉は黙ったまま頷く。気のせいではないことくらいは味雲にも分かっていることだった。そもそも口が動いていないのだから。

 セミの鳴き声が騒がしくて、その声量は熱気となってふたりの、否、少人数には留まることなく街中の人々の心を叩き、負担を幾重にも重ねて溜め込んでいた。

「なんて言うかあんまりにもセミうるさいし暑いし頭痛くなってきたな」

 味雲の言葉に声もなく同調するのみ。霧葉の態度に対して疲れだろうかと気にかけ肩に手を回して抱き寄せて、髪に息がかかるほどの距離で訊ねてみせた。

「やっぱきついよな、早く霧葉の家に行って休むか」

 味雲は寄らない、そう続けて霧葉の頬が不満の色に染まり力が入るのを目にした。

「ミクモも一緒に休もうよ」

 枯れた声はいつになく力が抜けていて、聞くだけでもどこか罪悪感が湧いてきてしまう。疲れを隠す気のひとつもない彼女と一緒に歩きながら言葉を繋いで吊るして。

「そんなに疲れてるならすぐ休んで。明日一緒に祭り行けないのが一番ヤだからさ」

 味雲にとっては初めての夏祭り。テレビの画面越しの賑わいとクラスメイトの話、窓から覗いた花火の姿だけしか知らなくて、空気感に触れたことも屋台を見たこともなくて。


 やっぱ俺、なんにもない空っぽに育てられてそれで母さんたちは楽な生活してたんだな


 気が付いたところでもう遅い。この歳になっても馴染むことが出来るのだろうか。遅いからこそ楽しみの裏を這い回る不安が激しく息を吸っては吐いてその存在を大きく主張していた。

 時を取り返すことなど出来ないのだから、取り返しのつかない差でないことだけを慎重に祈りつつ、霧葉を家にまで送り、味雲は手を振って笑顔を咲かせていた。

「明日、楽しみだな」

 霧葉は別れが惜しいといった様子でいつまでも立ち尽くして中へと入る気配がない。

「待った、俺には何も出来」

「夕方まででいいから」

 それ以上は要らない、言葉は十分に伝わり味雲は霧葉の言葉と本心に完敗して霧葉の家に共に上がり込み、霧葉の母にお辞儀をしながらお邪魔しますのひと言だけを伝えて靴を脱ぐ。

「着替えるからミクモはそこで待ってて」

 霧葉が指したのは何故か廊下だった。それもど真ん中、母か叔父が通るのならば確実に邪魔になるだろう。それこそ改めてお邪魔してますという羽目になってしまう。

「着替え終わるまで絶対上がって来ないでね、エッチなミクモ」

「流石に分かってる、あとエッチは……」

 否定の言葉を放とうとしたものの、まるで全てが嘘のように思えて仕方がなかった。言葉を返そうという意志は弱り果てて宙へと霧散して煙のように薄くなってやがては消える。

 霧葉が上がって行ったあと、母がニヤニヤといやらしい笑顔を浮かべながら二階へと続く階段を指していた。何度も指をふりふりと動かしながら執拗に指し示し続けていた。その階段を辿って上がれば霧葉の部屋が待っていることなど明白だった。

「ちょっ、母親としてサイテーだな」

「サイコーにサイテーでしょ」

 冗談でも許されない。自覚あってやっている時点で行っても治らないだろう。

「あの子お茶目でしょ、私に似て」

「ああ……はい」

 言葉を濁して乾いた笑いで愛想を作る。塗り固めた嘘の泡の渦に包まれた本音を見ればそこには茶目どころかアホっぽいですよと書かれていた。それもびっしりと黒々とした塊のように大量に。味雲は母の目を見つめながらこう語る。

「昔のことには触れないようにしてます、多分誰も幸せになれないので」

 手首を切りつけていたなどという話、味雲には重すぎて背負いきれる代物ではない、そう思っていた。

「どうかしらね、そう言ってるタイミングに自白されるかも知れないじゃない」

 霧葉が降りて来て味雲を上げる。念願のふたりの時間、しかし霧葉の母が伝えた言葉がいつまでも刺さって残り続けて中々思っていたような楽しさにまで行き着かなかった。

 気の抜けた部屋着、艶めかしい脚がしっかりと見える丈の短い黒くて薄くて柔らかそうでゆったりとしたチノパンがいい仕事をしていて追憶と混ざり合ってひと言ひと言が妙な刺さり方をしていた。

 それから次の日、吹いて来る朝の風が爽やかで青空によく似合っていた。熱の気配は見え隠れして、性懲りもなく襲ってくるのだろう。

 味雲はきっとすぐ隣、一歩外側の時間の中にて控えているしんどい熱に身構えながら母のすぐ傍へと歩みを進めて欠伸を交えつつ挨拶をして、朝の始まり。

 簡単な朝食を済ませて髪を櫛で簡単に梳いて、自身の来ている服を確認する。暑さがもうすぐそこまで来ていることなど分かり切っているため、汗の跡が塩となって模様を描く黒い服は避けて、薄い灰色の服を纏う。英文が筆記体で書かれていて少しばかり洒落ていて気に入っているそれをデートに着ていく程の自信はなかったものの、他の服はもっと自信がなかった。味雲はそのシャツに書かれた言葉の意味を知った時、絶対に好きなことが出来る日にしか着ないと心に決めていた。

「したいことをしろ、雑な言葉遣いらしいけど今ほど心に似合う瞬間は他にないよな」

 呟きは部屋の中、ひっそりと滴り落ちて行った。霧葉とのデート、そこから夜に祭りへと続く。愛している人と遠目に憧れていた出来事の世界へと入り込む。やはり今という時間が人生で最もしたいことが出来る瞬間なのだろう。

 家を出て、霧葉との待ち合わせの場所にて味雲はコーヒーを啜る。親からもらった小遣いは味雲がこれまで一度に外に持ち出した金額の中で最も大きなものだった。

 いつも千円札を一枚かお釣りの小銭のみを手に食堂で昼ごはんを頼むか余った金額でなけなしの娯楽程度しか選択肢がなかったため持ち出す金額は常に少なめにしていたのだった。

 味雲は今日、人生で初めてコンビニでコーヒーを買ったのだった。

 朝の日差しが容赦という言葉を忘れ始めた頃に霧葉の姿を目にした。白のブラウスは清楚ながらも霧葉の身体の艶めかしい気配を全くもって隠しきれていなかった。

「あはあ、ミクモ」

 小ぶりな仕草で手を振りながら微笑むその姿は味雲の心の中に小さな花を咲かせていた。近付いて鼻で感じるのは微かに残った日焼け止めの香り、しっかりと整えられた髪。化粧こそはしていなかったものの、充分すぎる美しさと努力の痕跡をきっちりと見て取らせる塩梅は不器用の表れか狙って醸し出したものか。

「おはぁ」

 同じように挨拶を返そうとしたものの、ほんのりと駆け巡る照れの熱が声を次第に抑えて語尾は今にも消え行ってしまいそうだった。

「そんなに照れないで欲しいわ。ミクモは自然に可愛らしく振舞った方が似合うと思うの」

 男相手に何を求めているのだろう、カッコよさには期待が無いのだろうか。

「私みたいな美人さんに柔らかな彼氏、なんだかほんわかしてこないかしら」

 言われてみればと納得を示し始めてふと気が付いた。やはりカッコよさなど初めから期待されていないということ。男として見られていないような気分に、気持ちが薄っすらとした膜になって心の芯が覆われて締められて、行き場のない感情が漂っていた。

 味雲はぽつりと呟くように訊ねた。

「俺みたいにカッコよさの欠片もない男でいいのか。霧葉くらい綺麗なら」

「やだ、カッコいい男って結局どこかゴツゴツしてるの」

 本人曰く、自分がしっかりくっきりした見た目な為ふんわりした空気感を持った男が良いのだそう。

「それよりホントのカッコよさはね、ここの中にあるんじゃないかしら」

 そう述べて霧葉の白い腕は伸びて細くて綺麗な指が味雲の胸に当てられる。

「ケンカが強いとか殴り飛ばしてやったとか、身の周りの男たちってなにか勘違いしてないかしら」

 きっとそれもまたひとつの勘違い。何もかもが正しくて何もかもが間違いで全てが人それぞれの価値観でちぐはぐ、世界などというモノはその程度の曖昧なものでしかなかった。

 それからの出かけで時間は長く感じつつもみるみるうちに削れて行っていつの間にか夜と名付けられた闇と煌めきによって自然が空に描くアートが展開されていた。

 ふたりバスに乗って公園へと向かう。そのままの装いでという事実に味雲は恥ずかしさを覚えた。霧葉が着物を優雅に着飾った姿と大人っぽい立ち姿を想像していたものの、そう言ったものは幻を想う行為に過ぎなかったようだ。

 わたあめを買い、焼き鳥を噛み締めタコ焼きを分け合う。闇に視界が多少閉ざされた空間の中で頼りない灯りたちが地上に星空を奏でていた。そんな場所での騒がしさは心を盛り上げて味雲はこの祭りに来たことを心の底から良かったと想えていた。

 その一方で霧葉の顔には服にはどこか影が差していて、味雲の腕をつかむ手にはしっかりと力が込められているはずなのにどこか弱々しい。

「なにか、大きな悩みでもあるのか」

 味雲の問いに無理やり顔を明るくして見せるものの、闇の中へと溶け入るようなその雰囲気を隠し通すことなど到底できない。心の主張はどれ程覆い隠してみせようにも態度や表情の隅から闇に透ける薄い影となって滲み出てきてしまうのだった。

「場所、変えようか」

 味雲は霧葉を連れて公園の縁取りの役目を執り続ける植え込みと岩に目を向けて底へと向かって歩きしゃがみ込む。

 隣に座っているはずの霧葉の姿がどこまでも遠く感じられた。祭りのために用意された提灯はしっかりと輝いて人々の表情を、心をも照らしている。明かりは今この場に座っている味雲と霧葉のふたりにも届いている。そのはずだった。

 しかし、味雲が今ここで目にしている霧葉の姿は左肩と足首から靴まで。それ以上は全くもって見えなくて、その姿は終焉の影に包まれ弱り果てたモノを思わせる。

 目を凝らしてようやく瞳に映すことが出来た霧葉の口元は不自然な笑みを浮かべ飾られていた。

「ミクモ、私さ、凄く幸せ」

 そう語る彼女だったがどうにも不満が隠されているようにしか見えなかった。決して満点ではない人生の中の闇が触手のような影を伸ばして霧葉を捕らえているようにも見えた。

「ミクモと一緒にいてこんなにも楽しくてうれしくて……でもね」

 味雲が思った通り、やはり笑顔の表紙を開けば不満が綴られている。手放しの幸せを満喫するには彼女の心はあまりにも悲しみの過去の波に打ち砕かれ過ぎていた。

「時々凄くツラくなるの、嫌になるの。私が私でいることが駄目でとても今のままじゃいられなくて」

 過去に自らの手首に傷を入れていた、その事実を思い起こすだけで自分はそういう人間で、自らを大切にしない、好きな人が愛してくれる自分に優しくできない、そんな人物なのだと何度も心に刻み付けてしまうのだという。


 結局のところ、自傷行為は形を変えただけで全くやめることが出来ていなかった。


 霧葉は更に言葉を選んで重ねて、味雲に頼みを伝えてみせた。

「その、お願い。私がまた自傷行為をして、もう今にも姿が化け物みたいになりそうだったらその時は」

 味雲の脳裏にかつての友人の変わり果てた姿が蘇る。心の底を引き出してこの世の者とは思えない姿に変わってしまったあの男の事を。霧葉もそうなってしまうのだろうか。

 味雲の目の前で提灯の光を受けずに闇に飲み込まれた彼女は醜い姿になどなりたくないのだとしっかり言って聞かせた。

 つまり霧葉が変わり果てる前に例のエアーガンで撃ち抜け、そう言いたいのだろう。

「そんなこと、できるわけ」

 しかしながら言葉はそこで無理やり断ち切られてしまった。霧葉は味雲の肩に艶めかしい身を預け、耳元で響かない地声を鳴らした。

「お願い、私をあんな気持ち悪い存在にしないで、綺麗なまま、送ってよ」

 家に送り届けることとはわけが違う、その行き場はこの世界とは違うところ、一度行ってしまえばもう帰って来ることなど叶わない場所。

 味雲の身体から力がみるみる抜け落ちて行く。何を言えば正しいのだろう、何を行なうことが正解なのだろう。何もかもが不透明な世界の中、彼女に対して完璧な答えなど持ってくることが出来るはずもなかった。

「……分かった」

 結局はそう答える他なかった。霧葉に異なる意見を提示するには味雲の人生の物事の経験はあまりにも浅すぎた。

 落ち込む気分、沈み込む力。動くことすら億劫に感じる夜の闇の中でどうにか霧葉を抱き締めて霧葉の方からも抱き締められて。

「大丈夫、私にその日が来なきゃミクモは何もしなくていいから」

 逆に言えば霧葉の限界が来てしまえば容赦などしてはならないのだということ。霧葉がわざわざ口にして頼んだという時点でその日を覚悟しなければならないという状態なのだろう。

「ゴメンね、せっかくミクモの初めてのお祭りなのにこんな悲しい話なんかしちゃって」

「いや、いいんだ」

 そう言うしかなかった。流れる空気は美味を感じさせず、あまりにも気まずい。抱き締め合ったまま霧葉は立ち上がる。

「もう……帰ろっか」

 今日という日が終わってしまう。そしていつも通りの明日、明後日、更にその次と、次々に進んで行くのだろうか。

 顔を傾けて霧葉を窺う。今日にとっての明日、明日にとっての明日、その次にとっての明日。ふたりで過ごす日常は、味雲にとってその明日はあと何度来てくれて何度日が暮れるのだろう。きっとそう多くはないだろう。心が焦りと苦しみを持ち込み流れ込んで来た。

 味雲の様子など闇に覆い隠されてしまっているのだろうか、その想いになど反応のひとつも寄越さずに霧葉は歩き始めた。

 広い公園の夜空は花火によって様々な色の輝きが散らされていた。

「空に咲く火の花、花火なんて名前を付けた人って凄く綺麗な心を持ってたのかも知れないわね」

 霧葉の声に頷く。見れば見るほど大きく美しく咲き誇り空を彩る姿は人々の目を留めて行く。きっとみんな美しい、綺麗、凄い、そう言った感想を声にして心を傾けているのだろう。

 かつては喧騒の後の寂しさを好むと言った味雲だったが、今この時は決して終わって欲しくなかった。永遠がどこまでも愛おしかった。寂しさは霧葉との関係に対してこれから抱くものだろう。夜空を彩る主役を演じる花火の美しさすらどこか寂しいものに思えて来て味雲は思った。過去の自身の言葉を呪ってただひとつのことを想い続けた。


 今の味雲は、祭りの後の寂しさがこの上なく嫌いになっていた。

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