第7話 高校生『雨空 味雲』の欲望

 白い部屋の中、暇を持て余しつつも恐怖に身を縮めながら過ごし続ける老婆、照香の話にしっかりと耳を傾ける。彼女が味雲を呼び止めてまで話したいこととは一体如何なるものだろう。

「孫娘の話だけど、あの子もう十四歳でね」

 味雲はふと思い出す。小さな姪の顔が瞳の裏に、心の表に浮かぶ。歳が近しくて姪というよりは従兄妹のようにさえ思えて来るあの幼き子のことを。もう八年ほど前のことで曖昧な記憶でしかない掠れ切った追憶の残像、そこにいた姪も確か今年で十四歳だっただろうか。照香の話は引き続き行われる。

「孫娘の晴香が大人しくてすごくいい子なの。笑顔も可愛くて、会っただけでも抱きしめたくなるくらいなの」

 つまり、孫娘が可愛いという自慢話、味雲としては心のやり所に困ってしまう話だった。

「ちょっとした仕草も愛らしくてね、多分誰も嫌いな人なんていないわ、あの子が中学を卒業するまでは生きていたいの」

 切実な欲望。想うことはいくらでも許される優しい望みだった。しかし病院のベッドに臥して幽霊に身を蝕まれてしまっていては叶う保証すらない話。そんな切ない女の物語にある種の切なさを覚えつつも味雲は思いを凝らして聞き続けることがやめられなかった。

「あの子がどのように成長するか、楽しみで仕方ないわ。どんな服を着て働くのかしら、あの可愛らしい手にどんな道具を持つのかしら、あの子が就職するまでは生きていたいの」

 味雲の頭の中ではてなが膨らみ浮かび上がる。突然のことで想いの視界が狭められた。脳裏では「冗談だよな」と繰り返し訊ね大きく響き続けるものの、口に出すことなど叶わなかった。

 照香の口は動き続けて新しい言葉がひねり出されて味雲の思考に新たな戸惑いが植え付けられた。

「私はね、あの子が結婚式に出るまでは生きていたいの。あの子のウエディングドレス姿、とっても綺麗でしょうね」

 次第に生きることへの欲望が強く成りゆく様を目の当たりにして遂に言葉を挟んでしまった。

「さっきより長くなってませんか」

 照香は温かく微笑み柔らかな声で笑いながら言の葉を結って会話を首にかけて辺りに感情を漂わせ始めた。

「ふふっ、とても不思議ですよね。病の前兆が見え始めた時にはせめてあの子が小学校を卒業するまで、もう少しだから。そう思ってたのに段々と求めるものが大きくなってくものよ」

 生への執着心、それは人によって様々で、強く想う人物にしても強く在る理由もそれぞれに異なっていて。照香の場合は孫娘の成長を見届けたかったが為。あまりにも綺麗で透き通り輝きを放つ理由はその大きな野心を全く感じさせなかった。しかしながら決してあっさりしすぎているわけでもなく迸る力強さを持ったそれ。

 心の色の濃さと品の良さに味雲は惹かれていた。

 綺麗な話は自然と味雲の耳を傾かせて、聞き届けたいと思わせてくれて。

「あなたもきっとそう。絶対に手放すことの出来ないものに出会った時に思うことよ。もっと長生きして、ずっと健康でいて終わりまで一緒に走り続けていたいって思ってしまうの」

 どうしてだろうね、味雲の口は思考よりも先に疑問をこぼしていた。考えることをやめて感じ続ける程に、この老婆の話にのめり込んでしまっていたのだ。

「きっとそれが、人間の醜い所であって美しい所でもあるから、かしら」

 味雲は霧葉に出会ってからの己の変化を想い無言で流していた。照香の言葉に導かれるままに、流れに沿い続けて、思い返していた。始まりの薄暗い感情から、彼女のことを認めて仄かに明るい好きの感情の大穴に落とされるまで。

 照香はペットボトルの蓋を開き、ルイボスティーを喉に流し込み、その味わいに滑らかな表情を見せて話題を変える。

「これからが本当に引き留めた理由なんだけど、怒らないで頂戴ね」

「ああ、はい」

 味雲の怒りがこみあげてくるかもしれないような話題とはどのような物なのだろうか。味雲には想像も付かない。この始終穏やかな雰囲気と共に居座る女性と怒りの感情はあまりにも似合わなかった。例え他人が持ち込んだ感情だとしてもこの場所には相応しくないとさえ思えていた。

「私、ちょっとだけ凄い能力を持っていてね、予感を何処かから拾い上げることが出来るの」

 その発言の何処から怒りを見つけ出せばいいのだろうか。霊感があるほどの人物ならばちょっとした予知のチカラを持っていてもそこまで不思議ではないだろう。怒りの感情で会話の旅を止める錨を下ろすには、この感情の大海原はあまりにも輝かしすぎる。

 釈然としない表情を思わず見せてしまっている味雲に対してはっきりとした目を向けて照香は会話を重ねて大波を作っていた。

「ここからよ、失礼なの。私の孫娘なんだけど、なんだかあなたと半分くらい、オーラの内の家系由来の部分が同じ色の人と付き合いそうなのが視えるけど、外れであなたと付き合うわけではなさそうね」

 味雲は大きく頷いた。霧葉と付き合っている味雲が他の人と付き合う、そのようなことを考えることは到底できなかった。とは言えども、味雲には姉がひとり、年が近しい姪がひとりという有り様。父方の家系には既に子どもはおろか、あの男に兄弟すらいなかった。男など、この血のつながりとしては味雲を除いてはどこまで探れどもいないのだった。

 そこまで考えたところで困惑の情が湧いて溢れて表情にまで滲んで出て来た。照香がそれを見て取れないはずもないだろう、それほどまでに分かりやすい表情の崩れ。それでも構わず照香は話を続ける。

「なんだか特にあなたに近しい気配、お兄ちゃんか弟のような気がするのだけど、その表情だと私の勘が外れたみたいね」

 酒飲みのだらしない姉は男に含まれますか? そんな質問を飛ばしてみたくなったものの、ぐっと堪えて抑え込む。ふざけることなど許されない、陽の薄明りのように柔らかな雰囲気の中、どのような冗談もなんとなく許したくない、心の中にはそう叫ぶ味雲の姿があった。

 照香の予感、それがどこまで強いものなのか想像すらつかせないものの、もしも正真正銘の超能力だとすれば実際に天音が照香の孫娘と付き合ってしまうのだろう。だらしない酒飲み女と共に過ごす少女はきっと手を焼き頭を抱えて叫びたい気持ちを必死に抑えながら生きることになるだろう。

「それは良くないな」

 ぽつりと零した言葉は照香の耳にまで運ばれることもなくどこかへといなくなってしまった。

 照香は微笑みながら天を仰ぎ染みを見つめる。

「霧葉さん、あの子のおかげで幽霊にも襲われずに済んでいるのね」

 味雲はドアの向こうへと顔を向け、見えない景色を想像で補い見通す。きっと霧葉は今幽霊を次から次へと祓い続けているのだろう。頑張りは誰に見られることもなく、ただふざけている姿として捉えられるだろう。

 照香の瞳の向く先はいつの間にか味雲の方へと移されていた。

「ねえ、あなたが見守ってくれてるおかげでもあるのかも知れないね」

 その瞳にはなにが映されているのだろう。もしかすると味雲にも何かしらの能力が備わっているのが見えているのかも知れない。彼女の知っている情報は口から出て来るもの、本人が語るもの、それのみ。形にして伝えられたもの以外は一切見通させなかった。

 これまでも生きる上での不安や悲しみ、全ての感情の中から相手に知らせたいと思うもの以外の全てを鎖して来たのだろうか。

 霧葉も同じようにひたすら情報を密封して生きている部分があるのかも知れない。

 味雲は思う。

 照香の欲望の広がりを思い返す。

 人生の中で膨れて大きくなって叶うかどうかも分からないほどのものになって行ったあの夢を。

 それから続けて比べるように味雲の頭の中に、心の水中を静かに漂い続ける欲望を思い返す。

 ごくごく普通の生活。山もなければ谷もない、波のひとつも起こらない山のほとりの上品な泉のような生き様を望んでいたはずの味雲の中にいつの間にか紛れ込んでしまった大きくてカラフルな欲望。かつての夢の調和を打ち消してしまう色合いだったものの、それを自覚すると共にこの上なく愛おしく想えていた。

 霧葉という少女が入り込んで来てからというもの、景色は揺れて、華やかな想いの風にざわめいて、美しく色づいて。自然界の中では有り得ない色合いをした感情の森。


 味雲の欲望、それは霧葉と過ごす一生だった。


 大切な人が現れてから大きく強く枝を伸ばして瑞々しい想いの実が成って、これからも欲望は細かに鮮やかに艶やかに変わって人のモノらしさに染め上げられて行くのだろう。

――むしろ、そのくらいの方が人間らしいか

 欲望は決して罪ではない、日々を生きるためのエールでもあるのだから。

「ありがとうございます、おかげさまで……霧葉への想いがハッキリしました」

 この前理科実験教室で霧葉に伝えた言葉。絶対に離さないから。その想いはこれまで以上に澄んでいて、これまでになかったほどに重たくなっていく。味雲の中で木霊していた母の言葉、美人に対する僻み妬み、それによって植え付けられていた苦手意識がみるみる遠くへ運ばれて行った。

 そうして味雲を彩り始めた柔らかくて明るい表情を目にして、照香もまた、薄くも明るい貌をしっかり幾度となく重ね塗りして浮かべてみせた。

「あなた、少し可愛らしくていい顔してるわ」

 いつだっただろうか、霧葉に同じように可愛い顔と言われたことを思い出していた。頬に激しい熱が走り始め、身体中をむずがゆさが走り出し、言葉にしがたい感情を盛り付け提供していた。

 それからかかること数十分、病院の引き戸は何度も静かに開かれては人を飲み込み吐き出し繰り返し。ドアの動く気配が訪れる度に味雲の背筋をなぞる感情が派手に暴れていた。

 人々は何度でも入退室を繰り返す。子どもから大人まで、それぞれの親族や友人、会社の上司や同期、様々な人々の入れ替わりを経て、いつもよりも揺れながら、力の込められた引き方で力なく開かれた。

――多分、帰って来た

 カーテンを隔てて向こう側、見えないものの漂う気配、それは明らかに疲れ果てていた。のっそりと重々しさを感じさせる歩みで寄ってきて、細くて美しい指がカーテンからその白さを覗かせて、目の前の景色を開いて世界を広げてみせた。

「ただいま、ミ……えっ、嘘」

 味雲の顔を瞳に入れた途端、顔を逸らしつつもちらちらじりじりと視線を向け続ける。その様に対して温かな気持ちを抱きながら、爽やかな心持で綺麗な笑顔を霧葉に浴びせる。

「おかえり、霧葉」

「なんで、なんで」

 霧葉は恥ずかしさ全開の貌で味雲にゆっくりと近づいて、眉をひそめて参った顔で、ひとつ訊ねていた。

「なんでそんなかわいい顔してるの」

「そうなのか?」

 味雲にとってはその感覚で語られるものとしては未知の言葉だった。途端に恥ずかしさが全身を、特に顔中を駆け巡り、想いの世界を即座に征服していた。

「そ、その、下手したら私よりかわ」

「それは言い過ぎな」

 態度から表情まで、霧葉が全身で示している恥ずかしさと味雲が感染させられた恥じらい、この狭い病室が物凄く気まずい空間と化していた。

 霧葉は語る、味雲と照香が話し合っている間にこなし続けた業務をしっかりと聞かせ記憶の中にねじり込んだ。

「まず病院という場所がいけない、あそこ色々うようよのうよよで幽霊関係がドロッドロだったわ」

 無念の塊たちが奏でる悲しみの音によって築き上げられた世界というものはそれほどまでに重苦しくて喉を締め付けるようなジメジメとした空気を纏っているのだろうか。

「しかもどのオバケが照香さんに迷惑かけてるのか分からないし全部祓ったら逆に変なの寄せ付けそうだし」

 どんよりとした空気を打ち破って清浄なる空間を作ったところでその不自然なまでの清らかさは弱くて薄いものなのだという。無理やり全てを清めたところで暗い存在が元々寄り付きやすい場所であるがために周囲から暗い存在が寄り付き住み着いてしまうのだそうだ。埃っぽくて湿っぽい場所や人々の暗い想いの渦巻く場所は根元から断たれなければいつまでもその空間の雰囲気に合ったモノを呼び寄せてしまうのだという。

「で、どうやって照香さんの敵だけを祓ったのかというと」

 味雲は耳を澄ます。気になること役に立つこと、霧葉のする事、好きな人の行動から見えて来るひとつの性格。何もかもを受け取って思い出の中に刻み込んで霧葉に一歩でも近付きたかった。

「実は照香さんのベッドの近くにあったハンカチを持って行ったわけ、床に置いたらお見事。狙いのオバケの皆さんが大集合」

「もし冗談ならこれまでで一番ひどいぞ」

 勝手に人の物を持ち出して、しかも汚い床に置いたのだという。意図を感じる行為なことは明らかで、人目に用心しなければ間違いなく怒りの雷が降り注ぐことだろう。味雲は照香に向けて頭を下げて謝罪の言葉を述べた。

「すみません、後で洗って返しますので」

「本当にごめんなさい、他に方法を思いつかなくて、本当にごめんなさい」

 愚かな行ないだったのは間違いなかったものの、それを行なった霧葉本人も決して悪人などではない。謝る姿は正直者そのものだった。

 そこまでの流れを受けて、照香は微笑んで可愛らしく頭を傾けてふたりを交互に見つめる。

「別にいいのよ、私も命が惜しいくらいだからこのくらいは承知済みよ」

 果たしてその穏やかな声で与えられた言葉は本音なのかどうか、味雲はこれまで話して来たにもかかわらず、否、これまで話して来たからこそ、見通すことが出来ずにおろおろとした様子で不自然な挙動で首を左右に振っていた。

「許してくれてありがと」

 一方で霧葉は素直に、素直が過ぎる程に絞り出された笑顔で答えていた。

 本音で言っているとは限らないのに、味雲の貌はそう語ってみたものの霧葉には何ひとつ伝わらない。そう、きっとかかわってみなければ測ることの出来ない人間性というものが存在する。当然のことだった。全て何もかもをさらけ出す人物など余程自身に自信のあるのか何も考えていないのか。味雲としては信じがたいことだがなにも考えを持つことなくただ素直に生きて人生そのものに対する苦しみを抱いて、しかしながら改善のための手段にまで考えが至らない者も実際に存在するのだという。

 結局あのハンカチは照香の家の方でどうにかするのだと決まった。

 金を受け取り一礼して、ふたりは病院を後にした。

「いい人だったね、凄く優しそうで強さとは程遠そうな人」

 霧葉の知っていることだけではそう思ってしまうのも仕方がないだろう。味雲はあの時間の中で実際の強さというものをこれほどまでなのかと言いたくなるほどに教え込まれていた。

「でもさ、実際に話してみたら凄く強い人だったよ」

 孫娘を想う気持ちと愛しい子の人生の道にて待ち構えているはずの様々な通過点を見届けたいという欲望。彼女の強さは間違いなく表の雰囲気に隠された裏の奥にて蠢きながらも堂々と、照香の心の象徴を努めていることだろう。

 歩き続けて霧葉は思い出したように話を変えた。

「デートの途中にごめんなさい、私買い物しなきゃいけないから手伝って」

 それは世間一般がいう買い物によるデートとは程遠いものだろう。服を見て回ったり綺麗な物を一緒に「きれいだね」と想いを重ねて楽しい時間を過ごす、そう言った若い者の夢に溢れたものには遠く及ばない、ごくごく普通の食料品の買い物だった。

「お願い、荷物もって、今日の晩御飯も美味しいの作ってくれるから」

 近付くと共に自ら開く透明のドア。店という大きな体の中に吸い込まれるように入って行く。味雲は頷きながら答えていた。

「もちろん、別に作ってくれないとしても買い物くらいは付き合うよ」

 混みあう店内、様々な向きに動線を描く人々。その姿はみなそれぞれに異なった。男に女、子どもに大人、それぞれの髪形体型顔つき買い物に対する考え方まで、何もかもが違って建物の中は人の様々な色で塗られてカラフル仕立て。子どもがお菓子をねだる姿と断って引き連れようとする女の姿、買い物かごの中に勝手に好きなものを入れては同じくらいの年齢の女の怒りを投げつけられる男。

 味雲の将来の姿はこの場所の何者のようになるのだろう、想像も付かせない。

「将来の夫として最低でも食べ物の旬と値段の判断は覚えてね」

 霧葉の考えは味雲にも完全に相場を覚えさせて一緒に買い物する時に考えてくれるというものだった。役割を分けるのではなく、どちらも共にいざという時に必要なことは考え支え合うことのできる、そんな夫婦が目標のようだった。

「持ってる知識や出来ること、お揃いにしようね、ミクモ」

 突然のことだった、くらりと揺れる味雲の頭、熱くなる全身、霧葉の言葉に心を撃ち抜かれて、立っている感覚さえ失ってしまっていた。お揃いの手さばき、お揃いの思い出。あまりにも魅惑的で甘味を思わせるそれを味雲は全身で味わっていた。更に幾つもいつまでも、心は潤いの感覚を絶え間なく欲していた。

 霧葉が野菜や魚の値段の目安を口にして味雲はしっかりと書き留める。

「肉は値段のシールだけじゃなくて百グラムごとの値段を見てね」

 細かな話を一度にすべて叩き込むことは出来なくても、霧葉の声はしっかりと味わいつくして叩き込む。手帳に刻むように塗られた文字たちは次第に味雲の記憶の中にも刻み込まれ刷り込まれることだろう。


 その瞬間が楽しみでたまらなかった。


 霧葉の役に立つことができるという事実が未来に待っている。味雲の頭の中で美しい音色を奏でて広がり染み付く考え。もう霧葉とともに人生を歩み続ける覚悟はできていた。

 そんな中で起きたひとつの出来事だった。

 味雲の視界に見慣れた女の姿が目に入った。それは買い物かごに大量の酒とつまみにちょうどいいものだけを入れて歩いていた。

 女、味雲の母が歩き、味雲の方へと近付いていた。姿は大きく鮮明に、味雲の想う以上に大きな存在感を振りまきながら歩いていた。距離は縮み、無くなり始めてやがてなくなる。味雲の隣を歩いてすれ違いざま、母は耳元でしっかりと思考を呟いていた。

「今すぐ来なさい」

 言葉に手を掴まれて引っ張られるように去って行く。味雲の母は霧葉を一瞬だけ睨みつけ、世にも恐ろしいまなざしに霧葉はついつい一歩後ろへと引いてしまった。味雲は引かれて後ろへと向かいながら振り向いて霧葉に手を振って立ち去って行った。

 霧葉のいない休日とはいつの日以来だろうか。

 母はミクモの肩に両手をしっかりと置いて声にて心情を奏で始めていた。

「あの美人が霧葉って人なのね」

 その表情はあまりにも暗くて狂気の正気に溢れかえっていた。更に顔を近付けて、まくしたてるように言葉を次から次へと浴びせ続けていた。

「美人は何もかもが手に入った姿。化粧も努力もなしにあんなに綺麗で人によく好かれてちやほやされて」

 ズルい、不公平、平等じゃない。母の語る言葉の全てが同じ意味を持つ言葉に意訳されて届いていた。

「味雲も味雲でどうしてあんな人に惚れたの! 人は見た目だけじゃないのよ、あんな何もかも楽して生きてきたような人なんかを好きになって……あれは少し微笑むだけでなんでも許されるような女、絶対にロクな子じゃないわ」

 僻み、嫉妬、羨ましくて妬ましくて自分には手に入らない者が憎い、持ってる者は他が駄目であれ。味雲の中で要約された言葉の全てが同じ意味に聞こえて仕方がなかった。言葉を変えて同じことを語るだけ、まるで味雲の迷いある恋心のように思えて自身すら滑稽に思えて来る有り様だった。

 味雲の内側では荒波のような怒りが押し寄せていた。同じ感情を繰り返すだけの母親の言葉の中に、どうしても許すことの出来ないものが潜り込んで味雲の心にまで波紋を広げて薄暗い感情の静かで激しい波を起こし悪さをしていたのだから。

「母さんさ、さっき何もかも楽して生きてきたって言ってたよな」

 誰からも相手にされないまま、存在すらなかったように振る舞われて楽などと言えるものだろうか。思い詰めて己の身体にまで傷を入れてしまうほどの、それほどまでに心がぼろぼろに、ぼろきれのようにキズモノにされた魂。そこまで苦しい道のりを見た目という壁ひとつで隠し通す人生の中身も見ることなく叩き潰して見せる母の姿。

 好きな人を表面だけで踏みにじって心のひとつも見ない母を、同じ価値観で生きてきた自分自身を許すことなど出来なかった。

「今じゃ笑って冗談言って何も思い詰めることがないように見える人も、昔は何を想って生きてたのか、簡単には分からないよな」

 霧葉の扱いはきっと女子から単純に嫌われて男子もあまり見た目にはこだわらない、敢えて言うならもっと柔らかな可愛さを好む人物しかいなかった時から引きずられて残された過去から続く価値観。追想は追撃を仕掛け続けていた、ただそれだけのことだった。

「顔なんて関係なく苦しみなんて頑張って隠して生きてるんだよ」

「ふうん、あっそ。でもさそれでも人よりは得してるようなズルい人じゃない、あんな顔の人と付き合うのやめなさい」

 自分が気に入らないものならば全てを否定しても許される、その価値観で人生を築き上げて来た人物を相手にしても味雲の持っている時間、氷のように溶けて残りを刻一刻と失っているそれがもったいないだけだった。

 霧葉と時間を共にすることをやめる、その選択肢など、味雲の頭からすぐさま切り捨てられた。

「分かってるの? 私は味雲のことを思って言ってるの」

 味雲は声もなく問いかける。味雲の何を思っての発言なのだろうか、息子を不幸に陥れることが母の役割なのだろうか。

 味雲は既に返す言葉を決めていた。

「何が俺を思ってだよ。単に美人への僻みだけだろ」

「なんてこと言うの! お母さんに謝りなさい」

 母の発言は何もかも自分の都合だけで創り上げられていた。その言語は母の世界観の大きな柱そのものだった。

 味雲の世界観は母とは異なっていた、他でもない霧葉の温もりによって塗り替えられていた。

「母さんこそ霧葉に謝れよ」

 言葉は止めようにも止まることが出来なくて、次から次へと溢れ出て流れ出す。容赦という意識は完全に失われていた。心のブレーキは温まって擦り切れて機能しなくなっていた。

「顔がなんだよ、どんな身体だろうとどんな顔だろうとどんな人生だろうと悩む人は悩むし考えすらしないやつはしないんだ」

 霧葉がどれだけ悩んでどこまで壊れて何処に誰に救いを求めているのか、味雲にとっては分かることも解らないこともまばらに存在する此処との雪景色のようだった。確かに確かなことは多いとは言えなかったものの、霧葉は決して完全に回復しているわけではない事、それくらいは分かり切っていた。切り刻まれてボロボロの心を引き摺り歩きようやくたどり着いた味雲という光。霧葉が救われている一方で味雲もまた、霧葉との交わりによって救われていたのだと今思い返していた。

「母さんには分かんないだろうな。霧葉が今浮かべてる笑顔の裏で何考えてるのか。俺がいなくなったらもう家の中にしか居場所がなくなってしまうってこともな」

 そう、過去だけでない。今もそう。学校にすら居場所がないも同然だった。クラスメイトが恩を仇で返して笑うことが許される。そんな残酷な世界で、味雲までもが霧葉の手を離してしまったらどうなるだろう。

 きっとそれは霧葉が許さない、その手を意地でも離さないだろう。味雲も同じ気持ちだった。意地でも霧葉の手を離すつもりなどない。だからこそ今この場で母に反抗しているのだった。

「美人とかそうじゃないとか関係ねえよ、見た目ひとつなんかで人ひとり分かった気になるなよ!」

 それだけ吐き捨てて、母に背を向けて霧葉の待つ場所へと足を進めた。愛しいあの人が、美しい瞳を悲しみに歪めた彼女が、味雲と笑顔で生きるために待っている。わざわざ買い物もひとりで出来るように教え込もうとしているのだ。それはきっとひとりでも生きて行けるようになどではない、互いに支え合えるようにだろう。

 カートを引く者商品を手に持っている者ただ親について行く者。それぞれの都合で店を歩いている人々によって作り上げられた人ごみを掻き分けながら味雲は周囲を見渡し続ける。人々の集いの中に霧葉が混ざっているかも知れない、案外こういった所に人ならざる者も混ざっているかも知れないものの、それに構っている場合などではなかった。人々によって塗り潰された空間の中、異様に人の通らない場所を目にした。人々の波の中ぽっかりと口を開けるように人の通らない一部分、そこにはふたりの女がいた。ひとりはよく知る人物、味雲が今探している愛しいキミだった。

「霧葉」

 名を呼びながら味雲は近付いて行く。霧葉は一瞬だけ肩を震わせて振り向いた。その姿はいつも通りの表情、しかし、真剣な眼差しの色は消しきれていなかった。

「ミクモ、ちょうどよかった、今からお祓いやるから」

 霧葉が先ほどまで見つめていた女を瞳にてつかんだ。その姿は艶やかな黒髪を手入れもせずに伸ばし放題にしていて太り気味の背の低くい女。

「きっと生前の苦悩が天に昇ることを邪魔してるの」

 目を当てて、目を合わせる。そこにいる女は血走った眼で味雲をしっかりと見つめていた。穴をあける勢いの視線はあまりにも黒々としていいて味雲の背を震わせた。

「あらあら、惚れちゃったのかしら。でもごめんなさい、私のカレだから」

 明らかに的外れ、明後日の方向を指し示した発言は狙って届けているのだろうか。

 霧葉は味雲に塩を盛った皿を手渡す。次から次へと手渡して、合計六皿もその手に乗せられること。霧葉は次の指示をしっかりと耳に運び込んだ。

「それを六角形を意識して置いて、少しくらいズレていいから」

 言われるがままに動き出し、盛り塩を行なう。続いて霧葉は複雑で奇妙な線が描かれた札を取り出し、瞳を閉じ、唱え始めた。

「書いた人の字が汚すぎて読めない読めないだから分からないけどとりあえずお祓いに使います祓いたまえ清めたまえ守りたまえ幸わえたまえ」

――いい加減だなおい

 それはきっと汚い文字などではないだろう。雑で考えなしな祝詞を唱えて女の幽霊を蒼い炎で焼失させ、味雲の方へと向き直った。

「じゃ、買い物の続きにしよっか」

 味雲は霧葉の笑顔を目の当たりにして、大きく息を吸って高鳴り続ける鼓動をどうにか収めて笑顔で訊ねた。

「今日は霧葉の家に泊っていいか? さっき母さんとケンカしちゃってさ」

 聞き届けるや否や花咲く笑顔に身を包み、霧葉は当然のようにあの答えを伝えてみせた。

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