閑話 4 旅行者『甘土 霧葉』の体調不良

 船は揺れる、波に揺らされているのか、自らも揺れているのか、揺れは止まらず、霧葉の予想の斜め上の動きをしていた。ベージュのロングスカートは、薄紫色に近寄ったような桃色の透けるカーディガンは、揺れに合わせて奇妙なはためきを見せつけていた。

「アメソラ、私いつお酒なんか飲んだっけ」

 唐突に放り込まれた異様な発言に、味雲の頭の中ではトン、チン、カン、と決して揃わぬ音が響いていた。

「霧葉未成年だろ」

 ふたりとも高校生、そんなふたりに酒など出して不正な儲けを企んだ暁には会社が船を出すことが出来なくなってしまうかも知れない程の大問題が待っているのだ。

「この気持ち悪さはなに? 私船酔いなんかしない」

「船酔いじゃねえか」

 霧葉の強がりは答えを自ら暴き出してしまっていた。そう、彼女は船酔いをしていた。味雲の心配から示された安らかな提案を受けてベッドにもぐりこむものの、寝心地の悪い揺りかごではどのような高級寝具でも最悪の寝心地しか提供できないようで、霧葉は苦しそうな表情をしていた。実際、どう見てもどう感じようとしても今の寝心地は最悪だった。

 味雲は飲み物を買おうと激しく揺れる船の中を歩こうとするものの、袖が引っ掛かり、動くことが許されない。

「アメソラも一緒に寝て」

 袖をつまんでいたのは白くて細くて長い指、弱り果てた霧葉の美しい指だった。すぐにでも崩れ去ってしまいそうな儚さに息をのみ思わず見惚れて時が息が止まること三秒半、大きなため息をつきながら指から袖を引き離してベッドの前で屈む。

「一緒に寝るのは色々問題あるけどさ」

 霧葉の左手を両手で包み込んで続けた。

「一緒にいるのは大丈夫だよな」

 味雲の対応に霧葉は柔らかな微笑みを浮かべて、弱り果てた顔の中に光を刺し込んでみせた。

「ありがと、一緒にいてくれるだけでも嬉しい」

 そうして穏やかな時間が流れ続け、気が付けば霧葉はベッドの背の低い柵から身を乗り出していた。味雲を支えに立ちあがり、やがて地面に降り立つ。そこからしっかりと抱き締め、弱り果てた顔で、助けを求めるまなざしで、味雲を射貫いて捕らえて離さない。

 更に時計の長針一周分と少しの時を経て、ようやく船は港へとたどり着いて霧葉は激しい揺れから解放された。

 外の空気を吸い、大きく腕を伸ばし、にこやかに語る。

「空気が美味しいっていいね、爽やかベースの塩味かしら」

「磯の香りだな」

 味雲は本来予定していた豪華な遊覧船という選択肢を頭の中から削って消し去った。霧葉の調子が再び悪くなることだけは避けたかった。

「アメソラひとりで行ってきたら? 私はここで待ってるよ」

「せっかくの旅行だからふたりで楽しめることが良いな」

 今回の気遣いは余計な物だった。近しい距離感に必要な心はそんなに遠い対応などではなかった。

 せめてもと思いふたりで遊覧船の外観を見て写真を撮って、出航する様を見届けてふたり他の観光地を見て回ることにした。

「あの船が帰って来るのって結構ちょうどいい時間だよな」

「着いたら少し辺りを回って近くのホテルっていう予定を前提にでも考えてるんじゃない?」

 観光ガイドはスケジュールをもガイドしていたようだった。

「みんな同じ考えなわけないのにね、特に私はチェックインしてもアメソラ連れ出してどこか行くと思うわ」

「そりゃあ楽しそうだな」

 その船に乗る人物の大半は時間的に納得しているだろう。霧葉の言いように味雲はついつい手を合わせて船の向かったはずの先へと、それに乗って楽しい時間を過ごしている人々に憐みの想いを送り込んでいた。

 旅行の予定がひとつ消え去ったことに霧葉は肩を落としていた。瞳から羨望の感情が分かりやすい程にはみ出ていた。瞳を彩る憧れの星となって、今にも流れ落ちてしまいそうだった。

「確かに船は残念だけどさ、その分違うことで楽しく過ごそう」

「そうね、そう来るならふたりだけの思い出がいいの」

 味雲の言葉を抱き締めて、霧葉は精一杯の明るさを声に捻り出して歩き始めた。牧場を歩いて牛乳を片手に牛とにらみ合って一気に飲み干して、山羊に草を与えて鳴きまねをして、味噌ソフトクリームを分け合って、ブルーベリーパフェを分け合って。霧葉の感情に衝動に搔き回されるように付き合っていた味雲は笑いながらそうした行ないへの感想を届けた。

「やっぱいつもの霧葉……かわいい」

「ん? 今なにか言った?」

 おどけた発言は多かったものの、今回ばかりは表情までもが真面目ではなかった。つまり、味雲の取るべき対応もまた、ふざけて見せることだった。

「牛の前で牛乳飲むの馬鹿っぽいって言ったんだ」

「違うでしょ、そんな酷い言葉じゃなかった」

 求めている言葉など丸分かりだった、素直に言ってしまえばすぐにでも終わることだろう、しかし何故だか認めたくなかった。反抗の気持ちが湧いてきて止められないのだ。

 口を塞ぐ味雲の顔を見つめながらブルーベリーパフェを頬張り、霧葉はもう一度訊ねてみせた。

「だからさ、もう一回言ってみてよ、私、かわいい自分に見惚れて聞き逃しちゃったんだ」

――心底ウゼェ

 口に出すことなく、心の抵抗を仕舞い込んで先ほどの言葉をもう一度口にして。

「霧葉はかわいいね」

 引き攣った表情の味雲と向かい合う心の底から機嫌のいい霧葉。満足の表情はいつになく輝いていて澄んでいた。気分の良さからだろうか、パフェを掬い上げる手は更に速くなり味雲の倍以上の量を平らげていた。

 そんな霧葉に異変が陰の手を伸ばし始める。気が付いた時にはすでに手遅れで、霧葉の青ざめた表情はみるみるうちにはっきりと明るみに出て行った。

「お腹痛い、寒い」

――やっぱバカだったか

 本日二度目の体調不良に呆れ果てて味雲は霧葉の肩を抱き寄せて歩き、予定よりも速くホテルのある港の方へと戻って行った。

 それからのこと。霧葉は膝を抱えて涙を流し大海原へと想いを混ぜ込んでいた。味雲は霧葉の隣でじっとしゃがみ込んで海を眺め続けていた。気が済むまでは、霧葉が少しでも立ち直ってくれるまではそうしていようと心に決めていた。なんだかんだ言って好きな人なのだと味雲の中で改めて実感が湧いて膨らんでもこもこともふもふと想いを埋め尽くしていた。

「ごめんなさい、私のせいで思い出がめちゃくちゃだよね」

 大丈夫、そう言ってはみたものの、霧葉がその言葉を信じるには心の余裕があまりにも足りていなかった。

「ムリはしないで、そういう関係じゃないでしょ」

 味雲の腕が霧葉の背を優しく撫でる。味雲はこれ以上何も言わず、ただそこにいるだけで。霧葉の感情の大荒れが鎮まるまでは傍で傘をさすようにただ座るだけ。

 きっと何を言っても伝わらない、伝えるための巧い言葉など思いつかない。なら下手な言葉など必要もない。しばらくの間静寂を貫き通すふたりの間に潮を巻き込んだ風の香りと波が奏でる柔らかな音に身を任せていた。

 それから少しの時を経て、ふたりはギザギザ模様の碧い海を掻き分けながら戻って来る遊覧船を目にした。明かりが灯り、この場で最も目立つ存在、間違いなど許さない勢いを持ったものだった。

「帰って来たみたいだな」

 味雲の声に霧葉も顔を上げ、海の中に浮かぶひとつの幻想を目の当たりにした。

「凄く綺麗」

 港にたどり着いてしばらくの後、船は恐らく出口を開いたであろう。しかし、遠目から見ても分かるほどのひとの波はいつまで経っても流れてこなかった。

 初めは船員の話が長いのか船内パーティーが終わらないのか、味雲はどうにか納得させていたものの、十分経ってもニ十分経っても出てくる気配もなかった。流石に違和感を覚え、霧葉に訊ねる。

「こんなものだっけ?」

「知らないけど、遅いわね」

 問いかけに対する答えからは形にされていない疑問がにじみ出ていた。霧葉に訊ねるのはあまりにも見当違い、これまでひと時たりとも離れず傍にいる霧葉に不測の事態に対する答えを求めるなど明後日の方向へと飛んで行った考えだった。

 気になって仕方ない、しかし見てしまえば恐ろしい事実が密封されている予感が船全体から這って侵すように染み出ていた。

「見るか否か」

 見なければ確実に安全圏のさざ波だろう。しかし見なければ確実に何も分からず仕舞いの濃霧だろう。心の模様は選び抜くことに託された。ここからの感情はこれからの意志によって塗られることが決まっていた。

 見れば大きな後悔かも知れない、見なければ長い後悔かも知れない。どう動くか、味雲は霧葉と目を合わせる。

「行こうアメソラ、私たちが乗らなかった船の末路をしっかりと見届けよう」

 霧葉の言葉に引かれて、霧葉の手を引いて、味雲は進み始めた。

 手を伸ばした先、その先につかむことの出来るほどではなくとも近い距離にある船へと足を踏み出して。つかみ取る未来への不安は近づいて、心臓の鼓動は速まって、内側がこの上なくうるさかった。

 明るい船、灯りが燈されて、夜の幕開けを態度で示し帳を下ろす空の下で最も目立つ作り物。その中へと足を踏み入れて、味雲は目と口を開いて立ち止まった。驚きのあまり心までもが固まってしまったようで唖然としていた。力は抜けて、戻っては来ない。

 その様子を眺めつつ目の前を見て、霧葉の視界は震えていた。

「なにこれ」

 そこに待っていたのは開かれたドアと向こう側のパーティールーム。人々の姿も感情の昂りと喜びを分かち合う喧騒も聞こえないもぬけの殻。

 恐る恐る奥へと入り、パーティールームを調べ始めた。皿に積み上げられて山のような姿をしたフライドチキンは冷めきっていて、コーヒーもまた、湯気が全て空気に逃げていなくなってしまったような有り様だった。

「殆ど手を着けてないのか」

 味雲の問いに霧葉は静かに頷く。

 フライドチキンを盛り付けた皿の周りを食べかけのチキンが置かれた皿が囲んでいて、ふたりにとっては恐怖映像でしかなかった。

 それから船内を探索し尽くしてみるものの、人の姿などどこにも見当たらず、かといって荷物は置きっぱなしで降りた気配は何処にもなくて。

 ふたりは頭を心を揃えて実感した。

 これこそが神隠しという現象なのだということを、今ふたりは怪奇現象の痕跡という恐怖の世界に立ち会っているのだということを。

 ふたり揃って恐怖に脚を竦めながら、自分たちも消え去ってしまわないか、這いよって支配しにかかる恐怖心から逃れるように震える足で船から脱出したのだという。

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