第5話 女子高生『甘土 霧葉』の事情
学校の中、いつも通りの授業といつも通りの日常が流れて行く。学校や家の中ではもう何も起こらない、そう思っていた。
出来る限り目立ちたくない、味雲の本音はこういったものだった。ただでさえ悪い目立ち方をして周囲からの排斥思想の色が濃い視線を浴びせられて肩身が狭いというにもかかわらず、これ以上目立つことだけは避けていたかった。
しかし、巡り合わせというものはいつの世でも遠慮という言葉を覚えてくれるわけでもなく、お構いなしに訪れるものだった。
そこは理科の授業で使用する実験室。日頃から化学部員が使用しているはず、人々の循環や管理は完璧なはずだった。しかしながら、誰の目からでも教師の態度からも分かるほどに大きな異変がそこにはあった。
試験管やフラスコがこの狭い世界の中から消え去ってしまって、授業の進行が困難という致命的な事態に襲われていた。
味雲の頭は危機感で荒らされていた。こういった案件は味雲や霧葉でなければ解決の道を切り開くことが出来ない。根拠なく言っているわけではない。
目の前に渦巻く人のような形を持った影、歪な存在が異常事態を証明していた。
見た目や気配などと言葉にするまでもない程に分かり切った異変。男子ならば小学生から高校生まで通して嬉々とした顔で立ち向かう者も多いだろう。しかし、味雲が同じ反応を取るにはあまりにも周りが好むマンガやゲームといった存在からかけ離されすぎていた。
全てが姉の天音、オンナであるあの人のために注がれていて、味雲には暇つぶしの道具ひとつ与えられていなかった。父の家に住んでいた頃に持っていた道具も何ひとつ残されていなくてまさに手持ち無沙汰。おまけに環境で変わり者のように扱われてひとりぼっちで、それを母に話したところで「自分で何とかしなさい」としか言われないという八方塞がりの意味を知るいい機会となっていた。
そんな彼のかつての暇つぶしと言えば散歩したり公園の景色を眺めては近所の皺だらけの優しそうな男や人生の荒波を乗り越え角の取れた女性と軽く話すことだった。
そんな味雲には異形に対する憧れなど何ひとつなく「心の底から勘弁してくれ」としか言いようがなかった。
目の前の影、それがなにを考えているのか分からないものの少なくともあれが実験道具を隠していることだけは間違いなかった。
教師は困り果てた顔をして準備室に入って行ったきり戻ってくる気配もない。間違いなく見つかるはずのない道具を、この世の何処にもない物を必死に探しているのだろう。
――さて、どうやって祓い除けたら目立たずに済むだろうな
霧葉ならどうしただろうか、想像を膨らませ、そのまま模倣しようと考えた途端のことだった。味雲の全身を激しくて苦しい寒気が駆け巡った。間違いない、既に孤立状態であることから開き直って妙な宗教の信者という道化を演じてお祓いを始めることだろう。
続いて霧葉を呼ぶという選択肢を思いついたものの、やはり選ぶことが叶わなかった。味雲までおかしな新興宗教を信仰しているなどと思われたくはなかった。
選びきれない、選択肢は幾つもあれども選ぶにはどれもこれも味雲が恥晒しとなる道しかなくて道を進む方向で選び取ることに対して前向きにはなれない。
――霧葉に洗脳されたことにするか?
――ここから〈眠れぬ悪夢の夜〉を撃つか?
――塩酸と水酸化ナトリウム混ぜて『蒸発させてねえけど祓ヘ給ヘ』って言うか?
最後の思想は明らかに霧葉の影響が混ざっていた。どうしても常識の外側に行かなければならないのだろうか。はみ出し者の行ないを辿らねばならないのだろうか。
――なあ、どうすればいいんだ、霧葉
あの美少女の、悲しみに歪めた痕が見受けられるあの瞳と枯れた低い声を思い出して、心を締め付けられていた。
――目の前のあれは何がしたいんだ
もっともな疑問だった。そもそもあの亡霊は、あの影は何がしたいのだろう。曖昧で顔も分からないあの形からも現実離れした奇妙な動きからも、影が考えていることが理解できなかった。
やがて教師が職員室へと向かって行った。準備室にもない、いつもと違った場所に仕舞われているわけでもない、ベランダに置かれているわけでもない、生徒たちに隠すことの出来る数ではない。決して覆ることのない事実、認めろと主張する態度の大きな非現実的な現実。それは遠慮という言葉を知らないようで、ヒトが創った事情にも言葉にも興味は無いようで、ヒトの言葉の載った辞書を引くつもりもないようで、迷惑というものの意味を知らないそう。
周囲の喧騒はますます大きくなる。思いもよらぬ大事態によって授業が潰れることに壮大な喜を示しながら雑談を続けていた生徒たちが更なる教師への苦労によって更なる騒ぎを巻き起こしていた。人の不幸は蜜の味とはこのようなことを言うのだろうか。
その不測の変事は激しい反応を呼び込む燃料だった。
周りからすれば何故か学校の備品が消えた怪奇現象、味雲に言わせれば亡霊の類いが引き起こした怪奇現象、謎と事実のどちらを見てもたどり着く言葉は同じだという摩訶不思議な現象に見舞われてかき乱されていた。
そう、現実と幻想、どちらの側面から見ても怪奇現象であることには変わりないのだ。
やがてひとりの生徒が味雲に対し、イヤらしいニヤけを向けながら小馬鹿にした声で話しかけてきた。
「おまえのキモイ宗教オンナなら解決できるんじゃねえの? 顔と身体しか取り柄のないキモ女ならよお」
話し合いをするつもりは毛頭ない、それだけは見て取れた。向こうもただ揶揄っているだけでしかないだろう。分かってはいたものの、真に受けるだけの価値はある。今味雲が取ることが出来る行動の中で最も無難な選択は、虚無のままやり過ごすこと、続いて放課後まで何事もなかったように影の存在を記憶の片隅にまで引っ張ってその時の「今」を用いて上塗りして、霧葉に話すが先か化学部員が活動できないことを悟って帰宅部の真似事をするのが先か、それからようやくお祓いという大仕事が待っている。
味雲は柔らかな瞳を最大限絞って冷たくも黒々とした静かなる怒りを軽口男子に返し、そのまま時の流れに身を任せることに決めた。周囲を見渡して気が付いたこと、どうやらクラスのほぼ全員が味雲に対して異物を見るような目を向けていた。霧葉の存在がそれほどまでに目障りで鬱陶しいのだろうか。話して笑い合えば普通の明るい少女であることは間違いない、味雲のそうした想いは彼らに向けたところですぐに斬られて誰にも届かないだろう。
そもそもの話、彼らにとっては霧葉だけでなく、霧葉と関わる存在までもが迷惑だという。たったひとりの噂程度の力が如何に凄い物なのか、刷り込まれた思想がどこまでも伸びて広がって、永遠に明けない心の夜を創り上げていた。味雲にとっては能力など扱うまでもなく、現在進行形で眠れぬ悪夢の夜に身を沈めてしまっていた。
――やっぱり、そんな奴らのために霧葉に解決させるなんてやめとこうかな
きっと祓ったら祓った結果として怯えか忌避の想いを同級生どころか学校中のいくつかの纏まりにまで感染させてしまうだけだろう。手を貸せばそれだけ自身を不幸にしてしまう。そんな環境で救いだけを行なうのはあまりにも息苦しかった。
味雲は放課後を待つ。ひとりであの影を撃ち抜いて終わりにしようと考えていた。
味雲の脳裏には霧葉が頭を抱える追憶の残像が焼き付いていた。左手で、親指と人差し指、そして中指を用いてつまむように持つなまくらの刃物を振ってリーチの外側をも斬るチカラを使った代償として襲って来る過去からの追撃。このような人々のために霧葉に苦しい想いをさせたくはなかった。
授業の終了を待って、教師の言葉、教え込むためのそれらをどうにか聞いて書き留めて、しかし意識はどこかへと飛んで行っているような感覚だった。計画を遂行するための意志が授業への純粋な集中を奪い取り続けていた。こちらに集中して、忘れないで、ほら見てごらん、素敵でしょう。たかだか味雲の脳内に留まる程度の思考がそう語りかけるようにその姿を見せびらかしていた。
そうした時を経て、どうにか授業を、無駄にしてしまった時間を終えて気の抜けた休憩時間を過ごして教師のどうでもいい話たちをくぐり抜けた。
それから時を待つまでもなく誰かを求めるまでもなく味雲は鞄を持って教室を飛び出した、風のような動きは身を煙のように消す。意志に吹き飛ばされてしまったように駆け出して、理科実験室へと向かって駆け進む。
その途中に見慣れた黒い姿を見たような気がした。
その黒は突き進む味雲の姿を認めるや否や追いかけて来た。姿こそは見えないものの、きっと必死の形相をしているだろう。
「アメソラ! 待って……私、速く……走れ、ない」
予想通りの人物、自身の美の象徴でもある胸を忌々しそうに見つめる少女の声を聞いて一度立ち止まり、言葉を向けた。
「待てないよ、用事があるからな」
霧葉にはこれ以上負担を与えたくなかった。きっとあの化け物は人々の何かしらの怨念の集い。色濃く強く在る存在、あれを倒すにはこれまで扱ってきたようなプロの世界につま先を踏み入れた程度の素人による小手先だけのお祓いなど通用するはずもなかった。とは言えど幾日も待たせてはみんなが困るだけだった。そこには味雲自身も、霧葉も含まれているのだから一刻も早く解決したかった。
「ごめんね、霧葉……愛してる」
捨て台詞だろうか、味雲は思ったよりもカッコ悪いという実感に浸りながら再び走りだそうとした。
「いやだ、おいてかないで」
霧葉の言葉、その声はいつにもなくはっきりとしていて、色濃い悲痛の想いがその姿をきっちりと身を広げて主張していた。
「寂しいよ、ミクモ」
踏み出した一歩はそうした言葉のひとつで止められた。もはや霧葉を置いて行くことなど自身の心が許さなかった。
「ひとりはいやだ、私との縁を……切らないで」
震える声で本音を告げながら味雲の方へとゆっくりと近づく。悲しみに歪んだ瞳はその形に相応しい色をしていた。
もはや、味雲の中には彼女を置いて駆け出す気など泡ひとつ分たりとも残されてはいなかった。
霧葉の足が一歩迫る、更に一歩、隙間は狭まり、身体は近付いて。腕を伸ばし、味雲をしっかりと抱き締める。
「捕まえた、もう逃がさないから」
「もう逃げないから離して」
学校という公共の場で、それも人通りの多い廊下で除け者たちがいちゃいちゃと愛し合う光景など見ているだけで吐き気がしてしまうこと間違いなしだろう。迷惑というものを出来る限り避けていたい味雲としては学校という場所には一秒たりとも留まりたくなかった。存在そのものが迷惑などという理不尽に対しても騒ぎ立てることなく真摯に受け止める姿勢は味雲の精神状態をそのまま表していた。
過去の心の荒波嵐日照り乾ききった空気にさらされた果てに抗う気力など既に枯れ果ててしまっていた。想いの潤いの果実はそのまま落ちるのみ、その時を意識せずに待つのみだった彼の目の前に現れた霧葉は生きるための理由、神聖の象徴となっていた。
――もう、無駄な争いは要らない
霧葉の笑顔が見たいだけ、そのために隠し通そうとして泣かせてしまう、この上なく滑稽な光景だった。
霧葉は未だに悲しみの余波で潤んだ瞳を向けながら、密着したまま味雲に訊ねた。
「ねえミクモの用事って何?」
それは当然の問いかけ。言い訳じゃないよね? 霧葉の柔らかな貌がそんな疑問の色を示していた。味雲の顔は萎れた花のように力なく斜め下へと垂れ下がり、気の抜けたため息が零れ落ちる。やはり正直に話すことは避けられないようだった。
「理科実験室に試験管とかフラスコ隠した影がいるからそいつを祓いに行く」
嘘は一切ない、何もかもが筒抜け。意志の折れた味雲の格好悪い様を己で眺めてため息をついて、霧葉を満足させていた。
「でもさ、例の影がどう見ても強いからこりゃあ本気しかないよなって思ってな……霧葉のあれは使わせたくなかったからひとりで終わらせようと思っただけ」
続けられた言葉に霧葉は顔を顰め、味雲の身体に回していた腕に込めていた力を更に強めていつもより固くて棘のある声で伝える。
「ひとりじゃ行かせない」
予想通りの回答。霧葉が知ってしまえばその流れへと向かって行くことなど初めから分かり切っていた。
「ミクモこそ能力なんか使ったら夜も眠れない悪夢みたいな想いに頭やられるくせに」
味雲の口は力なく開いたまま塞がらない。それは間違いない、霧葉と出会った日のことが未だに昨日のことのように鮮やかな色を持って蘇って来た。エアーガンの姿を持ったあの武器。霧葉の口もまた開かれて塞がらない。そうして色は薄くて分厚く形のいい唇から言葉が溢れて止まらなくて、味雲の耳を伝って心へと流れ落ちて行く。
「私、ミクモがあんな顔してるとこ見たくないよ……」
疲れ果てた顔、安らかな眠りさえ許されず睡眠不足で次の世界の明るみに身を焦がしていたあの光景。その顔から感情は陰以外全て消え去っていた。
「あの澱んだ顔見るだけで心が沈んでもう我慢が出来ないの」
勝手に想われて勝手な感情で事情を押し付ける。
もしかすると好意もまた、双方向だったとしても勝手な感情が向き合っているだけなのかも知れなかった。
「両想いのエゴ」
「いやだそんなことないわ」
言葉は霧葉によって切り捨てられていった。
「私もミクモも互いにちゃんと想いあって動いてるから……ひとりで解決なんて考えるのは、いけないのは、いけないのは」
詰まった言葉、瞳の色に迷いはなく、何がいけないと言おうとしているのか味雲には分かっていた。いけないのは能力、きっとそう。互いに互いの能力の後追い攻撃を味わうことを許さない、それだけのことだった。
「違う、俺たちのチカラは」
味雲には分かっていた。その能力は自身を守るために、過去の苦しみを乗り越えるために開かれたもので、否定したところで相手の過去の道筋に間違いを突き付けることに、心の流れの在り方をも否定することになってしまうのだと。
この話は幕を閉じ、味雲は霧葉の腕を緩やかな力でほどこうとする。その意思は強く伝えられたようで、霧葉はすぐに腕を離してぎこちなく微笑んだ。
「じゃあ、行こうか」
ほんわかとした頬の薄桃色と柔らかな空気はあまりにも澄んでいて安らか。これから戦いに行く人物のものとは思えなかった。
「理科実験室、動いてなきゃそこにいるよ」
霧葉は頷いて、ほんのりとぬるい風が吹き込む廊下をふたり歩き出した。
「どっちが能力使っても文句なしで、だな」
味雲の言葉に対して頷いて。
理科実験室への距離は残すところ如何ほどだろう。数百メートルか数十メートルか。その距離感は味雲には分からなかった。
歩いて踏み出して進み続けて。もう目の前というところにまで迫ったところで霧葉は大きく息を吸った。開いた窓を通って入って来る空気の味はいかがなものだろう。肩の力を抜いて息を吐いて、霧葉は素早くドアを開いた。
そこに待っていたのは化学部に所属する人々。全員が全員異なる顔立ちに同じ色の表情を塗り付けて、霧葉の方へと顔を向けていた。
既に学校内で悪い意味での知名度に溺れている霧葉は容赦という言葉を知らず。低くて枯れて響かない声を懸命に張り上げて、目を丸くしている化学部員たちに否応なしの強引な態度で伝えていた。
「この教室には悪霊がいる、私が退散して私も退散するからちょっとどいて」
いつの間にやら指につままれていたペーパーナイフは天へと向けて掲げられた。まだ落ちきれていない太陽から降り注ぐ光の雨を受けて鋭い輝きを放つなまくらの刃は人々の視線を一点に集めていた。
――しまった、急展開すぎてついてけてない
狙っての行ないなのだろうか、味雲には一手たりとも入り込む余地を与えていなかった。
「向こうに影形の悪霊がいるから行かせて」
程よい大きさで周囲に散らされる叫びは味雲に手出しは無用だと語っているようだった。
「行くわ、ペーパーナイフ、その銘は〈未来の護身の為の自傷の追憶〉」
そのままペーパーナイフは振り下ろされた。本来ならば決して届くはずのない距離の先にて空間を泳ぐように踊る影、視える人にしか見えないそれを霧葉の持つ刃物はいとも容易く切り裂いていく。
影にめり込む何か、ペーパーナイフの動きに合わせて影はその身を裂かれて形を変えて行く。見慣れていないためだろうか、味雲には異様な光景にしか映らなかった。
やがて斬られた影は口らしきものを裂けてしまいそうなほどに大きく広げ、誰にも届かぬ叫びを上げ始めた。声は化学部員はもちろんのこと、霧葉と味雲にも一切届かない。そんな群衆の中でひとり虚しく想いをまき散らしていた。
実態を持たない影が煙を噴き出しながら揺れ、やがては萎み縮んで見えなくなっていく。
気が付けば化学部員の手元には日の輝きに艶やかな反応を示すビーカーやフラスコたちが戻ってきていた。
気が付けば霧葉と味雲の脳裏に影の叫びが聞こえていた。叫ぶ姿が目に映るにもかかわらず届いて来るのは気の抜けた言葉の数々、抑えられて平静の態度を思わせる声のトーン。
はあ授業だりぃ
サボりてえ
将来役に立たねえよな
教師の馬鹿野郎、分かるように教えろっての
あの先生スタイル良すぎだろえっろ
それはきっと埃のように積もり溜まり凝り固まった負の想い。生徒たちの授業へのやる気のなさが生んだ化け物だった。故に授業の邪魔以外の危害は一切加えず真面目な人物にとってはただただはた迷惑でしかない怪物。人の身への害はなくとも実害自体はあるのだから退治されるのが当然、迷惑は悪行なのだから。
立ち尽くしていたふたりの視界は意識はいつの間に現実へと追い出されてしまったのだろう。気が付けばそこには影もなく、人々からの感謝の想いもなかった。この場所でこそ言えること、あまりにも救いがなかった。周囲の目線はいつも通りの冷たい色をしていた。例の道具たちは元に戻って来たのだから邪魔者は早くこの場所を立ち去らないだろうか、そう言ったじめじめとした思考をいとも容易く態度に出して見せるのだ。
やれやれ、声にも出さず顔にも出さず、湧いて膨れ上がる呆れを心に仕舞って蓋で抑える味雲の隣で霧葉は突然しゃがみ込んで頭を細くて長い腕で覆い始めた。
どのような思い出が巡っているのだろう、どのような過去が頭の中で蘇り繰り広げられているだろう。心象の空の中にて開演された追憶に馳せる想いのカタチは分からなかったものの、態度から、腕の隙間から覗く瞳のくすんだ色合いから想像はついていた。
「霧葉」
声を掛けて、背中に温かな手を当てて、しゃがみ込む。味雲の顔を目にして霧葉は叫び始めた。
「イヤだ、見捨てないで……こっちを見て」
悲痛な声に、周囲はただただ嫌悪感を露わにするのみ。そう、みんな霧葉のことなどいない方が断然快適なのだと思っていた。味雲を除いては。
初めて出会ったあの日にも使っていた術。味雲の何倍もの走りづらさを感じて、実際速くは走ることの出来ない霧葉が味雲の脚に傷を与えて動きを止めたリーチの外側への斬撃。
あの時も同じような苦しみを訴えていた。あの日には責めるための言葉を放って逃げた。
味雲は思い返していた。
――あの日俺は……最悪なことやってたんだ
あの日の自分、最悪と同じ雰囲気を纏って得意げな態度を飾り付ける周囲を見渡して、味雲はその目を無理やり細めて化学部員一同に重々しく気持ちの悪い殺意を刺し込んで、霧葉の腕を肩に回して身体を抱いて教室を後にした。
どのような景色も今の霧葉にとっては変わりないだろう。苦しくて、忌々しい。全てが自身を見捨てる程度のもので、高い所から感情も無く見下ろす存在のように映っていることだろう。
どうにか味雲の在籍する教室へと運び込んで、椅子に座らせた。隣の席から椅子を引き寄せて腰かけて、霧葉の悲しみに沈んだ瞳を、昏い感情に浸り続けて閉じこもる彼女の肩に顔を寄せて優しく語りかける。
「霧葉、安心して。俺だけは離れないから。ずっと傍にいて、ずっと一緒にいるから」
瞳は微かに動いて、長い髪に隠れた唇が微かに動いたような気配がした。聞こえない声、届かない言葉、しかし、目の向きはしっかりと味雲を向いておりしっかりと見つめていることが見て取れた。味雲は言葉を繋いで届けて霧葉と繋がり続ける。
「一緒に笑い合って一緒に歩き続けて一緒にゴールテープを切る日まで……絶対あきらめないから」
霧葉の顔が少し上がる。瞳のカタチが、悲しみに充ちた気配が、少しだけ緩まったように見えた。
「また前を向けるまでは、ゆっくり休んでいいからね、霧葉」
きっとこれは霧葉の過去の事情、何か本人にとっての苦しみでもあったのだろう。未来の護身の為の自傷の追憶、ペーパーナイフの銘そのものがあまりにも危うくて、更にこの前の言葉にも霧葉の自傷癖の跡形を見せていた。
「だめ、自傷は……ミクモが悲しむ」
ここまで殆ど黙り込んで蹲り続けていた霧葉が遂に味雲にも分かる言葉を発し始めた。
「いけないの……ねえミクモ、私を抱いて、強く強く、折れそうなくらいにしっかりと」
悪夢の明けが見えてきたのだろうか、味雲は霧葉手を取って起こすように立ち上がり、手を引いて霧葉の身体を引き寄せ腕を背中に回す。長い髪が頬を撫でて、柔らかな感触が身を預けてかかって来て、この上ない恥ずかしさが熱となって心から顔へと昇る。やがては全身をかけ巡ってぞわぞわと撫でてきて、むずがゆさと気持ちよさが混ざり入り乱れていた。
女性としての存在感をしっかりと誇示する身体を抱き締めて、離れてしまわないように消えてしまわないようにしっかりと、温かな気持ちを込めて強く抱いて。この愛が夜の闇の中で華やかでいられるように態度が騒ぎ立てていた。
「ふふ、ありがとうミクモ。私はこれで明日も生きて行けそうかしら?」
疑問形なのだと語尾の発音から分かった。何故だか疑問をぶつけられて、味雲は戸惑うばかり。その貌をしっかりと目に焼き付けながら霧葉は微かに息をこぼして笑っていた。
「そもそもなんで疑問形なんだ」
自信がないのだろうか、それとも味雲に背中を押して欲しいのだろうか。そればかりは分からなくて、ただ想いを言葉にして伝えるだけのことだった。
「大丈夫、一緒に生きてくから心配しないで」
ありがとう、ただそれだけの言葉が声にならずに掠れて消えて。霧葉は大きく深呼吸をして代わりの言葉を選び抜いた。
「ミクモのお家じゃあまりいいごはん食べられないんでしょ?」
言わなくても見抜かれていたらしい、味雲は毎日の食事を思い返していた。スーパーで買ってきたサラダと酒のつまみと白米のみ。いつも母と時たま天音の好みだけに左右されて、質も量も全くもって足りていなかった。
そうして過ごしてきた身体は太ることを知らず、余分な脂肪というものの味を知らなかった。栄養バランスは極端に悪いとも言えなかったものの、やはり体を充たす食事には届かず、心を充たす食事とは大きくかけ離れたものでしかなかった。
足りない分を少しずつ身体から支払って、元々太ることを知らない身体は更に窶れていく。母は酒で、天音は女という理由で味雲よりも可愛がられていたがためにお菓子を与えられて頬張ることで補っていた。
そんな事情など誰にも話したことなどなかったはずが、霧葉に言わせれば体型が生活習慣を語っているらしい。
「大丈夫、初めは私が求める量を食べきれないかも知れないけど、だんだん慣れてくるはずだから」
顔から身体まで何もかもが美しい少女を抱き締め受け止める腕はあまりにも頼りなくて、それを目にして肌で感じて霧葉は乾いた笑いを風に織り交ぜて吹かせていた。
霧葉の柔らかで形のいい手が味雲の頬を包み込んで、ふんわりとしかし確実に引き離す。
「私のお家においで、ごはんはきっと出来てると思うから」
霧葉の手作りではない、などと落胆する余裕すら持ち合わせていなかった。久々の手料理を口にする機会を得た、その事実ひとつで味雲の心は小躍りを始めていた。嬉々とした想いが輝く瞳から溢れていて、まさに水を得た魚のよう。
霧葉の案内によって歩き始める。相変わらず階段に足を踏み入れる時の注意深さと走ろうとせずに闇に閉ざされる直前の濃い青の空の下を歩く姿は味雲の内に保護を促進する欲を、優しい感情を産み落としていた。
手を繋いで、歩幅を合わせて、指が絡められて、ほどけなくなって。
「思い切り恋人つなぎかよ、ぶち壊しだよ」
味雲の純粋は、色による誘惑によって崩壊を招いていた。これまでと比べれば明らかに大人となっていた、霧葉との関りによって大人にさせられていた。
不便な日常を歩む彼女の進みに合わせて、味雲もまた、ゆったりと歩く。ふたりの身長の差はそこまで見られなかった。
「霧葉って背高いよな」
「ええ、170に届かないけど」
味雲は思わず声をこぼしていた。彼の背は173cm程度、顔の位置が目線の位置が殆ど変わりないということを知って、どこか親近感を覚えていた。
目の前の電柱から、濃い青の世界、闇に落ちる直前の独特な空気感の中にて存在を誇示するように輝く看板、全てがあまり変わらないように見えているのだろうか。
それから歩いてたどり着いた一軒の普通の家。色は闇に閉ざされてよく確認できなかったものの、霧葉は確認しなくても地味だから気にしなくていいと説明していた。
家のドアを開き、霧葉は吸い込まれるように素早く入って行った。味雲もそれに続くように家に上がり、霧葉の後をついて行く。
「ただいま。お母さん、おじさん、今日は彼氏連れて来たから。彼は親が飲んだくれだからあんまり手料理も自由な量も食べれてないらしいからもてなしてあげて」
味雲が顔を覗かせたそこには優しそうな眼をした女性が立っていた。美しい顔立ちからして、霧葉の目が悲しみに歪んでいなければそうなったのだろうといった想像を否応なしに呼び起こす。
「あら、味雲くんいらっしゃい。噂には聞いてたけど、キリが受け入れきれそうな顔してるね」
受け入れきれそうな、その言い回しに首を傾げ、すぐに想い至った。これまでのツラい過去を吐き出したような言葉の数々はきっとほぼすべてが本心だったのだろう。
霧葉の母が味雲に顔を近付け、耳元で密閉させたささやかな声でこそりと伝えてみせた。
「キリの過去のこと聞いたなら優しくしてあげてね、親が言うのもなんだけど、あの子どうしても私たちではケアできなかった苦しみがあるから」
味雲は過去のことなど聞いてはいなかったものの、言葉のひとつもなしに頷いてそれで良しとして会話を閉じた。本人が教えたくないと思っているのならば、その意思に従うのみ。
そうしたやり取りの果ての想いにふけている内に霧葉が私服に着替えて戻って来た。ゆったりとした白いズボンにこれまたゆったりとしたクリーム色の服。これが霧葉のいつもの私服なのだろうか。
「カワイイね」
きっと楽でいられる服を選んだだけだろう。しかし、そこで選ばれた服とそれに包み込まれた霧葉の身体のふたつから、味雲は多大な女の子らしさを感じていた。
「ありがとう」
浮かべられた笑みはなんて不器用なものだろう。浮かべることが得意な感情は陰の方向を向いたものばかり。空間に染み渡る声はなんて弱ったものだろう。枯れ声は成長期の間に創り上げられた性格から出てしまったものだろうか。
母は霧葉の肩を優しく叩く。
「目が歪んでなかったらもっと可愛かったのにね」
そうしたやり取りの中、味雲は突然後ろから肩を掴まれた。味雲が家に上がってから全く話していなかった男、霧葉がおじさんと呼んだ人物だろう。
「食後に大事な話がある、本人が言うのはツラいだろうからな」
味雲は一度頷いた。きっとこの男のいう大事な話とは霧葉に関することだろう。本人が教えたがらない、味雲の考えは経験の浅さの象徴だった。
話したがらないのではない、知って欲しいが触れるのが怖い、それが答えだったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます