第4話 女子高生『甘土 霧葉』の手腕

 悔い、それはどのような時に感じ取るものだろう。競い合いで負けた時、全力を掛けても叶わなかった時、やりたいことが出来なかった時。

 霧葉の中でひとつひとつ悔いが膨らんで行った。味雲と紡ぎたい関係、味雲と共に過ごしたい時間、味雲と味わいたいデート、人前では語ることも出来ないような夜のひと時。

 様々だった、味雲に対して出来ていないことが多すぎて霧葉の内に蔓延る靄が大きくなるばかり。叶わない事ばかりで充たされた関係を見返して、霧葉は大きなため息をついた。

 まだまだ味雲と会う機会はあるにもかかわらず日々大きくなるばかりの悔い。それを抜くことができればきっともっと平凡な日々が楽しい色に染まるだろう。

 様々な悔いを毎日溜め込んでしまっていたものの、霧葉にはもっと大きな悔い、話さなければならないとすら思っていることがあった。


 霧葉の中でも最も大きな悔い、それはずっと大きく強く濃い色を持ち、今でも育ち続けていた。



  ☆



 朝を告げるのどかな空気とキジバトの鳴き声が運び込んだ静かでゆったりとした雰囲気。そうしたものに迎えられて霧葉は体を起こした。

 薄桃色のカーテンがきっちりと閉じられた部屋は薄い輝きを持っていて霧葉は今日も朝を迎えたのだと悟りつつ、口を大きく開いてあくびをしながら腕を伸ばし、制服をつかみ取る。着替えを手早く済ませてカーテンへと歩み寄り、細い指を伸ばす。カーテンをつまみ、開いて差し込む柔らかな光を出迎えた。キジバトは何処で鳴いているのだろう。電線だろうか、屋根の上だろうか。

 窓ガラスに薄っすらと映り込む顔を眺めて微笑み想いを音に変えた。

「この目が歪んでなければ完璧なのだけどね」

 今は窓ガラスに映らないあの男を目の前に映して重い靄を胸の中に落とした。あの男は美人が苦手だとはっきりと言っていた。しかし霧葉としてはどうしても想っていて欲しかった、共に愛を交えて一緒に出掛けて面白おかしく語り合って特別でも何でもない日々を特別な色に、誰にも分からず見たこともない色合いに染めていたいと思い続けていた。

「そもそもアメソラも少し可愛めな顔してるくせに……」

 柔らかな雰囲気を纏った味雲のことを想うだけで湧いて来る感情がざわめいて止まらない。

 こうした心を人は恋と呼ぶのだろうか。愛のような重みは感じられないものの、今はそれでいいのだろうか。いつの日か共に生活する上で互いの覚悟を試されるのではないだろうか。

「今は考えても仕方ないかしら」

 その片思いはあまりにも空しい。梅雨の時期を前に木枯らしの世を感じさせた。

 一週間の真ん中水曜日。しかし霧葉は憂鬱も感じることなく寧ろ学校に通い勉強に励む日々すら楽しみにしていた。

――アメソラに会うことが出来るなら、どんな勉強だって出来そう

 実際のところ、霧葉の成績は味雲と出会って以来少しずつ伸びて行って、今ではクラスの中でも真ん中に届くかどうかといった位置にいた。色恋が勉強の背中を押していた。経歴が役に立つのなら、好きな人との幸せな未来に繋がるのならば、どこまでも頑張って行けるような気がしていたのだった。

 今日もまた学びに向けて強まる意志と鞄を背負い、母に挨拶をしてドアを勢い良く開き飛び出した。霧葉を出迎えた空気はひんやりとしながらもどこか優しくて、爽やかな空は少しばかり白みがかっていて、更に白い綿のような雲たちが漂う姿。霧葉はそんな空の姿に対して柔らかに纏まった味わいを感じていた。



  ☆



 水曜の朝、それは世の中に憂鬱感が蔓延っているようにすら思える日。気合いという名の情もこの日ばかりは定休日だった。

 味雲には元々そこまでやる気もなかったものの、時たま帰って来る姉の天音が酒瓶の処分を求めて来るのが更にやる気を奪っていた。白くて安っぽい薄手の和服にこれまた簡素な見た目の黒い帯、そうしたものを身に着けソファに寝転がって酒を飲み明かす姿などとうの昔に見飽きていた。

「つか、姉さんさ、この前華の金曜日とか言ってたよな……」

 昨夜は火曜日だった、そう続けようとした味雲だったものの、そうした言葉は世に生まれ落ちることすら許されなかった。天音の声によって心の内へと引きこもってしまったのだった。

「アンタさ、陰陽五行説って知ってる?」

「あれだろ、火、水、土、木、金、の五つの属性の」

 そこに陰を意味する月と陽の意を示す日を加えて日本の七曜となる。という程度の知識は心得ていた。

 天音は嫌らしいニヤけを貌に映して、広い袖を振りながら話を続けた。

「五行の木と火は陽、金と水は陰、土を中間とするものさ」

 相互関係は色々あれども、口を動かし会話を引っ張り、そこから必要なことだけを引っ張り出す。

「その中でも『相剋』なんて関係がいらっしゃってね、金は木を切り倒し、木は土の養分を吸って痩せさせて、土は水をせき止めて、水は火を消して、火は金を溶かす」

 この言葉に何の意味があるのだろう。会話の流れをつかむことが叶わずに味雲は首を傾げるばかり。そうした態度に目もくれずに天音は言葉を紡ぎ続けた。

「いいかい、金は、つまり華の金曜日は火に溶かされた。で、火曜の夜に流れ出て侵食したってわけさ、お分かり? 会話のお替りいかが?」

「めちゃくちゃだ……言ってること、めちゃくちゃだろ」

 酒を飲みたいが為に屁理屈をこねて豪快な笑い声上げる酔っ払いの天音。内心その態度から呆れを生み出すことしか出来なかった。

 酒瓶を受け取って立ち去ろうとする味雲。その背に向けて天音の酒混じりの声が、呂律の回らない言葉が流し込まれ、味雲の背筋を生々しくなぞる。

「違う生活の匂い、オンナのものだねえ。もしやして美人さんじゃあないだろうね」

 そのまさかなのです。心の中に留めた叫びと気付かれてはならないという気まずさ、この家から心の居場所が次第に奪われて行っているという実感に肩身を狭めて不自然に背筋を伸ばしてドアを開いて袋に酒瓶を纏めた。

「返って来たお代はちゃんと持って帰ってアタシの貯金猫に丁寧に入れな」

 くれぐれもちょろまかすんじゃあないよ、そんな言葉を加えられた。特にお駄賃のひとつも差し出されない、言わば雑用だった。

 それから母が空けた酒瓶も回収し、しっかりと洗って乾かして空が明るくなる様を見届けながら準備を済ませ、外へと飛び出した。

 歩き続けて川に沿って歩いてやがては離れて、見えてきた町並みは見慣れて幾年もの年月を経た景色。少し道を外れてしまえば見知らぬ景色に幾度か変わり果てた道もあったものの、此処だけは特に理由もなく、しかし確実に不変だった。

 それから進んで、途中で酒屋によって瓶を手渡して金銭を受け取って。

 今日の目的、学校へと続いているであろう道の途中で待っていた人物、悲しみに瞳が歪んでしまったあの少女が立っていた。

「おはようアメソラ」

 低くて枯れた声は過去にこの世に疲れでもした証なのだろうか。味雲はそんな普遍的かもしれないが本人にとっては誰にも分からない苦しみと思えている闇。そのひとつでも抱えているかも知れない美人に挨拶の声を届ける。

「おはよう、待たせてごめんな、霧葉」

 どれほど待っていたのだろう、想像すら入る余地のない頭では考えるのも愚かに想えていた。

 そんな味雲の朝の扱いも想いも知らないままに霧葉はただ優しい笑顔をぎこちない仕草とともにどうにか作って味雲の顔を覗き込んで訊ねた。

「疲れた顔してるけど、大丈夫? ムリはしないでね」

 優しい言葉のひとつが心に沁みて痒かった。悲しみの情だけは浮かべ慣れている、そんな美少女が苦手な笑顔を頑張って作っている様子に対してこそムリしないようにと返したかった。

 それは叶わない、今の環境には適わない、積年の重みには敵わない。家にて創り上げられた呪縛を完全に振り払うことが出来ずにいた。

 目の前に立つ女は味雲の家に於いては敵でしかない。どれだけ想いが大きかったところで、人生の導き手ほどの大きさにはたどり着くことなど容易ではない。不可能のようにも感じられた。そう、どれだけ想いを寄せてくれる相手、どれだけ想いを寄せ合いたい相手でも、見た目の美しさ故に味雲の人生に大きく関わる人物の口によって阻まれるのだ。

 父がいなくなって幸せが訪れたように想っていたものの、幸せの源が今このようにして不幸を呼んでいるという事実に頭を抱えていた。

「アメソラ、中々こっち見てくれない」

 霧葉の言う通りだった。目を向けて見つめることが出来ない。愛を唇で、素直な声で奏でることが出来ない。それでも表情を歪めながらでも霧葉の方を向いた。まさに不格好な関係と呼ぶに相応しいものだった。

 霧葉は不服とでも言いたそうな表情を浮かべて、味雲の手を取り歩き出す。しかしながらそれを口にすることはない。表情の色で知られていることなど分かり切っているにもかかわらず、感情を声にしなかった。

――私も人のこと言えないんじゃないかしら

 霧葉は気にしていた。明るい表情、煌びやかな感情を貌に出すのがどうにも苦手だった。心は暗い感情ばかりを噛み締め味わって、表情は陰しか纏わない。

 もしかしたら心からの笑みを、正直な明るみを、味雲に見せることが出来ずに命の火が燃え尽きてしまうのではないだろうか。そんな不安に支配されて、尚更綺麗な貌を見せられないまま、この時を重々しい心持ちで過ごしてしまった。

 学校にたどり着き、ふたり別れてそれぞれの道を行く。彼らが次に再会する時、何か感情が変わっているものだろうか。

 互いに秘めた迷いは迷いのまま時と共に深くなり続ける。迷いがやがて悔いに変わり果ててしまいそうで、不安をため息に変えて誤魔化す味雲と迷っていることそのものを悔いている霧葉、互いに共通していることは淡くて儚い願望だけだった。

 授業は始まる。ふたりの姿勢は異なる。覚悟の熱はあまりにも違い過ぎて、しかし互いに相手のそれを掴むことすら叶わない。これからの人生に対する想像の形も深さも何もかもが違っていた。

 授業は時間を平等に削って行く。例え懸命に聞いていても、全て受け流しても、構わずに同じように川に収まる水のように時は流れて去るのみ。

 時の流れに運ばれた先で訪れた昼休み、変わり映えのしない制服に身を包んだ人々がこそこそと耳打ちして味雲に対して陰っぽくて湿っぽい笑いを向ける中、味雲は歩くのみだった。目指す先など決まり切っているもので、例の食堂。

 そんな味雲の心の休憩所でも生徒たちは味雲に後ろ指を差す。そんな光景が見て取れて肩身の狭さを感じていた。

 家が居場所として息苦しくなっている今、学校も同じような道を辿っていることに味雲は心底呆れつつため息で誤魔化してはみるものの、どうにも気分は優れず霧のような雲が心の空を這っていた。

 食券を買おうとポケットに手を入れて財布に触れたその時、味雲の肩は掴まれ券売機から引き離された。

 引き寄せられた身体、捻じ曲げられた視線の先にはいつも一緒に登校している少女が立っていた。

「こんにちはアメソラ」

「霧葉、どうしたんだよ」

 いつもと比べて心なしか力のない目は味雲の意識を捕らえて引き摺って。手を引かれて向かったそこは裏庭だった。

 そこで霧葉が鞄を開いて取り出したものは、きっと男子生徒の誰もが憧れる輝かしき栄光だった。

「弁当作って来たから一緒にと思ってね」

 周囲からの目線は明らかに排斥の意が込められていた。弁当が原因ではないだろう。その程度のことは分かっていた。味雲にも霧葉にも、時を以て教え込まれた理由の味が、視線の色がすぐさま理解できていた。

「宗教なあ」

「無神論者みたいなものなのに……あえて言えば私が神、美の神」

「相変わらずだな」

 それと言って変わりのない霧葉の発言に安心感を覚えると共に、味雲はここまで来てようやく思い至った。霧葉はいつも奇異の視線や存在そのものを異物として否定する感情に晒されている。

 何もしなくてもそこにいるだけで迷惑なので消えてください、そう言われているようで、どこにいても早く立ち去るように脅されているようで。

 霧葉の居場所など、既に学校には無いのだということを、周囲の言葉無き意見と気持ちを今も継ぎ足しで注がれていた。

 しかし霧葉は態度のひとつも変えることなく味雲に顔を向けてなけなしの喜びを顔に滲ませていた。

「最近成績伸びて来たの、勉強頑張って良い将来を掴みたくて」

 そう語る霧葉に、味雲は変化というものを叩き込まれていた。愚かな振る舞いは性格で、成績や素の頭の良さと直接つながるとは限らないということ。本当に愚かな人物は己なのだと思い知らされて言葉も出てこなかった。

 黙り込む味雲に霧葉は可愛らしい頭を寄せて心の波を立たせる色に充ち揺れた言の葉を放つ。

「こんなに頑張れるのも、アメソラのおかげだよ」

 果たしてどれだけの徳を積んで来たのだろう。それと言って積んでいない、味雲は大した理由もなかったが新たな心の居場所を得ていた。しかし、味雲にとって多少の抵抗感のある顔、分かりやすい程にふざけた言葉が飛び出て来る口。素直に喜ぶことが出来ないでいた。

「アメソラも私のために頑張って」

 そう言われたところで霧葉のために頑張る理由など持ち合わせていなかった。それを告げると共に霧葉は言葉を詰まらせて自らの左手を握りしめて、本心が見えていた表情を笑顔の中に隠して懸命に明るい声を出そうとしていた。

「そ、そうね。人のためじゃなくて自分のために頑張るんだものね」

 低めの枯れ声に無理やり射し込んだ明るみはどうにも似合わず味雲の表情を崩して行った。

「霧葉はやっぱ明るいのに明るく見えないよな」

「そう、クールビューティーってやつね」

 いつもの調子で言葉を被せるものの、その声からはどうにも元気が失われているように感じられた。

 どのような話題をどのように想いを動かしながらどう話したところでどうにも盛り上がらないという絶妙に嫌な空気が薄く張っている昼食を終えて中庭を後にする。きっとその場にいた生徒たちは誰もが安らぎを得ただろう。その場にいるだけで迷惑な人などすぐにいなくなるのが当たり前、そんな意見を瞳の色から感じ取っていた。

 人々の冷たい目はこの狭い世界の中だけの話なのだろう。外には持ち出されないはずのそれだった、どう足掻いても学校という空間での空気、しかし、その狭いはずの拒絶がどうにも大きく感じられた。それはきっと味雲と霧葉にとってとても大切な世界だから、そう留めて、味雲は明るい学校生活を諦めていた。それでも生き抜くという想いだけは折ることなく歩き続ける。

 隣を歩く霧葉は味雲の手を握りしめ、分かり合えない価値観を生み出す顔を向けて問いかけた。

「アメソラは……後悔しないの?」

「何が……」

 これ以上は声にもならない。霧葉が何かを言いたいのだ、そう気が付いてしまったのだから、味雲は彼女の言葉を聞くことに徹するのみだった。

「そのさ、私に最後まで慣れなくて、結局楽しく学校生活を送れないなんて」

 その声はあまりにも悲痛で、その表情は眼を歪めた元凶の色をしていた。

「私、アメソラに会わなきゃ良かったのかも。そうしたら」

 味雲を苦しめることもなかったのかも知れない、そんな言葉を表情の奥に見た。しっかりと握りしめられていた手の力が抜け、霧葉の手がほどけてしまいそうになっていた。放っておいたらきっと離れてしまうのだろう。味雲にとって苦手でありながらもどこか見放すことの出来ない少女、素直に全ては認められないものではあれど。


 確実に好きであることは間違いなかった。


 味雲は離れようとしている手をしっかりと握りしめて、絶対に離さない、そんな意志を見せて、言の葉で包んだ。

「そんな事言わせてごめん。あとさ、多分霧葉がいなくても俺は煮え切らない日々を過ごすだけだったと思う」

 間違いなく今ほど輝いた日々にはなり得なかっただろう。将来に対して明確な目標があるわけでもなく、かといって夢が出来た時に好きなように道を選べる成績を収めているわけでもない。

 出会っていなくても霧葉は堂一に目をつけていた。ひとりぼっちで誰からも必要とされない人生を想うだけで寒気が止まらなかった。それが運んで来る危機感、やはり霧葉は味雲の中では大切な存在だった。

 そんな彼女のことを否定してしまえばそれこそ味雲の居場所などもぎ取られてしまうだけだった。ようやく味雲は霧葉を心の底から求めているのだと気が付いた。

「今までごめんな。今までありがとう、なんだかんだ救われてたみたいだ」

 優しく言ってはみるものの、少しばかり強張った声色しか出てこないのはやはり親の心によって植え付けられた想いのイタズラだろうか。

「そしてこれからもよろしく」

 霧葉は味雲の顔を一瞥するも、本心は読むことが出来なかったのだろうか。枯れた声を潜め、味雲に疑念の瞳を見せるのみ。

「本当に嫌なら嫌って言ってね。ムリは心を壊すだけだから」

 その表情に似合った言葉、まるでその境地に身を投げたことがあるような口ぶり、味雲にとってはそうした過去に触れることはあまり気が進まなかった。

 どうしても訪れてしまう別れ、廊下の分かれ道は訪れてしまった。ここからはひとり、教室へと足を運んで次の授業に備えて教材を取り出す。味雲のやる気が上がることはなかったものの、それでも気分を少しだけ楽に、心の波をさざ波に抑え込んでいた。

 今のままではどうしても避けることの出来ない時間、しかし万が一学校をやめてしまった場合後に控えるものは果てしない闇の世界。空が更に高くなって、手が届かなくて藻掻くことで精いっぱいになってしまう苦しみの深淵のセカイだった。

――それだけは迎えちゃダメだ

 やる気の頭打ちで擦り続ける。足りない頭で学びを手に取り仕舞い続ける。大きな黒い板に白や黄色の棒が身を削って軌跡を文字という形として残していた。それを書き留めて、教科書を見つめる。霧葉に訊ねたら良い勉強方法を教えてもらえるだろうか。分からないことは分からないまま過ぎ去って行く。自ら考えている暇など一切ありはしなかった。

 そうした時間、黒板に書かれた内容を写して考え噛み砕いて理解しながら叩き込むことこそ今の味雲にとっては最善、彼の頭で考える手段の内、今取り得る中では最も良い方法だった。

 掃除の時間は景色を眺めてやっている素振りだけで終わらされてしまった。掃除という存在は学校という狭い世界の中で必死に空回りを続けた。

 それから教師の説教、勉強をしているか否か、お構いなどなくただ勉強することだけを口から吹き出してかけ続けた。

 たったの七分程度、それだけの時間だったはずが十五分もの時を過ごしたように感じられた。解散と共に霧葉と待ち合わせている校門の前に向かって行った。暗いヴェールを纏ったようにも見える黒くて長い髪の美人は細くてきれいな脚を、左脚を曲げて、校門の柱に当てて身体を支えて待っていた。

「ごめん、待たせた」

「別に……どうせ教師のせいでしょ」

 同じ立場として流石に理解していたようだった。味雲は体感時間について口にした。倍ぐらいに感じるくらい退屈だったという味わいたくなかった忌まわしき体験談を。

「良かったじゃない、同じ時間でも二倍気分なんてお得感満載と思えないかしら」

「思えるか、生徒一同ずっと説教されただけだぞ」

 流石に冗談だろう、霧葉はその顔に似合わぬ笑みを浮かべ感情をぎこちなく伝えていた。その想いは空気に溶け入り混ざる水のリボンとなって味雲の心になじむように入り込んで優しく包み込む。

 それから霧葉は家とは異なる方向へと足を向けて、味雲の問いを背に受けていた。

「家、向こうじゃないのか」

 霧葉は振り返り、味雲の頬を左手でつかんで顔を近付ける。添えるような力で頬に触れる指は白くて細くて美しくて、味雲の頬に赤みを塗り付け、心地よい冷たさに熱されていた。

 時は止まってしまったのだろうか、そう錯覚させるほどに甘い時間はゆっくりと世界の中を漂っている。仄かに酸味の効いた果実感を持った空気を盛られて呆然とする味雲に霧葉は先ほどの行動の理由を伝えてみせた。

「依頼があって。身体は冷たいのに体温が高いなんて摩訶不思議な依頼」

 不思議など今更と呼べる程に味わっていたものの、その矛盾には流石に首を傾げていた。話によれば身体は冷たくなって行っているものの、体温計で測ると熱が上がっていて、今は三十八度に届くかどうかなのだという。

「いったい何者の仕業だよ」

 普通に考えて神霊の仕業とは思えない。しかし、科学的に考えようにもすぐさま匙を投げるであろう事態だった。霧葉は味雲に近付けていた顔を更に近づけ、今にも鼻先同士が触れ合ってしまいそうな状態だった。味雲の視界いっぱいに広がる霧葉の顔から逃れることなど出来なくて、目を閉じるか向かい合うことしか出来なくなっていた。

「きっと私たちの出番」

 実のところは分かっていない。もしかするとその現象は霧葉たちが触れている日常的な非日常の内側に収まる代物ではないかも知れない。しかし、見てみなければわからない。

 霧葉は顔を離し、そのまま手を繋いで振り返る。スカートが可愛らしく風になびいてひらりと舞う。それが味雲には一輪の花のように見えた。やがて花は静かに閉じて味雲を引っ張って目的の場所へと向かい始めた。

 坂を下りる時はゆっくりと、平坦な道はごくごく普通に、景色を見ながら歩いている時には優しく柔らかく、階段を上る時は味雲を握る手に力を入れて慎重に。手の温度や力加減が味雲に霧葉の感情を示していた。

「強張ってるな、大丈夫、ゆっくりとな」

「私、階段見えないから慣れない道の時は出来るだけ慎重にしっかりと踏むの」

 その言葉と共に味雲は初めて出会った日のことを思い出していた。あの時は慣れていたとは言えど、階段を走っていた。胸で足元など見えなくなって久しいはずだというのに。

「急ぐのはやめとこう」

 霧葉の感情を味雲は受け入れて、味雲の提案に霧葉は頷いて、階段をゆっくりと上り切った先、目的地は既に近いのだそうだ。

「ごめん、俺にはここがどこだか」

「私も初めて来たんだけど」

 つまり、ふたりとも詳しい場所が分かないということだった。紙に丸みを帯びた可愛らしい橙色の文字で書かれた住所と時たま壁に張られている緑の板に書かれた文字を見比べながら進み行く。

「んん? その可愛い文字、霧葉の?」

「そう。ええと、今二丁目のこの番地でさっき見た番地があれだから」

 こうして地道に且つ確実に居場所を探り、ようやく目的とする番地付近へとたどり着いた。

 そこから目的地へ、表札に書かれた依頼者の名前を、歪んだ瞳で歪み無き視線で確実に見てようやく探り終えた。

「霧葉凄いな、あんなのを頼りに行けるなんて……俺、いる意味ある?」

 霧葉は妖しい笑みを浮かべながら問いを刷り込み始めた。その枯れた声は驚くほどに引っ掛かりもなく浸透して味雲の心に響いていた。

「これが出来るようになるまでどれだけ頑張ったと思ってるのかしら」

 味雲は想像を繰り広げて目を見開く霧葉の言葉には苦労の痕が滲んでいて、その瞳はあまりにも痛々しかった。

「初めてよ」

 味雲は肩を落とした。結局のところ苦労の痕など見間違い、別のことに対するものだったようで、霧葉の心がつかめないもののように想えていた。距離は開いて近くにいるはずの彼女は別の世界にいるようにすら思えて。

「成功したのがね」

 霧葉の相変わらずの枯れ声によって付け加えられた事実に希望を拾い上げた、世界の壁が取り払われたような気がした、一気に親近感が湧いて行った。

 そうした味雲の心など一切気が付いていない様子で呼び鈴を細い指で押して鳴らし、名を告げて中へと入る。これからどのような事が始まるのか、待ち構えているのは味雲には一切想像の付かない次元の世界だった。

 上がり込んで初めに目にした人物は心配に眉を歪めた年配の女性だった。生き様を主張する皺が人生の波のように見えて、強さと優しさと心の大きさをひしひしと感じていた。

「お母さまですね」

 霧葉の問いに女性は頷き、腰を折る。ひとつひとつの動作に特別なことなど何ひとつ見受けられないにもかかわらず、その全てに気品の気配が波を打っていた。

「うちの子があのようなことになってしまって」

 身体が冷えている、額も冷たくなっているはずなのに熱を測ると高めの体温を示すのだという。気怠さを訴えていた四日前と比べて体調はみるみる悪くなり、今となっては立ってもいられない状態なのだという。

 母の案内によりふたりは患者が寝ている部屋へと通された。奇病だったら即匙を投げることが決まり切っていた。そう言ったことは現在のお匙、医師に任せる案件でしかなかった。

 部屋で眠っているのは思春期の少年だろうか、味雲よりもはっきりと男らしさを貼り付けた顔立ちをしていた。

「俺よりカッコいいんだけどさ、惚れるなよ霧葉」

「私は柔らかい雰囲気のイケメンが好きだからアメソラ最愛一択」

 軽い口はそこまでで途切れた。霧葉が当てた手には少年の額から伝わる冷たさが染み込んで、心をも青ざめさせた。

「生きてはいるみたいだけど」

 体温計が示した数字は三十九度。報告された物よりも明らかに悪化していた。味雲や霧葉が声を掛けてはみるものの、返される言葉のひとつもなくて、不安は募るばかりだった。

「こうなったら直接入り込むしかないようね」

 そうした言葉と共に霧葉は鞄に手を突っ込む。取り出されたものは勉強に用いているノートだった。

「罫線は引いてあるけど妨げにはならないはず」

 線の色の濃さのおかげだろうか。罫線の存在よりも存在感の方が大切なのだと説明しながら霧葉はノートを開いてシャーペンで文字を書き込んでいく。味雲に読むことの出来ない文字は如何なる祝詞なのだろうか。少なくとも霧葉自身の文字は先ほど確認したばかりだった。

「どういう呪文なんだ」

「あなたの心に入りますっていう呪文」

 そう言った逸話は何ひとつ聞いたことがなかった。つまり、霧葉が嘘をついていない限りは歴史の中にすら残されずにやがては消え失せる代物だった。

 書き込まれた文字列を聞き取ることすら出来ない発音で読み上げて、少年の頭の上に紙を置いて。そうした動作によって完成された一連の儀式は霧葉と味雲を少年の内側へと続く道を延ばして行った。

「俺も対象なんだ……」

 連れられて、入り込んで、向こうで待つ景色を目の当たりにして、呆気に取られていた。そこに広がるものは外と殆ど変わりのないありふれたもの。違いを問われれば街角のカーブミラーが汚れを知らない綺麗な橙色をしているということくらいだろうか。

 そこにひとりの少年が立っていた。寝ていた少年と同じ顔をした小さな彼、恐らく成長してもしばらくはあどけなさが抜けないと言ったところだろう。

 少年はうつむいたままゲームのカセットを持っていた。霧葉は少年に近付いて、腰をかがめて歪んだ美に彩られた瞳をそっと向けて訊ねる。

「どうしたの、何かツラいことがあったなら話だけでもして御覧」

 お姉さんが何とかしてあげられるかも、そう続けて締められた。少年はうつむいたまま、気まずさに身を竦めながら語り始めた。

「借りたゲーム、返す前に友だちが転校して行ったんだ」

「そう……」

 それはあまりにも簡単な話だった。言われたことそのまま、運が悪かったのか運命が悪かったのか。霧葉は頷いて、友だちの名を聞いて答えた。

「大丈夫、お姉さんが返しに行って来てあげる」

 どこまで本当のことなのだろう。真実の言葉を見抜くにはあまりにも少年には心の余裕が足りなかった。

きっと昔、学校で流行りが来たのだろう、味雲も聞いたことのあるタイトルのソフトを霧葉の柔らかな手で受け取り、包み込む。

 少年の後悔は冷たくありながらも熱く燃え上がっていた。心の奥で燻り続けた。その結果があの矛盾だったのだろう。

 霧葉が最後にお幸せにと残し、ふたりは道を引き返し、静寂の日常が帰ってきたのだった。



  ☆



 少年が眠っている姿はあまりにもあどけなくて、その空間にて共に過ごすということがどれだけ罪深いことだろうか。霧葉は机の引き出しを開いてゲームソフトを探し始めた。

 味雲は少年の額に手を当てる。それは紛れもない平熱、本来あるべき熱を、正しき姿を持っていた。

 引き出される道具、探られる品々、霧葉の必死の形相というものを初めて目にしつつ、味雲は床に落ちているノートを拾い上げて霧葉のカバンに仕舞う。

「見たね、エッチ」

「入れただけだ」

 霧葉の目にはしっかりと味雲がノートを仕舞う光景が、行動の流れが映っていたようだった。

「ふうん、やっぱりエッチね」

 色気を一切感じさせない枯れた声にいつもの心を乗せつつ霧葉は左手を掲げた。そこにあったものはゲームソフト、確かに世代は同じだったものの、別のタイトルのものだった。

「これだったかしら」

「俺に任せて」

 霧葉と違って男子児童としてのやんちゃ風景を眺めていた味雲は当時の流行にまったく乗ることが叶わず己の核の水底に沈んで仲間外れにされたという忌まわしき過去を思い返しながら、同級生たちが持っていたソフトを、朧げな記憶の僅かな視認の数の中から引き揚げて。

「これだな」

 味雲は当時流行っていたタイトル、先ほどの子どもが持っていたあのソフトを手に取って霧葉に退室を促した。

 ふたりで見つめる夕焼け空、梅雨入りは近いというにもかかわらずその気配すらおくびにも出さない大きく広がる天上の朱い大海原を見つめながら味雲は訊ねた。

「結果とは言っても返せなくて後悔してたんだよな」

「そうね」

 今日の霧葉の後悔を思い返して味雲は霧葉の手をしっかりと握り、柔らかな雰囲気の顔を優しさで歪めてみせた。

「霧葉には絶対あんな後悔させないから、これからもよろしくな」

 霧葉の頬は途端に心地よい熱を帯びた。頬を染める貌の色は空に溶け入って、透き通る感情を奏でていた。

「良い響き、よろしく」

 霧葉の瞳は微かに潤んでいて、薄桃色の想いは顔に優しい影をかけていた。

「ところで、美人が苦手の前に自分の顔、ちゃんと鏡で見てる?」

「なんだよ急に」

 味雲は記憶の中に眠る自分の顔のカタチを確かめた。優しそうで男気の足りない柔らかな雰囲気をいつも放っているあの顔を。

「別にいい顔でもないだろ、弱そうだし」

「その顔がいいの」

 霧葉は味雲の感情に言葉を重ねて塗りつけて、ようやく本音を伝えるというひとつの目標点を通過した。

 今日は後悔せずに済みそう、ありがとね。そう残してふたり大空広がる大舞台を立ち去った。

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