第3話 高校生『雨空 味雲』の歪み
それは狭い家の中。綺麗な部屋と呼ばれる環境を保つのは味雲の仕事だった。雨空家はどうにも面倒くさがりな人間が多いようだ。姉の天音はひとり暮らしをしているのだというが、たまに帰って来ては酒瓶を空けて笑いながら部屋に置いて帰るという始末。元々だらしない一面が時折目立って仕方がなかったものの、大人になってからは一層ひどくなっていた。ここ数年の姉の姿はと訊ねられては酒臭さを纏い笑いながら千鳥足で歩く姿しか記憶に残っていないと答える他なかった。
そんな天音が残して行った酒瓶を見つめながら大きなため息をついていた。「華金さ、金も女も酒もない。そんな生活に華なんてありゃしない」などと言って笑いながら飲んで放置して帰って行ったのだ。華の捨て置き場は、祭りの後の始末は味雲の仕事のようだった。
つまみの空袋をゴミ箱に放り込みつつ酒瓶を片付ける。相手の満足感が大きい程に虚しさが膨れ上がる様はまさに光を奪われ陰が差し込む虚無という巨大な悪を感じる瞬間だった。
もはや酒など飲む前から嫌いになってしまっていた。
姉が残して行った片付け仕事が終わり、掃除機をかけ始める。母はずっとソファで寝転がってテレビを点けて口にチョコを入れながら代わりとでも言った様子で笑いを出していた。
一切手伝ってくれる気配などない。ネコの手の方が役に立ちそうな状況に、部屋をきれいにしながらため息をまき散らすといった有り様だった。
「霧葉なら手伝ってくれるかな」
手始めに思い浮かべた光景が部屋の物色、続いてお菓子片手に謎に盛り上がる光景。更に引き摺って空袋はテーブルに放置。動かないどころか完全に仕事を増やす予感しか捕らえられなかった。
掃除機をかけ終えて、ひと息ついたところで女の呼び声が届いた。鋭い声で名を呼ばれるだけで驚きの感情が心を刺していた。
味雲は返事をしながら歩み、母の元へと向かって行った。そこから開かれた口は味雲にとっては面倒な物だった。
「さっき、霧葉って言ってたわね」
「ああ、確かに言ったよ」
そこから飛んできたものはお決まりの質問だった。
「どんな人? 霧葉さんは珍しく女の子みたいだけどどんな人か聞かせて」
そこからの回答で容姿に触れてはならない、それは味雲の髄にまで刻み込まれていた。
「なんというか変な人」
変な宗教を信仰しているなどと噂される人物で、味雲の目に映る姿も頭の悪い言葉を口にするものばかり。変な人であることは間違いなかった。母の質問はそれだけで終わることはない。きっと訊いてくる。霧葉との関係はそう簡単に切ることが出来ない、全て確信していた味雲は事前に答えを用意していた。
「美人じゃないでしょうね、私よりも美人じゃないでしょうね」
「目が歪んでるよ、あの子は」
そう告げて、母の機嫌を取って、母の言葉を聞き流し続ける。
「ええ、それは良かった。顔が良い分誰からもちやほやされて顔を良く見せる努力もしなくて済んで、就職も顔で有利でしかもアイドルや女優にだってなれるのだから何もかも得して楽に生きて、羨ましいわ」
味雲は思い返していた。果たして霧葉が幸せに生きているのかどうか。頭の悪そうな発言の多い彼女だったが、瞳から感じ取れる悲しみ、あれは本性の一角ではないのだろうか。あの瞳が頭から離れないまま母の声は、いつものように語られる母の持論は耳から入って頭を通り抜けてどこかへと消えて行った。
それから美人への苦手意識を植え付けた原因に一度、大いなる一礼を見せつけて外に出る。向かう先はあの美人が待っているところ。なに故に休日にも呼び出してきたのだろう。顔への苦手意識は消えないまま、それでも気になる顔を歪める悲しみの雰囲気を知ろうと向かっていた。交友は素人で上手く聞き出す自信はなかったものの、霧葉の普段の発言を態度を信じて味雲は進んでいた。
美しくも悲しみの一端を隠しきれていない顔をした少女はイタリアンのファミリーレストランの前で待っていた。味雲が駆け寄ると共に気が付いたようで、弱々しく微笑みながら低い枯れ声で挨拶をして迎えた。
「こんにちはご機嫌いかが? アメソラ」
「なんだその挨拶」
訊ねられ、霧葉は大きく形の整った胸をしっかりと張りながら当然のように答えていた。
「知らなかったの? 『こんにちは』って言うのはね、挨拶の始まりを取った略語だよ。だから『は』と書く」
知らなかった、納得の表情を素直に見せて感心の声を上げていた。頭が悪い、それは完全に味雲の思い違いだったのだろうか、己に問いかけていた。
「そして霧葉の葉でもあるね。これから挨拶の化身とでも名乗ろうかしら」
「一瞬でも期待した俺が馬鹿だったよ、やっぱ霧葉はバカだった」
感じ取った知性はなけなしの物、或いは馬鹿がどこかで見知っただけの知識だったのかも知れない。
感情の移ろいが激しい春の終わりに、ふたりはお手軽にイタリアンが食べられるファミレスへと、ガラスの自動ドアをくぐって足を踏み入れた。
ふたり向かい合って席に座り、味雲はメニュー表と見つめ合い悩んでいた。日頃から外で食べる経験を積んでいない彼にとっては何もかもが新しい経験として映っていた。
「そんなにメニュー表を見つめて……同じくらい私のこと見てくれてもいいのに」
「悪いな、普通に美人は苦手なんだ」
母の教育の賜物だった。家の掃除のついでに片づけたやり取りを思い返し、入れ違いに霧葉の姿が浮かんできて。母と話す度に頭の中を過ぎってしまう美人像を、自身の男としての意識を焼き尽くして、再びメニュー表に目をやる。悩んだ挙句にエスカルゴのオーブン焼きとアーリオオーリオを頼んでいた。
霧葉は明るい笑顔を悲しみの乗った目にしっかりと塗り付けて、マルゲリータピザとサラダを頼んで味雲の目を見つめていた。恐怖を呼び起こす黒い髪を伸ばした少女が向ける瞳は味雲としてはやはり落ち着かない。
「あのさ、あんまし見つめないで欲しいんだけど」
「そう……私はもっと見つめ合いたいのに」
それは互いの想いのズレ、霧葉は寂しそうに目を逸らし、メニュー表に目を落としていた。悲しそうな目に寂しさを上乗せされてはいかに顔に対して苦手意識を持っている味雲と言っても構わずにはいられなかった。無視できるほどに冷え切ってはいなかった。
「ゴメン、そんな貌しないでくれ。流石にツラい」
途端、霧葉は勢いよく顔を上げた。輝きに満ちて揺れる目は暗い感情の歪みに勝てなくて似合わない。それでも味雲は想う。霧葉には笑っていて欲しかった。
「美人でも三日で飽きるならぬ美人に三日で慣れて」
「倍以上手遅れなんだよな」
三日などとうの昔に過ぎ去っていた。それでもやはり、慣れることもない。美しい貌を目にする度に母の言葉が拳となって頭をかすめるのだ。これからもきっと食いついて蝕んで止まらないのだろう。感情の闇、それは霧葉には見えていないのだろうか。彼女の瞳は自身の心を捉えるだけで必死の様子。
ふたり無言でそれぞれの想いを抱えて湿っぽい時間を積み上げているそこに女性の姿が入り込んでいた。味雲が顔を上げると女性、レストランの制服にて仕事の意識を作り上げて立っている店員が淡々とテーブルに頼んでいた品を置いて、注文のメニューを確認して立ち去って行った。
「来た。アメソラ、分け合うから小皿取って」
「そうだね」
味雲が思い描いていた輝かしい爽やかな青春が、想像とは異なる形で色合いで差し込まれていた。
――ホントなら嬉しいんだろうな、普通なら
しかし、目の前にいる相手は意識していないどころか苦手な相手。
このままでいいのだろうか、このままの関係でいいのだろうか。味雲の内側で問いが放り込まれる、その一方で異なる感情が煙たい響きで充満して行った。良いのか悪いのか、それすら関係ない。
このままの関係ではいられない。
予感がそう告げていた。
「霧葉、どうやら俺には良くないモノが憑いてるみたいだ」
霧葉は味雲の瞳を覗き込み、瞳の色を飲み干しピザを噛み、飲み込んで次の口を開く。
「良くないモノ? なにも憑いてるように見えないけど」
味雲は思う。それが正しい反応、霧葉に頭悪いだろと言っている味雲だが今回ばかりは自身こそが頭の悪い発言をしているのだと分かり切っていた。変えようのない事実を認めつつ、言葉を繋いだ。
「霧葉のこと、どうしても好きになれなくてさ、想おうとする度に母さんの言葉が頭に響いて来るんだ」
それは言葉の鎖、声という音に心を乗せて届けられる呪縛。美人に対する愛は許されない。母の僻みと日頃からの言葉の積み重ねによって掛けられた呪いはいつまでも付き纏う憑き物だった。どんなに霧葉の魅力を知ったところで見た目が綺麗だという事実ひとつで否定へと堕ちてしまう。
「だから、霧葉を幸せにしてあげることなんて」
絶対に不可能、そう続けようとしたところで霧葉によって意見を遮られてしまった。
「だったら、その憑き物を落とすしかない」
一体どのように落とすつもりだろう。へばりついてくるドロドロとした質感の想い、粘り強く蝕む年季の入った価値観、それを乗り越える術なんてあるのだろうか。
「いい? アメソラはアメソラ、お母さんはお母さん。いい? ふたりは別人。これを強く想って自分の意見を貫き通して」
霧葉は身を乗り出しても届かない目で、距離の縮まらない関係の中、手を伸ばして味雲の頬に触れる。
想いは強い嫌悪感を生み出していた。母の呪縛が蘇っていた。それはどこまでも粘って心の表側に出しゃばり、味雲の感情を食い破り荒れ果てた心情風景を演出していた。
「その顔だと、まだまだね、残念」
霧葉の貌は本物の悲しみに覆われていた。味雲と分かり合うことは叶わないのだろうか。外から覆すことの出来ないそれは、内側で叩き潰し忘れ去るほかなかった。
「忌々しい呪い。せっかくのデートもずっと台無しになっちゃう」
味雲は頭が上がらない。霧葉に申し訳が立たなくて、得られる感情は昏いものばかりだった。
それから沈み切った食事を、心行くまでに味を楽しむことの出来ないそれを済ませてふたり半分ずつ金を出して店を後にした。
それからの歩行、ふたり並んで流れる景色を追いかけ続けていた。昨日おととい、一か月、なにひとつ変わりのない街並みは故郷の色をしていた。
「あのね、アメソラ」
霧葉の枯れた声は夏の始まりの昼下がりにはあまり似合わないものの、穏やかな明るみの中で潰れた女がそれでもなお心に秘めている強みを持っていた。
「どうしたのかな」
「まだ、私との関係で悩んでるよう。そう見えるわ」
それは間違いなかった。間違いなく悩んでいた、人としての心地よさと母からの躾と名付けられた鎖に縛られ続けていつまでも抜け出せないまま時だけが流れて日々はいつも終わりを告げていた。その度にこの想いが終わりを迎えることなく持ち越されているのだった。
「ゴメン、俺自身悪いって思ってるけど、やっぱり乗り越えられないんだ」
味雲の言葉をしっかりと聞いて何度か頷いて、霧葉は悲しみに歪んだ目を笑みの色に染めて行った。
「好きな人の声聞けて嬉しい」
もはや真面目なのかどうかそれすら分からせない反応に、味雲はただ呆れるばかりだった。
「人の悩みとか解決する気ある?」
問いかけではない。訊ねているように見えてそうではない、霧葉はそこを分かっていた。人の心の厄介なところを今まで幾度となく見て来たのだから。
「そうね……自分の悩みすら解決できない人が人の悩みなんかに踏み込めるわけ、ないものね」
「霧葉も悩むことあるんだな」
誰にも悟らせない、そんな姿勢を貫いていたのだろうか。しかし、その瞳からは滲み出ていた。霧葉は弱々しく笑って乾いた声で伝えていた。
「別にホントなら解決したはずのこと。ただね、どうしても想いは付き纏うの……過去の亡霊になって、どこまでも」
付き纏う想い、それはどのようなものなのだろう。いつまでも宿る感情は解決できていないのだろうか。終わらせたと思っていても、ふとしたきっかけで実体のないまま始まってしまう。それこそ夢をも見せぬ悪夢だった。
霧葉は一度大きな伸びをして、気持ちを切り替えてやたら明るい笑顔を浮かべた。
「あんまり構ってくれないようならペーパーナイフで自分の手首切っちゃうから」
「笑えない冗談はよして」
笑い飛ばすにはあまりにも重すぎる言葉、実行する気があるのかどうかは別として、やれることだけは間違いなかった。
空気の蒸した感覚を吹き飛ばす夏の始まりの乾いた空気はいつもとは、今までとは違った空気だったにもかかわらずよく馴染んでいた。
それからのこと、霧葉と一緒に眺める景色はどれもこれも新鮮に見えた。晴れていても空はアメソラの空、地面を歩く蟻の軍隊は日本の自衛隊と違ってすぐに規則を外れる私好み、川の水は人の手が入らなければ美しいのに。霧葉の言葉が味雲の感性に割り込んで、閑静を打ち破る。奇妙な慣性は味雲の心の揺れをなかなか整えてはくれなかった。
「すんごい白けるなあ」
「面白ければ何でもいいの、景色なんて見る人の心で変わるんだから楽しみ方に答えはないの」
誰の受け売りなのだろう。霧葉本人のものだとはどうしても思えなかった。日頃から頭の悪い発言ばかりして知性を感じさせない少女とあの言葉の色がどうしても合わないのだった。
公園の橋を、木で出来た年季を感じさせる橋の隅々を目にしっかりと捉えていた。所々コケを塗られて特有の緑に食われているようだった。
「どうしたの? 渡りたいの? 入場料は」
「取られてたまるか」
ついつい言葉を返してしまっていた。いつ思い出しても頭の悪そうな反応だったが、どこか煽っているようにも見えて不快感を教えてくれる。
「渡らないの? 帰れないわ」
この橋を渡らずとも回って車の通るアスファルトの橋を渡れば何ひとつ問題はないということ。それは分かりやすい反論だったものの、吐き出すことなく素直に従うことにした。
帰りたいのか帰りたくないのか、霧葉と話していたいのか話したくないのか。味雲自身にすらつかみ取ることの出来ないこと。好きなのだろうか、嫌いなのだろうか。
好きの想いの隙を重い記憶が這って巡って色濃く刻まれる。霧葉を見ていると母の言葉が蘇ってくるのだった。
――美人は人生で得ばかり、楽ばかり
目の前の彼女もまた、楽な人生を歩んできたのだろうか。だとしたら何故その目は悲しみに歪められているのだろうか。
人生で楽という道ばかりを選んでいて【遺されしモノ】を鎮めることなど出来るのだろうか。あの口ぶりからして強引な除霊を行なっていたとは考えられなかった。
大丈夫、この子は苦しいことも悲しいことも背負って生きてけるわ。何もない事の方が怖いしなにより……女の子は強いんだから
この前の【遺されしモノ】の件で霧葉が口にしていたことを思い出す。そう語る体験でもあったのだろうか、それでも瞳を悲しみに歪める何かがあったのだろうか、それとも全てが冗談で味雲をからかっているだけなのだろうか。
何も分からず何も見通せない。親しみを持って付き合って来る割にあの美しい少女は自身のことをほとんど語らないのだった。
味雲の中に芽生えた迷い惑える想いを己で抱き締めて木の橋に右足を踏み入れる。
赤いザラザラとしたレンガの地面を踏んでいた足が、靴越しに別の感触を捉える。木で出来た橋、普段そこでは子どもたちが川へと飛び込んで遊ぶ光景を拝むことが出来るのだが、今日はそうした姿のひとつも見当たらない。
一歩、また一歩、頑丈な橋を渡る。何故だか視界が揺れ始める。木で出来ているとは言えども、つり橋のような不安定な造りではなかった。
「どうなってるんだ」
味雲が思わず口にした言葉もまた、外へと出るとともに揺れて捻じ曲げられて行く。
味雲が目にしている景色は、分かりやすい程に歪んでいた。
それはもはや地に足を着けたまま浮いているよう、現実に心を着けたまま夢を見ているようだった。突然乱れた景色に慌て、恐怖を覚える。周囲を見回しながら歪み切った世界の中、外に歪められる声を上げてあの人の名を呼ぶ。
「霧葉、どこにいるんだ」
夢なのだろうか、現実だと思い込んでいる幻覚幻想の類いなのだろうか。果たしてイタリアンレストランのメニューの中に法外な材料を使った料理などあっただろうか、上にかかったチーズや生地に使われている粉に配合されていたものだろうか、これからどうなってしまうのだろうか、不安はますます大きくなるばかりだった。
「霧葉、霧葉! どこなんだ、どこにいるんだ、霧葉」
声を上げて橋を逆戻り。ぼやけた景色、目を悪くして霞んだそれとは異なる様を見せてゆがみを主張していた。歪みに歪み切った赤いレンガのザラザラした感触さえも歪みに蝕まれていた。
歪みに充たされた景色の中で、歪んだ木々が開けた地を囲む公園の中で、ひとりの人物を目にした。
「霧葉!」
目の前の歪み切った人物は顔からは性別すら判別できなかったものの、ホラー映画を思わせる長い黒髪が女性だと語っていた。あろうことか味雲にとっての恐怖の象徴が安心の証を努めていた。
その女は恐らく口を開いたのだろう。顔と思しきそこが曖昧に動いた。辛うじて目だと分かる歪みも少しだけ色合いを変えたように感じられた。
「アメソラ大丈夫?」
初めは安心を得ていたものの、慣れると共に本来以上の恐怖感が湧いていた。見るもの聞くこと全てが歪みに支配されていて不安を煽る眺めをしていた。視界を奪われる恐怖は知っていたものの、このような恐怖心は味雲にとっては斬新なものだった。霧葉は言葉を奏で、歪みを生み出し続けた。悲しみに歪んだ瞳の歪みすら分からない世界の中にて、味雲に対して顔を近付けて、言った。
「大丈夫、それは【遺されしモノ】のしわざだよ」
声は音を理解できる歪みとなっていた。不愉快な音がまき散らされて、おぞましい貌が目と鼻の先の所まで来ていた。
「ちょっ、怖っ」
安いホラー映画よりよっぽど怖いから。そんな言葉を紡ぎながら会話は進められて行く。
「大丈夫、私が癒してあげよう」
そう言っては歪んだ手で味雲を包み込もうとした。
「近づくな怖いって!」
言葉はより大きく響いた。不愉快で地獄のような響きを奏でまき散らされるのは味雲にとって絶対に避けたい事態。しかし、霧葉の行動がどう足掻いても不愉快を際立たせてしまう。
「さあて、私には見えてない。……これはアメソラに解決してもらうほかない」
そうした言葉がありがたくはあったものの、響きだけがどうしても不愉快を極め尽くしたもので味雲としては複雑な心境だった。
橋の柱に目を向けるものの、そこに書かれている名すら歪みに潰されて読み取ることが出来なかった。つまり、筆談は絶対に不可能だった。
その顔の向き、視線が柱の文字に向けられていたことを、そこに宿る感情を読み違えたのだろうか。霧葉は小さなバッグを開いてメモとペンを覗かせた。
微かに捉えたそれを味雲の口が止める。
「文字が歪んで見えないから言葉で頼むよ。ちょうど不快感が心地よくなってきたところ」
その嘘は表情からすぐにでも見破られてしまうだろう。霧葉が次に放った言葉によって確信を得た。
「嘘ね、顔が嫌がってる」
これしか手段がないんだ、そういうことにしておいてくれよ。その言葉が味雲本人の頭を不快な音の歪みで叩いていた。反響しない事だけが救いだっただろうか。
一体何が原因なのか、一体何処の何方の想いが如何なる響きを以て歪みをセカイにもたらしたのだろう。
原因を探るべく、大して広くもない公園の中を歩き始めた。歪みは酷くて直線歩行すらままならない。橋の手すりを掴もうとして持ちそびれていた。距離感すら分からないそこで、足をぶるぶると震わせ歩く。頑丈な橋で覚束ない歩き方、味雲にはここまで惨めな光景を作り上げた経験がなかった。
あまりにもたどたどしい歩き方に脚は更にもつれを抱え込み、あまりにも危なっかしかった。
「アメソラ、歩くの何年ぶり?」
煽るように疑問を放り込みながら霧葉はその手を掴んで抱き寄せる。柔らかで微かに温かな美人の身体に支えられ、味雲は情けないと自身を責め立て刺し込む強くて鋭い想いを抱いていた。
「すまない、ホント、ごめんよ」
謝る味雲を抱いたまま、霧葉は微笑むだけ。きっとあまり話してはまた不快な感覚に見舞われることを分かっているのだろう。敢えて声を出さずに橋を渡り、白みの強い花こう岩の地面、きっと人々に踏み荒らされ続けて薄汚れてしまっているであろう歪んだ白い景色の上で支えから外れて、大地に重みを委ねた。
そのまま揺れながら歩き、探り続ける。この視界の世界の出口はどこにあるのだろう。迷いの想いの行く先はどこへと続いているのだろう。
見回すものの、辺りにおかしな影は見当たらない。木に寄りかかっているわけでもなければ柵の向こうで立っているわけでもない。
どこだどこだどこにいるのだろう、出ておいで
口には出さずに念じて眼を凝らして。いったいどこに【遺されしモノ】はいるのだろう。
遊具のすべり台を見つめる。木の柱が立てられていて、縄を張って作られたうんていが味雲の目からは左側に伸びている一方で、正面にある滑り台。木の階段と床によって繋がっているそれ、その隙間に蹲る男子中学生の姿を見た。それは何もかもが歪んだ世界の中で唯一ハッキリとした姿、分かりやすい程の元凶の主張。紛れもなく彼こそがこの世界の中に、この時間流れしセカイの隙間に【遺されしモノ】なのだろう。
「どうしたの、大丈夫か」
味雲の視線は声は少年に向けられていた。その時だけはいつも通りの声で、味雲は確信していた。このセカイは遺された少年の想いによって創り上げられたひとりの世なのだということを。少年はその目を味雲に向けて、あどけない声で答える。
「お兄さん、俺のこと、視えるんだ」
話によればこの少年はずっとこの場にしゃがみ込んでいたのだという。動く気のひとつも起こることなくただ年下の子たちがはしゃいで遊んで育ってやがて消えて行く様を見届け続けていたのだそう。途方もなく感じられるその時間の中で分かったこと、それは誰にも見えていないということと迷いに包まれた声は届くこともなく空しく響いて薄れて消えるのみということ。
そうして考えることなく人々の行く末のひとひらを瞳の端で流し続けた彼、もう生きているのか死んでいるのか、その実感すら湧いていないのだという。
味雲の姿勢と言葉を見て取って、霧葉もまた、膝に手を添えて軽く腰を曲げて、味雲に問う。
「そこにいるの、どのような人? 私の心だとセカイが違い過ぎて視えなくて」
霊感や能力があっても視えるとは限らないのだろうか。味雲は少年の目を見つめ訊ねた。
「キミ、何があったんだ? どうしてこんなところで」
「さあ、なんでだろうな、なんでこんなところでいつまでも迷ってなきゃいけないんだろうな」
少年は口を開く。どれだけの時をそこですごそうとも年季が入ったのは姿勢だけなのだろうか。少年には記憶があるのか無いのか、味雲には判別も付かない。
「迷ってること、ホントウは、覚えてるんだろ。だからここに想いを遺してるわけだし」
心を日常にでも忘れてしまったのか、訊ねてしまった。途端に少年は味雲を睨みつけ、声を荒らげた。
「だまれ! お前自分が助かりたいだけだろクソが」
手のかかる相手、恐ろしいまでに怒り狂い、叫び散らしていた。相手は恐らく中学生、顔や声に触れては恐らく入学してそう長くは経っていないものだと予想できた。
少年は名も告げることなくただそこにいるだけだった。ただずっとそこにいるだけ。過去に遺された想いは時間だけでは解決できない。今を歩んでいないのだから。
「そんな、記憶すらないなんて」
「アメソラ、それは絶対に覚えてる。でないと……遺ることすら出来ない」
歪んだ音色で奏でられた霧葉の言葉に味雲はハッとした。そう、想いが残っていなければそこに遺っているはずがない。味雲の言葉だけで判断した霧葉の本性の一角を思うときっと普段の態度はその目を悲しみに歪めた過去との付き合い方のひとつなのかも知れなかった。
「頭悪いなんて言ってゴメン、身近な人のことすら分かってなかったや」
「そこの人さん、諦めて話してあげなさいな。もしかしたら悩みも吹き飛ぶかも知れないわ」
目の前の彼も中々の過去を持ってるわ。人生経験の浅さゆえに、霧葉の簡単な言葉に抗う術も持っていなかった。少年は観念したようで語り始める。
「学校でさ、いじめられたんだ。誰も味方なんていなくて家にも帰りたくなくなって、どこにも居場所がないような気がして、死んだんだ」
この世にこの歳でこの形を以て残る時点で明るい想いだけではないことなど予想はついていたものの、いざ聞いてしまうとどうしても眉をひそめてしまう。味雲には覚悟が足りないのだろうか、それとも受け止め方が重たかったのか、考えている場合ではなかった。
「親も話してごらんなんて言ってたけど、誰に俺の気持ちが分かるんだろうな」
味雲は大きく息を吸う。俯いた顔は影に覆われて、貌を見せない。そのまま、誰にも気持ちも想いも、その中身は見せないまま、ぽつりと言葉をこぼす。
「さあな、俺も誰にも分かってもらえないよ」
声を聞き、隣で虚空と味雲を見つめていた少女が口を覆って塞いでみせようと手を伸ばすものの、味雲の身は横にずれて、霧葉の手は空気を虚無を失敗という成果をつかみ取るのみだった。
「父さんだって話のひとつも聞かずにずっと俺の事殴りつけて来たし母さんもお構いなしに俺に余計な価値観を植え付けたよ。で、美人は苦手なのに霧葉はそんな気持ちを見てくれずに近寄りっぱなしだし」
味雲は少年に優しい瞳を見せて、続きを口で綴って行った。
「誰も俺のことなんか分からないし俺も誰のことも解んないよ。分かった気になってもそれはきっと心のパズルのひとピースを埋めただけだから」
どれだけの想いを共有したところで心の色なんて分かるものでもなかった。例えば目の前に旬を過ぎて葉桜となった木があったとして、それを眺めるふたりの感情は異なるだろう。同じ感想を述べたところでそれらはきっと瞳では区別のつかない微かな色の異なりがあるだけだろう。
「だからさ、無理に分かって分からせてなんて、要らないんだ。一緒に笑い合って一緒にそれぞれの色の差を気にせず悩んでくれる人がいてくれれば……きっといたんだろ?」
そんな人なんて、少年は首を大きく振ってその言葉を流す。思い返して、その場に誰がいたのか、追憶の映像を上から眺めるような他人を思わせる心境で想い、見つめる。
そこにいた生徒たち、少年に近付いて普通に笑ってくれる彼ら。
「ああ、あの時の美しさが……こんなに」
きっと今は彼の脳裏で過去に置いて来たモノを拾い上げているのだろう。そのセカイではきっと少年に対して笑いかけて優しく温かく接してくれる仲間が待っているだろう。
「みんな、ごめん、ちゃんと見てくれてたのに」
それはつまり、少年に周りが見えていなかったという話。いじめを行なうものもいたものの、優しい人だっていた。いじめの被害者の視界は勝手に狭まって、心は悲しみしか視なくて。それはまさに悲しみに迷っている現状の姿。それを打ち破り、少年は昇天していた。
「みんな、一緒に生きたかったよ」
そう、たったそれだけのこと。彼の願いはどこまでもちっぽけでありながらどこまでも壮大で、この世の何処よりも近くて遠い。そんなこの世界の事実の一面を抱きながら、その手を伸ばす。憧れだったものは、本人には見えていないだけでその時身をもって経験していた。
「なんだよ、あの時気付いてたなら自殺なんてしなかったのに」
後悔とは、後で悔いるもの。決して先回りして教えてくれるものではない。
少年は、歩いてあの輝かしかった日々へと一歩、また一歩、寄って進んでやがてはあの日々へと足を踏み入れた。
光に包まれて、過去に包まれて、遺された想いは当時の幸福の中へと帰って行く。現実と輝かしい過去の境界線の向こうの陽の中で、少年の身体は透けて消え去った。
「過去に帰って行ったな」
「アメソラは向こうには戻れない、あそこがあの想いのホントの居場所だっただけよ」
今を生きるふたりには手の届かない場所。味雲はその事実をしっかりと受け入れていた。そもそもの話、味雲にとっての最大の幸せはここにあった。今までと比べればというだけに過ぎない。苦手だと思っていた人との関わりが支えになりつつあって、どこか息苦しさと肩身の狭さに打ち震えていた。
「これがアメソラに救われた魂の想いかしら」
霧葉が指した方へとつられるように目を向けたそこはうんてい。縄によって作られた遊具の始まりの場所に、命の終わりをしますロープがぶら下がっていた。首つり自殺。彼は自分しか見ていられなかったがために自分勝手な道を、悲しみから逃れるために自ら死を選んだのだった。
その行為によって悲しみを他の人にばら撒くということすら気付かずに。
「自殺なんて一番いけないわ。仲のいい人たちや親がどんなに悲しむことか分かってなかったのね」
きっと彼が向かう先は、人々を不幸に陥れた罪を清算するための地獄。霧葉の言葉は重々しい響きを纏っていて、味雲の中に異なる息苦しさを与えていた。
「ごめんなさい、つらかったでしょう? 私だって分かってあげることは出来ないけど、似た想いを話して聞かせてあげることくらいしか出来ないけど」
「ありがとう。充分だよ。俺こそさっきはごめんよ」
霧葉に対してまでも分かっていないと言い放つ様子はしっかりと聞かれてしまっていたに違いない。湧いて来る罪悪感が喉を詰まらせた。霧葉は微笑んで、味雲を抱き寄せた。悲しみに歪んでいるせいだろうか、その笑顔はいつ見ても弱々しかった。
「いいわ、寧ろよくやったね。『分かるよ』なんて言ったら私の中での印象が下がるところだった」
人さまの顔色を窺いつつ人間が遺して行った想いと向き合わなくてはならないという重みに耐えきれるだろうか、それもあの変人呼ばわりされている人の機嫌を。これからも訪れるそんな未来を味雲は噛み締めて、潰されてしまいそうだった。
「美人、そろそろ克服できたかしら」
味雲は静かに力なく首を横に振る。勿論すぐにでも伝わったその表示、霧葉は味雲を抱き締めている腕に力を込めた。柔らかくありながらも存在を示すような芯の強さを感じさせる熱い愛に、味雲はのぼせ上ってしまいそうだった。
「ふふ、私スタイルも完璧でしょ」
「……大きいよな」
霧葉の笑顔が心なしか明るくなったような気がした。
「ちゃんと分かってるのね、その辺の分からず屋の男だと普通とか言って来るもの。周りちゃんと見ろって思うわ」
不満は現実離れした理想を幻想なのだと気が付かない年頃の男の子たちに向けられていた。
味雲は思う。これからもずっと一緒に生きて行くのだろうか。好きと苦手の狭間でいつまでも削られる心は無事に彼女を受け入れることが出来るのだろうか。
あの少年が起こした居場所を見いだせないために起こした迷いの空間は既になくなって世界は元通りになったにもかかわらず、味雲の心は未だに深い霧の中に迷っていた。
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