伯母はまるで別人のように憔悴していた。

 化粧を濃くして隠しているようだが、隠しきれていない。

 苛立った時の癖である、右手で左手の親指をこする仕草を、清佳を出迎えた時からずっとしている。

 秘密を取り返せと頼まれた時と同じように、テーブルに向かい合わせに座ると、かつてとの差は一層際立って感じられた。


「梓さん……大丈夫ですか」


 光と小野寺と共におおまかに話の段取りはあらかじめ決めていて、あまり余計なことはしなでおこうと考えていた。だが、清佳は挨拶の後、まずそう問いかけてしまった。


「余計なお世話」

「でも、とても痩せていますよ。くまもすごいし。ちゃんと食べられていますか? 心配をかけてばかりの私が言うのも何ですけど……」

「分かってるじゃない。そういうことを言うくらいなら、さっさとあいつらを追い出して来なさいよ」


 金銭や生活の面で言えば、伯母にはとても助けられている。

 その時には忙しなさのせいで鬱陶しさの方が勝ったが、事故の直後も、様々なメンタルケアを手配してくれていた。

 人物としては今もあまり好きにはなれないが、悪いばかりの人ではない。

 ただ、歯車が噛み合わなかった。

 大切にしていた妹夫婦の喪失、事故の後始末とその娘の世話。不倫相手の息子による脅迫。それらが立て続けに起こった。

 同世代の男複数、しかも不法占拠をしている人間の中に潜入して、脅迫のネタを奪うという無茶な頼みを、清佳があっさりと引き受けてしまったことも、ある意味では伯母の不幸の一つだったかもしれない。清佳が自分にはできないと突っぱねていれば、それを姪に持ちかけた事実は残るが、そこまでで済んだ。

 今日、清佳は、伯母にとっては敵に近い立場にある。

 だが、お互いに潰し合い、お互いに破滅するという結果にはしたくない。

 外で待っている五人を思って勇気を出し、口を開いた。


「すみません。今日来たのは、真逆のお願いをするためです。今日、脅迫をしていた笠原光と、小野寺秀人を連れて来ています。二人とも、梓さんに迷惑をかけていたことを謝罪をしたいそうです。――ただし、これからは光熱費等は自分たちで払うから、どうか三年間、五人であの建物に住まわせてほしい、と」


 光と小野寺と打ち合わせした通りに喋ることができている。やや、小野寺と光を責めるように。仲介はするものの、自分は伯母の味方だと印象づけるように。


「……はぁ?」


 伯母が清佳の言葉を飲み込むのを待って、続ける。


「お知らせするのを忘れてしまい、すみません。決まったのが直前で。さすがに、いきなり訪ねても迷惑だということは理解してくれて、今、外で待っています」

「待って。もう来てるの?」

「はい。経緯は少し複雑なのですが……。夏休み中、色々と揉め事があって。私が梓さんに連絡を送った後に、彼らから、謝罪をしたいと申し出があったんです。そして、長くご迷惑をかけた分、謝罪をするなら早い方がいいと。今回の私の帰省に合わせることになりました」

「な、何その心変わり。高校生とは言え、男が二人でしょう。何か企んでいるんじゃないの?」

「シェアハウスにいる人の中では、二人とも落ち着いている方なので、実力行使に出る心配はないと思いたいですが……。まあ、本命は、三年間、あの建物に住まわせてほしいという頼みの方だという気がします」

「そんなの、聞ける訳がないでしょう。いくら光熱費払われても、そもそも寮にしようと思って買ったものなんだから、たった五人に使わせる訳にいかないの。謝罪なんてもう遅い。帰らせて」

「そうですよね。私もそう思います。でも……メールでもお話したのですが」


 伯母の味方になりながら、揺さぶる。


「私も、もう……。梓さんの頼みを続けることができません。いくら梓さんを困らせている人だったとしても、人を騙しながら生活するのは、私には苦しいみたいです。脅迫をしていた二人はともかく、他の三人は何も知らなかったので、私にも良くしてくれて……」


 ほとんどが本心だから、言葉はなめらかに出る。


「今までも報告してきましたが、梓さんの秘密を取り返すこと自体が、かなり難しいですし……。すみません。梓さんにはたくさん助けてもらっているのに、何も返せなくて、本当に申し訳ないんですけど。何か、別の方法を考えてもらった方が、良いと思います……」


 頭を下げると、頭上から深いため息が聞こえた。


「最初っから期待なんてしてなかったけど。案の定、無駄な時間だったってことね」

「すみません……。でも、他に、私にもできることがあれば、協力します。何か案はありませんか」


 反応を見るに、次の案は考えていないらしい。それはそれでどうかと思うが、指摘したら揉めることは明らかなので、言わない。

 今日はとにかく下手に出て、あくまで清佳は伯母の味方だと安心させる。


「……どうしてもお困りなら、警察に頼む方が良いのではないでしょうか。謝罪が本心からのものでなく、ただの見せかけであるなら、梓さんの秘密が明かされるリスクは依然として残りますが」

「それは……」


 伯母は言いよどむ。迷っている。その反応はむしろ都合が良かった。不倫相手である小野寺父とともに社会的に破滅してでも、絶対にあの建物を取り返すと伯母が決意してしまえば、打つ手がなくなってくる。

 土壇場になって自分を見捨てた小野寺父を、現在の伯母がどう思っているかは未知数だった。復讐のために自爆を選ぶこともあるかも知れない、とプラントポットでの話し合いでは危惧していた。

 迷いがあるのなら、やりようはある。

 清佳は伯母の秘密に関しては、今も知らないことになっているので、それ以上は言わずに少し黙った。あまり自分ばかりが一方的に喋れば、誘導を感づかれる恐れもある。

 光と小野寺に教わったことを思い出しながら、伯母の反応を待つ。

 伯母が紅茶を飲むのに合わせて、自分も紅茶を飲む。


「小野寺……」


 呟きの意味は分かっていたが、勘違いしたふりをする。


「小野寺秀人がどうかしましたか?」

「いえ。小野寺と、笠原。そう、あの二人が……。首謀者が分かったのなら、そいつらの部屋を漁ったりすれば、何か出てくるんじゃないの? マスターキーは渡してあるでしょう」

「それが、いつの間にか鍵を変えていたので、鍵は使えませんでした。そうでなくても頭の良い人たちです。自室のような、簡単に見つかる場所には置いていないと思います」

「それでも、確認くらいしなさいよ。入る方法なんかいくらでもあるでしょう」

「そう、ですね……。言う通りです。すみません」


 盗聴器だって自室には仕込めなかったのに、自室を荒らすなど空き巣まがいのことは、到底できない。しかも、入る方法はいくらでもあると言うが、具体的には何を想定しているのか。

 言いたいことはあるが、従順に徹する。


「既にあの二人には、私が秘密を探っていることは、ほぼバレてしまっていると思いますが……。帰ってから、やった方がいいですか」

「もういいわ。無理なら余計なことしないで」

「……はい」


 再び伯母は沈黙する。

 長い沈黙だ。


「おかわりをいれましょうか。紅茶がいいですか?」


 伯母のカップが空になっているのに気がついて、癖で声をかけた。


「あ……え、ええ」


 ついでに自分の分も入れ直そうと、今入っている分を飲み干して、キッチンで紅茶をいれて戻った。

 妙にじっと見られている。


「ミルクとか、入れますか?」

「結構」


 先程の態度が嘘くさくならないように、心持ち大人しめの仕草で、清佳も紅茶を飲む。


「アンタ、家政婦としてはうまくやってるの?」


 想定にない質問だった。だが、世間話の範疇だ。


「うまく……かは分かりませんが。慣れたとは思います。少なくとも節約の知恵は、ついたと思います。……こっそり、食費の余りから梓さんにお金を返すことができないかと思って、頑張っていたりもしたのですが」

「メールに書いてたわね。でもそんなの、焼け石に水でしょう」

「夏場の電気代があんなにかかるとは、思っていませんでした。お母さんに……」


 うっかり口を滑らせた。

 空気が冷える。

 だが、ここまで言ったら、言わなければかえって妙だ。


「エアコンの温度下げすぎ、って怒られたの、思い出して。こういうことだったんだなって、今更反省しました」


 十六回目の夏までは幾度となくあった、母との他愛のない会話だ。

 十七回目である今年は、自分が言う側になった。

 余計な話をするなと言われそうだと、先に謝ろうとした。


「それ、私も言ってたわ」

「え?」


 伯母は頬杖をついた。視線の先は、どことも知れない。


「子どもの頃……まだうちの親が生きてた頃のことだけど、部屋が同じで。姉妹だからとか言う訳の分からない理由で、明日佳が下げると、私まで怒られたから。親に言われてたし、私も明日佳に言ってた。……子どもには言うのね。自分はだらしなかったくせに」


 眼前に浮かぶ情景をそのまま述べるように、つらつらと言った後、伯母はふっと言葉を切った。


「まあ、ありきたりな会話よね」

「……そうですね」


 笑ってはみたものの、涙が落ちた。


「どこの家でもありますよね、こういう会話」

「な、泣かないでよ。この程度の……思い出話で」


 伯母の言う通りだと思いながらも、服のそでで涙を拭う。


「すみません。この程度の思い出話を、梓さんと、ずっとしたかったんです」


 本当に、心から、求めていた。

 プラントポットに行くまでは、両親について口にすると酷く空気が冷えて、話すことなど考えられなかった。当然、伯母からなごやかな雰囲気で母の名前が出てくることも、考えられなかった。


「仕事の人とか、お友達だった方とは話せないじゃないですか。エアコンの温度がどうとか、そんなどうでもいいような話」

「……分からなくはないけど」


 呆れた言い方だが、少し声が優しく感じた。


「さっきの、おかわりを、って言い方。明日佳にそっくりだった」


 く、と胸が締め付けられる。


「こういう話も、誰かに言う程のことじゃないけど……私以外、誰も知らないってのも、まあ。もどかしい感じは、するわね」


 先程向けられた妙な視線の意味を知った。

 涙がとめどなく落ちる。


「梓さん、お母さんの話するの、嫌なんだと思ってました」

「はあ? 何で」

「嫌そうな顔するから」

「私が? 自分のことじゃなくて?」

「私は嫌なんて思ったことないですよ。悲しいとは……思ってましたけど」


 言いながら、すれ違っていたことを察した。恐らくは伯母も自分も、悲しくて、お互いに、はた目から見れば嫌そうだとしか思えないような顔をしていたのだ。

 気づいてみれば当たり前の話だった。清佳だっていまだにすぐ泣いてしまうのに、清佳よりも長く付き合ってきて、妹と仲の良かった伯母が、悲しくないはずがない。

 伯母の態度が酷く見えていたのと同様に、自分もまた酷く見えていたのだろうと、実感した。


「すみません。梓さんのこと、誤解していたみたいです」

「……誤解でもないんじゃない。明日佳とあの旦那について話をするのは構わないけど、アンタと話すこと自体は別に、好きではないから」

「あぁ……そうですか」


 幸か不幸か分からないが、嫌悪を向けられることには少し耐性がついた。


「ま、嫌いって程じゃなくて、良かったです」

「……変な子。間抜けな顔しないで。気が抜ける」


 いくら清佳が変なことをしても、今の伯母から気を抜くことはできないのではないかと思うが、言ったら神経を逆なでしそうなので言わない。

 内心ではそう憎まれ口を叩きながらも、ほっと息をつく。伯母と殺伐としていない話をすることなど諦めていたけれど、その諦めは尚早だった。逆恨みで憎まずにいて、良かった。

 だからと言って、気を緩める訳にもいかない。


「梓さん」

「ん」

「話を、戻しますが……脅迫をした二人と、あの元シェアハウスと、他三人。どうしますか?」


 わがままだとしても、ここで気持ちを押し通し守らなければ、きっと少しずつまた歪んでいってしまう。不可能なら不可能と諦めることを覚悟しながらも、できることはする。

 打ち合わせ通りに、あまり押しつけがましくならないよう、ゆっくりと提案する。


「……もし、良い案がないのであれば……恐れながら申し上げますが……。詳しい事情を知らない私が言うのも何なんですけど。二人からの謝罪を受けて、要望を聞くのも、ありなんじゃないかと思うんです」


 こうするべきだと言ったり、強引に事を押し進めるのではなく、あくまで、伯母自身に決断させることが重要だそうだ。最悪、今日は直接交渉までいかなくてもいいと言われている。


「ずっと、際限なく搾取し続けられるよりは、三年という期限があった方が。それに、最も早く卒業するのは脅迫をしていた二人です。卒業すれば生活の時間が変わって、同じ家に住んでいたとしても、自ずと繋がりは希薄になります。案外、三年保たないということも、あったりしないでしょうか」


 必死だと思われないように、声が上ずらないように、ゆっくりと言う。遅すぎるくらいでいいと光には言われた。

 沈黙をできる限り長く埋めたい気持ちもあって、だらだらと喋る。

 伯母はずっと眉間にしわを寄せて、考え込んでいた。


「見ている限り、喧嘩も頻繁にありますし……。三年間って言っても、そんなうまくはいかないんじゃないかなぁ、とか」

「そうね――」


 不意の相槌に、思わず息をひそめた。

 伯母は深くため息をつく。


「でも、三年は長すぎる」


 否定的な口調だ。

 だが、清佳にはそれが光明に思えた。

 伯母の言葉は裏を返せば、三年未満ならば、一考の余地があるということだ。

 それから伯母はしばらく、愚痴まじりの懸念を清佳にこぼした。どれもプラントポットで話した内容で、一つ一つに答えたくなったが、「そうですよね」「確かに」と、共感するに留めた。今日の清佳は伯母の味方だ。

 うまくできたかは分からない。

 だが、二杯目の紅茶を飲み切る頃、光と小野寺の二人を呼ぶように言った。

 まだ終わりではないとは分かりつつ、笑顔になってしまいそうになるのを抑えて、清佳は二人を招いた。


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