交渉
悪魔の囁きは聞かれなかったようだが、キスは当然バレた。そもそも隠されてもいなかった。咲坂は小野寺の手によって問答無用で羽交い締めにされ、立たされた。
「何だよ。ちょっとくらいいいだろ。金も巻き上げずに許してやったんだからよぉ。健全な男なんだよこっちは」
「いい訳ないでしょ。途中までは一応サヤカのためにもなってそうだし、ギリギリ不問にしておいてあげようと思ったのに、台無しだよ。人の心を弄ぶな」
「弄んでねぇわ。お前らが面倒くせぇまんまの状態で寄越しやがるから、四苦八苦してたんだよ。むしろ讃えろ。献上しろ」
「やめてよね〜。その面倒くさいところがかわいいんだから、サヤちゃんは」
「ややこしくなるから光は黙ってて。僕は、ちゃんと時間をかけて元気になれればいいなって思ってたの。こんなショック療法みたいな方法じゃなくて」
「あ、あの。祐希くん……大丈夫だから……」
祐希にかばわれるのが、咲坂の言葉以上にいたたまれない。
それに、小野寺が立たされているせいで、そばに誰もいなくなってしまったのも、少し心細かった。今は一人になりたくない。さすがにキスは困るものの、他人のぬくもりはまだ感じていたい。
祐希に無視され、膝を抱えてしょんぼりしていると、目が合ったムラサキに手招きされた。
「あぁもううるせぇなネチネチと。そもそも檜原は文句言ってねぇだろ。出しゃばんな。お前ら檜原に対して過保護なんだよ。保護者か。保護者会か。そういうのも虐待になんだぞ」
「口が減らないなぁ……」
「減らないなぁじゃねえ。はなせ。つーか千歩譲って祐希はいいとしても、お前らに責められるの納得いかないんですけど。言っとくけど、こいつが許しても、オレはお前らのこと許してねぇからな。オレもまあまあの悪夢見たからな。縛られたまま息絶えてる感じの夢とか、殴られてるところ見るしかねぇ夢とか。個別でぶん殴るから覚悟しとけよ」
「それはごめんね」
「ハハ。まあそれくらいは甘んじて受けるかねぇ。弱めでよろしく~」
「そんでこいつらより納得いかねぇのがムラサキなんだけど」
「何だよ」
「祐希先生! あいつもやってます!」
「俺は同意取ってるから。な?」
頭を撫でながら、同意を求められた。否定はできないが恥ずかしさもあり、うなずきは曖昧になる。
「オレよりそいつのがタチ悪いだろ! 知能犯だぞ! 不公平! 贔屓!」
「うるさい」
「もー……」
あからさまに面倒臭そうな目をした祐希は、テーブルの上に置かれたままになっていた、清佳のマグカップを手に取った。
「サヤカ、これ温め直すついでに、一旦キッチンで待っててくれる? ちょっとこいつら今、教育に良くない感じだから」
「う、うん……でも」
「でも?」
「一人やだ。誰か一緒に来てほしい」
「……かわい」
「おい先生、陥落しないでくれ。さっきはああ言ったけど、お前にまで陥落されると、止める奴がいなくなる」
「仕方のない野郎共だな〜。サヤちゃん、ベアくん貸してあげるから、一人で行っておいで」
テディベアとマグカップを渡され、半ば強制的にキッチンに送り出された。
電子レンジにマグカップをかけて、ぼんやりとテディベアを揉んでいると、ほろほろと涙が落ちた。
苦しくはない。
むしろほっとしている。
心が軽い。
あんまりにも軽くて、足元までふわふわしてしまう。
ずっと、怒りと恐怖を原動力にして生きていたから、何を寄る辺にしていいのか分からないのだと、テディベアの顔を見ながら自己分析する。
どうしたらいいのだろうと首をかしげ考えて、最初に思い浮かんだのは、ムラサキと描いた絵だった。
次に、お菓子と引き換えに結ばされた、祐希との約束を思い出す。
たまに尊敬できないけれど、結構好きな先輩たちもそこに並べる。
時々優しい、お母さん思いの友達も心に置く。
そして、両親を思う。
死んだ人間としてではなく、生きていた頃の両親の生き方に、思いを馳せる。
電子レンジが軽快な音を立てて止まった。ホットミルクを手に取って、その温もりに思わず笑う。
目元を温めてから、そろそろいいかなとリビングに戻ると、また清佳の席がなくなっていた。
「サヤちゃん、こっち。厳正なる選考の結果、サヤちゃんのお守りは光さんがやることになりました」
「あ、あぁ……」
ムラサキと光が咲坂寄りに一つずつ詰めていっただけで、光の隣、ソファの端に空間があった。
最初に座ろうとした床の隣でもある。
初心に戻った気持ちで、ソファに腰を下ろした。テディベアを奪われた。
「いや〜面倒くさ。俺、子どものお守りとか施設でやり過ぎて、もううんざりなんだけど」
「光さん、今の私を以前の私と同じと思わないでください。怒らせたら噛みつきますよ」
「自己肯定感上がると噛みつくようになるのかよ。犬志望?」
「なれるならなりたいに決まってるじゃないですか。あんな愛くるしい生き物」
「え〜サヤちゃん犬派? 飼う?」
「飼えるなら飼いたいところですが、私の面倒も見れない人に犬を飼えるとは思いませんね」
「あ?」
「クソ。何か普通に負けた気になるから黙れ、光。そんで檜原、お前も意見出せ」
「意見? 何の?」
「今後の方針と対策について。プラントポットをどうするか。お前はどうしたいか」
意表を突かれて固まったが、少しして、嬉しくなった。
「……私は、正直、梓さんが大切。性格は合わないし、必ずしもいい人ではないけど、両親を知ってる人だから。だから、梓さんが困っている今の状況は、変えたいと思う」
思い出の共有はできなくても、梓が記憶を持っていることに変わりはない。自分の記憶は両親の全てではなく、永遠でもないから、他人が持つ記憶もできる限り残しておきたい。
「そうか」
「でも、みんなのことも、梓さんと同じくらい大切。無理に退去させたくはないし、私自身もここにいたい。……だから。みんな大満足は無理だろうけど、何かいい折衷案が見つかればいい――見つけたい。そんな立場かな」
裏切りものともスパイとも非難されない。清佳の希望は、一つの意見として、受け入れられた。
小野寺が胸の高さで挙手した。
「こちらは、五人中三人は退去拒否。ただし三人とも、条件の譲歩は可能、といったところ」
「可能も何も、そもそも、脅迫のネタがもう賞味期限切れらしいじゃねえか。このままじゃいよいよ、強硬手段に出るしかねぇからな」
「賞味期限切れと言うか、僕のせいだね」
昨日今日で傷が治るはずもなく、小野寺の顔には今も、絆創膏が貼られている。
小野寺が自身の父親を糾弾したことによって、面倒事を厭った小野寺父は、伯母を切り捨てた。清佳個人にとっては喜ばしいが、プラントポットの行方を思うと、不都合な展開だ。
こうして考えると、小野寺は事なかれ主義らしい振る舞いではあるものの、行動する時には誰よりも後先考えない節がある。
「そこはどっちでもいいんだよ。つまり、折衷案とやらがあるのなら、こっちとしても悪くねえってことだ」
「じゃあ、お互いに、プラントポットの継続に向けて、梓さんを説得する、という方向性で」
「問題は方法か?」
味方がいる。一人で悩まなくてもいい。伯母と五人、どちらも大切にしたいという思いが通じる。
そう思ったが、即座に幻滅させられた。
「今のところ、ちゃんと金出して借りる、檜原清佳を人質に取る、って案が出てる」
「ちょっと。人質は強硬手段じゃないの」
「狂言誘拐ってのがあるだろ」
「私はいいけど、梓さんにこれ以上心労をかけないでください。……私が人質になったところで、効果あるか分からないし」
「サヤカ、人質に関してはケージくんが言ってるだけだから。無視していいから。正式に借りる方はどう?」
気を取り直し、提案を検討する。
「笠原。さっき、何か言いかけてなかったか」
「急かさないの。俺調べだけど、そもそもがここは、改装されて、ゆくゆくはうちの学校の野球部だかの寮になる予定だったらしいのよ。それが現状丸っきり潰れてる訳だから、今の部屋数のままでも最大十五人? 家賃を多少安く設定するとしても、俺ら五人が払える金じゃ、到底届かねえ額かな〜って」
「同意です。私も、節約で極力出費を抑えてはいましたが、それだけでも大変で……。難しいと思います。加えて言えば、仮にお金の問題が解決するとしても、その金額が予定していた利益より上回りでもしない限り、感情的な面から拒絶されると思います」
「それなら、例えば」
先程の光へのうながしを含めても、まだ二度目の発言ではあったものの、ムラサキからはどことなく積極性を感じた。
話を聞く限り、ムラサキがプラントポットに居続ける理由は、あまりなさそうだ。きっかけはスランプを解決しようとした光からの誘いであり、今はスランプから脱している。
けれど、一緒にいようとしてくれている。
「あと十人連れてきて、ここをアパートとして経営してもらって損をゼロにしつつ、さらに金額を上乗せしたら」
「……一旦聞いておくけど、上乗せするお金はどこから来るの?」
「俺の仕事の売上」
「なし。ムラサキさん一人が大変じゃない。十人連れて来るって言うのは……うーん。正直、梓さんの反応は分からないけど……」
「嫌じゃね? 面倒くせぇよ、十人集めるのも、増えるのも」
「あと、結局僕らがここにいれるのって、一番長くても、僕が卒業するまで……なんじゃないの?」
ムラサキの意見は突っ込みどころは多かったものの、固まっていた思考をほぐした。
「お金以外で支払うのはどうかな。例に出して悪いけれど、サヤさんみたいに、理事長の手駒になるとか」
「手駒はちょっとどうかと思いますが……。何となく考えてみたい感じはしますね。例えば、学校に貢献するとかどうでしょう」
「貢献? ボランティア?」
「野球部への注力って、究極のところを言えば、学校の評判を高めるためでしょう。ぱっといい感じの案は思いつきませんけど、野球部以上に名声を得る、みたいな」
「光、お前、何か頭いい大学とか目指せよ。で、受かった暁には「理事長のおかげで合格しました」とかパンフで言ってやる、って、理事長をそそのかせ」
「雑に無茶言うな~。いくら光さんが頭が良くても、理事長にベットさせられるかどうかは別問題よ? もっと頭いい奴がいるし、俺に賭ける根拠を提示できない」
脅迫者が光であることを隠し続けるとしても、発覚した時のリスクを考えると、取りにくい手だとこっそり思う。
「ただ、そうねぇ。その手はありかもな」
見ると、光の口の端はつり上がっていた。
「今はまだそこまでの価値はないけど、うまくいけば一財産になるから、今のうちに恩を売っておいた方がいい――そう紹介できる奴が、知り合いに一人いる」
「詐欺の常套句っぽいですね」
「できれば原石って呼んであげて」
「……恐らく、俺のことを言いたいんだろうが」
「恐らくなんて謙遜するなよ、マイディア」
わざわざ身を乗り出してまで、斜向かいに座っているムラサキの肩をばしばしと叩いている。
「なるほど。ムラサキさんの将来性を担保に?」
「ま、今の紫純の仕事については知られてねぇだろうがね。国際的に有名な画家二人の息子って肩書きの方は、理事長にも伝わってるだろうし、はったりとしてはそこそこだろ。北条紫純の原点としてアトリエをちょっとした名物に、とか言っていい感じのイメージをうまく植えつけられれば、勝算なくもないんじゃねえ?」
「……協力はするが。そう一筋縄ではいかないだろう。他人を舐めすぎだ、笠原」
ムラサキは否定的だった。
清佳も実は、諸手を挙げては賛成できない。
「自分でも提案しておいて何ですが、将来の可能性や、現在存在しないものを担保にする、ということ自体が、現状のままでは厳しいように思えてきました……。梓さん、精神的にもかなり追い詰められている様子なので、もう少し、何か、明確な。あるいは、短期間で成果が見えるような……」
「分からん」
「ごめん。ちょっと話変わっちゃうんだけど、話していい?」
もちろんとうなずくと、祐希は意を決したように言った。
「期間、僕が卒業するまでじゃなくていい」
この中では祐希だけが一年生だ。仮に卒業を限度とすれば、最も長くプラントポットにいることになる。
「どうせみんな出ていっちゃうんだし。三年間じゃなくて、一年半なら……何とかならないかな」
「いいの、祐希」
最悪だったという言葉を聞いたのは、昨日のことだ。小野寺の気づかわしげな言葉に、祐希は唇をとがらせる。
「嫌だけど。……帰省してみて、前よりはうまくやれそうかなって、思ったから」
良いことなのか悪いことなのかは、誰にも分からない。
清佳には詳しい事情を知りもしないのに、当てつけを言った負い目がある。無理をしなくてもいいという言葉が、口から出かかった。
だが、正面から祐希の目を見たら、言えなくなった。
会ったばかりの頃は幼い印象が強かったのに、今は大分雰囲気が変わって見える。
それに、プラントポットにいる期間に明確な区切りをつけることは、かなり有効そうな一手でもあった。
「……檜原、ムラサキ」
咲坂が間延びした声で言う。
言葉の先は、予想できた。
「オレもまあ、さあ。今すぐは嫌だけど、そのうちなら、実家、帰ってやってもいいんだけど。お前らは?」
つまり、小野寺と光が卒業するまでの、あと約半年。
ムラサキは答えない。じっと清佳を見つめてくる。
先をゆずってくれているのだろう。二対一になって、清佳が答えにくくならないように。
マグカップを両手で包む。
正直に言えば帰りたくはない。伯母との暮らしには、あくびをすることもはばかられるような、息のしづらさを感じていた記憶しかない。
だが、清佳も変わりつつある。
母の身内ではなく、自分自身の血縁として、あらためて接し方を探ってみたいような気持ちが、今はあった。
「うん。私も、いいよ」
「俺も構わない」
嬉しさとさみしさが入りまじった小野寺の顔が、斜向かいに見える。
隣では光が、居心地悪そうにテディベアの顔を握り潰している。
「いや……それってつまり、俺らの卒業を期限にするってこと? いいの、君ら、それで」
「言って主犯はお前らだし。妥当じゃねえ?」
「そうかもだけど~……主犯である俺らが責任取るから、他は見逃してくれって方が、心象いいんじゃねえかな~……とか」
「多数決! 最低ライン、来年の三月いっぱいで賛成の奴、挙手」
四対二になった。小野寺と光は決まり悪そうにしていた。
来年の三月いっぱいとなると、希望的観測は多分に含まれているだろうが、見える景色が変わってくる。
「……もちろん、期待を持ちすぎるのは良くないと分かってはいますが、交渉次第で何とかできそうな気がして来ました。あと、水道光熱費をこちらで払うようにするとか、もうひと押しで」
「そう言えばサヤちゃん、理事長のところに行くのっていつ?」
出し抜けの問いかけに、反射的に答えた。
「えーと、次の土日に戻ると、連絡してはあります」
「お忙しいこと。秀人さんや、空いてるかい?」
「空いてなくても空けただろうけど。幸い、何もないよ」
「あっ、え……」
伯母との交渉は自分一人でするものだと、当たり前に思っていたことに、今気がつく。
「じゃあ、期限、水道光熱費、ムラサキの将来性、俺らの謝罪。大体その辺を軸にして、もう少し詰めていきましょうかね〜。夜遅くなりそうで悪いけど、喫緊の問題なんで皆さん、今少しのお付き合いをば」
幼い子どもが言う駄々のような無茶であることは分かっている。
交渉がうまくいかなくても、プラントポットで過ごした思い出は、ずっと自分を支えてくれるだろう。そんな諦めの言葉も用意している。
けれど、そう簡単には諦められない。
まだ思い出にはしたくない。
一人ではない日常をもう少し続けたい。
まばたきをして、こぼれかけた涙を目の中に閉じ込めた。
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